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リサイクル図書

作者: 明宏訊

幼児はルールを守ることによって、

ある種、一定の悦びを得ることを知り、

それによって、

はじめて進んでゲームに興ずるのだと、

心理学の専門家が言っていた。

出典は、

とある児童心理学の専門書。

装丁から、ほかに名状しようのない、年代物臭が嗅ぎ取れる。

ビニールで本をくるむという悪習、

それは特定の時空に閉じ込めてしまうという、

よくない結果を生みだす、

そういうことが行われていなかった、

古き良き時代の、

書籍だった。


なにぶんに古い本ゆえに、

今はそれが通説とされているのかわからない。

図書館の隅で見つけたリサイクル本。

図書館員はおそらくこれが誰の目にとまることも予想できなかったに違いない。

期待すらしていなかったにちがいない。

廃棄処分になるのが関の山だと思っていたにちがいない。

しかしその人物の目には留まった。

きっと誰にも拾われることはないだろうと、

哀れに思ったわけではない。

その人物は、本というものに人格を擬する習慣を持っている。

だが、今回はそういう理由で、その本を手にしたわけではない。

本に穿たれた文字に惹かれたのだ。

それは赤い色だった。

けっして、奇をてらっていたわけでもないが、

目に染みる印象を受けた。

その人物は、

あたかも万引き常習者が無意識のうちに商品に手を伸ばすように、

本を手に取っていた。

代価を払わずに果実を手にすることに、

多少なりとも罪の意識を感じたことは事実である。

それほどまでに本には価値を見出した。

一般大衆は、おそらくこう見なすだろう。

捨てられた汚い猫とそれほど変わらない。

箱の中でいかにみゃあみゃあ泣いていようとも、

仔猫ですらなければ、

よほどの猫好きでなければ、見向きすらしないだろう。

猫はいずれ死んでしまうだろう。

ただ、本は死ぬことはない。

いくら埃がかぶろうが、

文字が時間によって千切れてしまおうが、

もともと呼吸をしていないので、

それが止まる心配もない。

本と猫とでは、

対象に求めるべき価値判断がそもそも異なる。

本が示す表題は、人に少なからぬ印象を与える。

ただ、

いまの時代を物語る、

極端なヒステリー的傾向からいって、

書店に並ぶことのない文字が赤々と脳裏に刻み込まれた。

本当に赤い文字だったのかよく覚えていない。

ただそういう印象だけが残っている。

ただただ、

表紙の女の子がどうなったのか、知りたいだけなのだ。

彼女は笑いとも付かぬ笑いをこちら側に向けていた。

凍りついた笑いとしか形容しようがないが、

本人は精一杯、

笑顔を向けているのだろう。

その年齢で逆上がりができるとはたいしたものだ。

30年前の鉄はやはり30年前の鉄だった。

30年前はいまと鉄の融点は違ったし、

30年前は亜鉛と銅を混ぜ合わせると鉄になった。


坂上りの少女の笑顔は、けっして、その時代から解放されてはいけなかった。 写真家はけっしてこのような作品を公表すべきではなかったのだ。あくまでもその時代だけに隔離されるべきだった。写真という表現方法は、未来に何かを掠め取らせる。写真家はけっして責任を取ることはあるまい。写真家が存命中なのか、知る由もないが、仮に死の床に寝ているとしても、数ある仕事のひとつにすぎないとしかみなしていないだろう。悪くすると、たまたま開かれた手帳の中に残された記事によって思い出す。いわば、その程度の留め置きにすぎないということにすぎない。もしかしたら、意識の表面に現れることすらないのかもしれない。

 

本を手に取った人物は、帽子をかぶっていた。

彼が属する時代ではほとんどの人間がしないような代物だった。

丸い帽子。

ちょうど麦わら帽子を小さくして固めたような形状。

一昔どころか、

その人物が生まれるずっと以前、

当時のサラリーマンが被っていたような帽子。

鍔によって顔半分を、

周囲から、

まるで女の人のするベールのように隠していたので、

誰も彼の表情を読み取ることはなかった。

少なくとも、

その場にいなかった写真家は彼を認識すらしていなかったであろう。

一見して、

若い紳士という印象は、

いかに古臭かろうとも、

受け止める人、共通の視点ということができるだろう。

彼は手袋をしていたので、

指紋が残ることはなかっただろう。

しかし、

こうして、あられもない笑顔は時空を超えて露出してしまった。

爬虫類のように一見、冷たい、あるいはのっぺらりとした視線は、

顔貌のはっきりとした目鼻立ちと、

じつに対照的だった。

その目つきは、

目の当たりにしていることの重大性を認識しているのか、否か、

どちらとも言えることが、

この、

変に老成した、

若い紳士をうまく形容していた。

写真機というものが産声を上げたばかりで、まだまだ普及していなかった時代、

当時の人物写真をみると、

どれを見ても現在よりも大人びて見えるが、

そう言ったほうができとうかもしれない。

彼は、一見、無表情そうだったが、

そのじつ、

肌の ある種の性質によって内部にたぎった感情を、

外に表出することができなかっただけかもしれない。

内部に溜められた感情は、

出口を求めて暴れるぶん、

内臓や血管の至るところを傷つけるだろう。

責任者である写真家は、

その痛みのどれほどを過去に想定したであろうか。


生まれ落ちた時空において、

多数派に身を置くのに必要なスキルを、

備えていなかった。

それを哀しさとして表現することすら、

彼女にはできなかった。

写真家は、

余すところなく、

赤裸々に写しとってしまっている。

そこにこそ、彼の罪の所在がある。

それを意識して行っていない、

おそらくはただ生きんがための、

仕事、生業としてこなした、という以外の意識は彼の内に見いだすことは困難と言わねばならない。


逆上がりの少女、

永遠に止め置かれるべき時空から、

思いもしない手段によって弾き飛ばされた。

二重の不幸は、

受け止める方に、

それほどの覚悟の技能もなかったことだ。

彼は本を手にした瞬間に薬指の第二関節を脱臼してしまったのだ。

なんとう情けなさか。

覚悟もなしに、

ただ表題が醸し出す、

懐かしい空気のみに引かれて、

考えもなしに手を出すからだ。


撮影時、

少女がいたえんのすみに、

置かれた石ども、

そいつらは彼女らが世話をするように仰せつかった、

お花畑と運動場の、

境とする使命を帯びていたが、

その石が笑っていたことを、

写真家は気づかなかった。

ついでにいえば、

園のなかで彼女を被写体とすべく、

指名した院長にしても、

石に笑われるだけの価値しかないし、

そんなことに気づくべくもなかった。

彼はただ 生業のために、

その園を管理していたからだ。

おそらくは、

彼の衰えた頭脳のほとんどは、

定年後の生活をいかに過ごすのか、

ただそれだけに集中していた、

最後の出勤の日、

帰宅した彼は老妻に離婚を突きつけられるにもかかわらず、だ。


おそらく、逆上がりの少女は長じても、

離婚することすらできないだろう。

結婚すらできない人間が離婚できるはずがない。

それが道理というものだろう。


あるいはそれを哀しむ、もちろんそれは可能だろうが、肌の外に出すことが難しい。だから、園の長や職員たちが無頓であったとしても、致し方のないことだろう。彼らや彼女らは自分たちが人間を管理しているなどと思っていない。たとえ、尽力をしたとしても、あくまでもその対象は犬か猫に毛がついたていどにすぎず、あるいはそもそも人間が人間を管理することは元々、無理な話にすぎない。


時間に、

ある一定した時空に隔離されることは、

彼女も、本来ならば求めていないのかもしれない。

厚くなった外皮とはいえ、

その中に籠った魂の輝きを奪えるものではなかった。


怪我をした指の痛みに耐えながらも、

どうにか、

本が床に落ちるのを、

青年は防いだ。

やっとのことで持ち帰った、

その本を、

けっきょく、2,3回しか開くことはなかった。


ルールを守ることに喜びを感じることで、幼児はゲームを興ずることになる、という一文で満腹になってしまった。後は表紙を飾る、逆さまになって笑いかけている少女の写真。もしかしたら、凍り付いたような笑顔は、あくまでも表題に引きずられたことが理由にすぎなかったのかもしれない。後は経年変化は残酷なもので、無邪気な少女の笑顔をも悪魔の哀しい笑顔に変えてしまったとも考えられる。


青年は、人非人たる写真家が少女を閉じ込めたのは、特定の時空ではなくて、

あの表紙だったのではないかと、考えた。

ならばきっと成仏したことだろう。

今頃は、新たな肉体を得て、

本当の笑いを誰かにみせているかもしれない。



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