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1 空箱住宅

 一歩。たった一歩、踏み出せなかった。

 そんな男の話。

 いや訂正。そんな男と、愉快なみんなの、話――。


「灰次、起きてるかー」

 玄関からのんきな男の声が聞こえる。

 二階建ての大きな一軒家。そこにひとり暮らし。家具は少なく、がらんと広さだけが目立つリビングのイスに座り続け、外出はしない引きこもり。それがこの今村灰次(いまむらはいじ)という男だ。黒い髪の毛は手入れもされずに伸び放題。そしてその名前の通り、上下とも灰色のスウェットを着こんでいる。とても外出に堪えうる風貌ではない。

 そして、その灰次の名前を呼び、返事も待たずに靴を脱ぎ、リビングに入ってきた男が、宮本伊織(みやもといおり)。灰次の兄貴的存在。すっきりと整えられた短髪で、赤紫色のジャケットに緑のカーゴパンツという、街によくいる若者の服装が、灰次との激しいギャップを生んでいる。

「伊織くん」

 眠りから覚めた顔を上げ、灰次は伊織を見る。

「やっぱり寝てたな。昼だぞ」

「俺の勝手でしょ」

「お、そういうこと言っちゃっていいのかな?」

 そう言うと伊織は手に持っているビニール袋を高く掲げた。中にはカップラーメンやら菓子パンやらの食料が入っている。

「んん……」

「俺はお前のライフラインなんだぞ」

 伊織は得意げな表情で灰次を見下ろしている。

「わかったよ。まったく伊織くんにはかなわないな」

 灰次はわざとらしいため息をつく。

「別に、お前がここから出ればいくらでも食べ物は買えるだろ。金はあるんだからさ」

「それはそうだけど」

「お前が何でこの家から出ようとしないのかは知らないけど、たまには外に出ないと健康に悪いぞ?」

「庭には出てる」

「そうかいそうかい」

 伊織は腕時計で時刻を確認すると、ビニール袋をテーブルに置いた。

「じゃそろそろ行くわ」

「仕事大変だね」

「普通はみんなそうなの。これだから引きこもりは困るよなあ。ははっ」

 笑いながら伊織は家を出て行った。

「普通は、か……」

 灰次はひとりきりのリビングのイスの上で、再び眠りについた。


 高校を卒業。と同時に、灰次は家に篭った。

 両親は違う土地に暮らしている。その両親が運良く資産家であるために、灰次が自由に使えるお金は大量にある。高校時代のひとつ先輩に当たる伊織がいろいろと世話を焼いてくれるため、家を出る必要も無い。トイレと風呂以外は1日中イスに座り、ただ毎日を過ごす。会話する相手は伊織だけ。そんな生活が2年も続いている。

 これでいい。灰次はそう思っていた。今の生活に満足していた。


 次に灰次が目覚めたのは、次の日の夕方だった。

「腹……」

 テーブルに置きっぱなしのビニール袋を見る。手を伸ばし、がさがさと中を確認する。

「……溶けてるじゃん」

 袋入りの棒アイスだったものが入っていた。

 面倒そうに立ち上がり、ビニール袋の中身を冷蔵庫にしまい始める。

「いらないか」

 アイスだったものを袋ごとゴミ箱に投げ入れた。

 一通り整理がつき、パンを持ってテーブルに戻ると、灰次はそれを食べだした。ひとりで。

 パンを咀嚼する音。袋のがさがさいう音。鳴るのはそればかり。

 いつも通り。

 孤独とか、寂しいとか、話し相手が欲しいとか、そういう気持ちは抱いていない。

 しかし厭世的かというと、そうでもない。自分の現在の生き方、人生、ライフスタイル、満足しているのである。

 灰次は少なくとも自分でそう思っている。

 もう二年もこれを続けてきた。今さらそのことを考えること自体も無くなっている。

「……はあ」

 食べ終わり、灰次はイスの上で膝を抱えた。眠るときの体勢だ。


 次の日、朝から伊織が来ている。灰次が座るイスの隣で、テーブルに手をつき、ふたりは話し込んでいた。

「灰次、せっかくこんな大きい家に住んでるのに、ここと風呂とトイレしか使ってないなんてもったいないと思わないか?」

「別に俺がこの家選んだわけじゃないからなあ」

「うーん」

 伊織は何か考えている様子だ。

「どうしたの?」

「いや、もったいないと思うんだよ、俺は」

 伊織が軽快な身のこなしでテーブルを回り、灰次の向かいに移動する。灰次はそれを目で追う。

「そう? でも正直俺ひとり、この部屋だけあれば十分なんだよ」

「なんで親はお前ひとりのためにこんな一軒家をよこしたんだ?」

「さあ?」

「何かに使えないかな……」

 伊織は小声で呟き、腕時計を確認している。

「時間大丈夫?」

「今日はそんな忙しくないからな。余裕」

「……伊織くんってさ、何の仕事してんの? いつも教えてくれないけどさ」

 伊織の表情が若干険しくなる。

「引きこもりには関係ない話。それに外界のことは聞きたくないんだろお前」

「まあ……ね」

 外界。灰次にとって、自分の家から外のこと。

「外界なんてひとつも良いことない。って、お前いつも言ってるじゃないか」

「そうだね……そうだった……」

 しばらく沈黙が続いたが、伊織がそれを破った。

「んじゃ、そろそろ行くわ」

「そう。じゃ」

「良いことなんてひとつもないつまらない外界に戻るとするよ」

「悪かったよ……」

 伊織のわざとらしい口調に、灰次はしぶしぶ謝る。

 その謝罪を聞いたのか聞いてないのか、伊織はそれきり何も言わず、家を出て行った。


 考えてみれば、確かになぜ両親は自分ひとりのためにこんな一軒家を用意したのだろう。灰次は気になっていた。

「……ま、いいや。別に」

 すぐにどうでもよくなってしまったらしい。

 灰次は膝を抱え、目を閉じた。


 ――遠くで猫の鳴き声が聞こえた気がする。

 猫、しばらく見てないな。当たり前だ。外に出てないんだから。

 そういえばテレビも見ていない。リビングには置いてないから。

 二階の部屋にひとつあった気がする。でも別に見たい番組も無い。そもそも今どんな番組をやっているのか全然知らない。

 最後にテレビを見たのはいつだったか。自分の知っている芸能人はまだテレビに出れているのだろうか。

 自分の知っている芸能人、とは、誰だ。思い出せない。顔はぼんやり思い出せる気もするが、名前が出てこない。

 こういう時よく携帯で人に訊いたりしたな。

 携帯。自分は携帯電話なんてものを持っていたのか。忘れていた。

 どこに置きっぱなしにしているのだろう。もう長らく見ていない。

 どうでもいい。どうせ使えなくなっているだろうし、使う目的も相手もいない。

 伊織くんの電話番号、知らないな。メールアドレスも。

 今さらだな。

 あ――!


 灰次は気づいた。

 自分は今外界のことを考えていると。

 久々のことだった。

 灰次は、頭に痛みを感じた。

 しばらくぼんやりしてから、もう、眠ることにした。

「……やっぱり」

 家の外で猫が鳴いている気がした。


 灰次は夢を見ていた。

「咲きました」

 真っ暗な視界の中、聞き覚えのない少女の声がする。

「花が、咲きました」

「よかったな」

 自分の声だ。明るい口調のような感じがする。

「ありえない、ありえないだろそんなの!」

 唐突に知らない男の声。急に場面が変わったようだ。その声は怒っているように聞こえる。

「あたしたちは、こうやって……しかな……よ……」

「……が……いるか……よ……すき……」

「あ………………!」

 次は若い女性ふたりの声。ところどころ聞こえない部分がある。

「君はなぜ生きている?」

 女性が何と言ってるのか意識を集中しようとしたところを、また別の知らない声に質問された。

「答えられるかい? 君はなぜ生きているのか」

「じゃあ、君はなぜ死ぬ?」

「そう……君……だ……いる……死ぬのだ……」

 知らない声が矢継ぎ早に質問を投げかけてくる中、灰次は何も言えずにいた。

「すまなかったな」

 伊織の声だ。

「伊織くん?」

「すまなかったな」

「え……?」

「すまなかったな」

 伊織の声は、同じセリフを言い続けた。

「すまなかったな」

「いいよ……もう」

 夢の中の灰次が勝手に返事をした。

「感謝してるよ」

 夢の中の、まるで別人のような灰次が、勝手にどんどん喋りだす。

「……のおかげで、こ…………だもの……ほんとに…………」

 だんだん聞こえなくなっていく。

「……………………さ…………のため…………」

 自分の言葉を必死に聞こうとしていると、急に後ろからはっきりとした声が聞こえた。

「ニゲマショウ!」

 あまりに不意で、一瞬意味がわからなかった。

「逃げましょう! 早く!」

 再び同じ声。最初に聞こえた、少女の声だと気づいた。相変わらず視界は真っ暗。

 突然、底知れぬ恐怖感が夢の中の灰次を包み込んだ。

「!!!!!!!!」

 様々な声や音が大音量で流れ出した。

 男の声、女の声、子供の声、老人の声、犬の鳴き声、猫の鳴き声。

 笑っている、怒っている、泣いている、歌っている。

 車の走る音、机を引きずる音、ガラスの割れる音。

 恐怖で動けない。

 早く、動かなければ。灰次はなぜかそう思った。

 しかし動けない。

「ありだろ」

 突然静かになった。

 恐怖感も嘘のようになくなった。

 猫の鳴き声だけが聞こえた。

 猫。

 猫とは。

 猫。

 猫とは。

「……猫?」

 瞬間、暗闇だった視界に景色が現れた。

 雪が降っている。道だ。街灯がともっている。夜だ。

 足元にダンボール箱がある。中に、少女がいる。白いシャツに白いカーディガン、白いスカートの下には白いタイツ。白くないのは、サラサラの長い黒髪と、街灯の光を受けて黒く輝く大きな瞳ぐらいなものだ。

「にゃおー」

 その子は猫の鳴きまねをしている。頭に白い猫耳の飾りをつけている。

「にゃにゃーん」

 かわいいな。と灰次は思った。

 手を伸ばし、少女の頭を撫でた。

「にゃーん」

 喜んでいるように見える。

「…………!」

 少女が何か言ったようだが、全く聞こえなかった。

「…………!」

 少女の声が聞こえそうになったところで、夢は唐突に終わった。


「頭いてえ……」

 灰次は頭を抱えた。夢の内容は全然覚えてない。

「腹……」

 立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。

 外で猫の鳴き声が聞こえた。

 イスに座り、食事をとる。

 食事が終わってしばらくすると、伊織がやってきた。

「伊織くん」

「よう。食料は足りてるか?」

「うん。大丈夫。ところでさ……」

「どうした?」

 灰次には気になることがあった。

「最近、この辺、猫……増えた?」

「猫?」

「最近よく鳴き声を聞く気がしてさ」

「んー、いや別にそんな大量発生なんかしてないだろ。たまたまじゃないのか」

「そう……」

「珍しいな。外界のことを気にするなんて」

「別に気にしてるわけじゃ」

「ダメなんて言ってないぞ? 気になるなら気にすればいい」

「……うん」

「まさか、意地張ってるのか?」

「え?」

「意地張って、引きこもり続けてんのか、って」

「違うよ! 意地とかじゃあないよ……!」

「そうか」

「じゃ、行くわ」

「うん」

 伊織は出て行った。


 灰次は思った。

 最近、何かが変化している。と。

 普段考えないようなことを考えている。と。

 なぜだろうと考えた。考えたところでまた頭が痛くなった。

 眠ることにした。


 次の日、昼頃に伊織がやってきた。

「誰?」

 灰次は伊織の後ろにいる白衣の男を指差した。

「スティーブンだ」

 伊織はごく普通に、さも当たり前だという空気感で答えた。

「いやあの……え? 外国人?」

「日本人だ。見ればわかるだろ」

 スティーブンと呼ばれた男は確かに日本人の顔をしている。

「……え、で、何しに?」

 灰次は動揺を隠せない。

「これからスティーブンはこの家に住む!」

 伊織は力強く言ったが、灰次の反応は無し。それに構わず伊織は続ける。

「一階の奥の部屋、空いてるだろ。そこ使わせてもらうぞ」

「いや、なんで!?」

 灰次は数年ぶりに大声を出した。

「思いついたんだよ」

「何を!?」

「大丈夫、俺に任せろ!」

「意味わかんないよ!」

 叫ぶ灰次にスティーブンが近づいた。

「……な、なんですか、スティーブン? さん……」

「……そうか」

 スティーブンは灰次の言葉には耳を貸さず、彼の目をじっと見つめている。

「はい?」

「君、ふさわしいな!」

「へ?」

 急に大声を出すスティーブンに面食らう灰次。

「なるほどな! そうかそうか! あっはっはっは!!」

「伊織くん……」

「使ってない部屋をスティーブンに貸すだけだ。問題ないだろ」

「えぇ……」

 事態を飲み込めてない灰次にお構いなしで話を進めようとする伊織。

「どうなってんだよ……」

 外で、猫の鳴き声が聞こえた気がした。

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