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凛として玲瓏  作者: 森戸玲有
第一章 出会い
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第一章 ➀

 神の存在など、莉央は信じていなかった。

 瓏国(ろうこく)においての神は、初代国王のことを示すからだ。


 はるか昔。国王が天下統一という欲望を抱き、沢山の人間を殺して、築き上げられたのが瓏の国なのだ。

 そんな血に塗れた存在を神と呼ぶのは、何だか嫌な感じがした。

 それでも、莉央がこうして極秘に寺院を訪れるのは、城にいたくないからだ。

 一応、寺の方には、母の病気快癒の祈願のために、参詣している貴族の一人娘として話をつけている。

 城にいるはずの莉央がこんなふうに出歩くことが出来るのは、部屋で父の喪に服しているということにしているおかげだった。


「おや、どうされたのです。その格好は?」

「馬でここまで来ようと思ったら、転んでしまって……」 


 莉央は、懸命に笑顔を作りながら言った。

 さすがに家臣から上着を借りたとはいえ、「転んだ」なんて、無理やりな言い訳である。

 坊主が莉央の言葉を信じてくれるかなどは分からないが、それでも、温和な丸顔の老僧・未海(みかい)は、長い黄色の僧服をひるがえして、莉央を奥の本堂に通してくれた。


「貴方は、活発であられるようですな。母上殿のご病気を一刻も早く治したいというお気持ちは理解できますが、貴族の子女がそのようなお姿では妙な噂がたちますぞ」

「ええ……。反省はしております」


 莉央は神妙な面持ちを何とか維持した。

 信じてくれたかは分からないが、とりあえず騙されてくれるならば、有難い。


「ともかく、国祖の健やかな御顔を拝して、心を穏やかにされていかれると良い」

「はい」


 適当に頷きながら、先導する未海の小さな背に従う。薄紅の下穿きが床を摺った。

 後ろに続こうとする家臣たちには、ついて来るなと目配せした。

 城に戻りたくないというのが莉央の本音だったが、寺は領民にとっては聖域だ。特にこの寺院・宋鄭寺(そうていじ)は広くはないものの、由緒正しく、庶民の信仰も篤い。

 普段、寺の中は非公開で、領民は年に数回の開放日にしか立ち入ることが出来ないのだ。

 莉央がそんな寺の本堂を、独り占め出来るのは、この寺を莉央に紹介してくれた女官が個人的に未海と知り合いだったおかげだ。

 さすがに暗殺者達も、この地を血で汚すような真似はしないだろう。


 ――私がここにいる間に、代わりの馬車を用意してくるように。


 そう、莉央は家臣達に言い渡した。


 もしかしたら、そんな常識が通用しない連中かもしれないが、そんなことを気にしていたら、きりがない。

 ぎしりと音を立てながら、未海は広い縁側を厳かに進む。

 庭に面している澄みきった池には、莉央の立ち姿がくっきりと映りこんでいた。


 一つに束ねていた黒髪は、何とか自力で結いなおしてみたものの、恐慌のあまり、充血している瞳はどうしようもない。

 ここは安全だと、言い聞かせても、立ち止まってしまったら、そのまま倒れてしまいそうだった。


 廊下の突き当たりに達したところで、立ち止まった未海が恭しく扉を横に引くと、闇の中に蝋燭に照らされた金色の像があった。


「心ゆくまで、拝していかれよ」


 莉央が部屋の中に入って行くのを見届けてから、未海は扉を閉めた。

 そして……。

 莉央は一人きりになった。

 暗がりに、ぼんやりと蝋燭の灯火だけが落ちていた。


(無傷……か)


 小さな部屋の中央に敷かれている御座に腰をおろした瞬間に、莉央はようやく自分が生きているという実感が湧いてきた。

 ほっと一息吐く。途端に、体の力が抜けて、その場に崩れた。

 肩を抱いて、小さくなると、嗚咽が漏れる。

 好きなのは、国祖ではなくて、この空間だった。

 城には常に気が抜けなくて、自分が自分でいることができない。


(いや、そもそも私という人間自体、何処にもいないのよ)


 ―――莉央は、領主の娘などではなかった。

 元は、親の知れない孤児だった。 

 物心つくか、つかないのか年頃の時に、施設から城に連れてこられたのを覚えている。

 莉央はそこで、領主の一人娘の「莉央」となった。

 本当の名前など、もはや分からない。

 死んだ領主の娘が生きていると見せかけるための道具となってから、十年以上。


 とうとう、領主にまでなってしまった。


(大罪だ)


 肩から指先にかけて、ぶるぶると音を立てて震えだす。

 さきほどの恐怖と、自分のしていることの愚かさが体中を駆け巡った。

 死にたい……と思ったはずだ。

 矢で射られた、あの瞬間。

 莉央は、すべてを諦めていた。

 だけど、今ここにいる莉央は死にたくないと小さく泣いている。

 元々、死にたいと望めば、いつだって死ねる環境にあるのだ。

 ……なのに、のうのうとこうして生きているのは、莉央自身が生きていたいからだ。

 怖がりで、弱くて、ちっぽけな自分。

 でも……。

 この姿を誰かに見せることは出来ない。

 領主としての(さい) 莉央(りお)は、高潔で自尊心の強い女だ。

 そう振る舞うように、躾けられた。

 だから、莉央が生きるためには、生涯それを演じ続けなければならない。


 ……だけど。

 涙は止まらない。


 暗がりに歪んでいる床を凝視して、莉央はこみあげてくるものを懸命に飲み込んだ。

 うなだれたままの首が疲れたので、顔を上げると、未海が穏やかになれると言った、大きな国祖の顔があった。

 憎いほど健やかな顔をしている。


(お前に何が分かる?)


 ありったけの罵声を浴びせて、蹴り飛ばしてやろうかと本気で思った。

 その時だった。


(……あれ?)


 その両脇の蝋燭の炎が微妙な風に揺れていた。


「…………えっ?」


 驚いた拍子に、しゃっくりが出た。

 無事だった右手の袖口で涙を拭い、深呼吸すると、ようやく微かな音を耳が受け止めた。


(……何?)


 最初、人の声かと思い、危ぶんだ莉央だったが、やがてそれが何らかの楽の音色だと分かると、緊張が解けた。


((そう)……?)


 宋禮領では、キサという木を男の身長ほどにくりぬき、その胴の部分に十ニの弦を張り、指で奏でる楽器のことを「筝」と呼ぶ。

 莉央も公主の嗜みとして、少し習った経験があるので、すぐに分かった。

 しかし、莉央は決してうまいほうではない。

 むしろ、下手ですぐに、やめてしまったくらいなのだ。


(だけど、……これは)


 堪えきれずに、笑みが零れた。

 何か音楽を奏でているつもりなのだろうか、所々で詰まったり、音が割れていたり、耳が痛くなるような高音になったり……と、要するに、演奏者は下手なのである。

 一体、何処で弾いているのだろう。


(こんなめちゃくちゃな演奏をする人間を、一目で良いから見てみたいわ)


 莉央は好奇心に動かされた。

 しかし、廊下はここで終わっていたはずだ。

 何処から音色は聞こえているのだろう?

 近くに誰かいるのは確かなのだが……。

 立ち上がった莉央は、国祖の像の腕の部分を叩いてみた。

 反応はない。

 莉央は夢中になった。後先も考えず、国祖の像を撫でたり、押したりする。


 そして。


「ごつ」

 ……と鈍い音がして、ようやく我にかえった。


(ああ。一体、私は何をやっているの?)


 だが……。


「未海様ですか?」 


 低い男の声が何処からか伝わってきた。

 音楽を奏でるより、喋っていたほうが良いのではないか……と思えるような綺麗な声だった。 

 莉央は、一歩後退した。

 心底、驚いたのだ。


(気付かれた……?) 


 いや、何よりこの人物を莉央自身が捜していたのだから、十分、有り得ることだったのに、莉央は今まで、まったくその可能性を考慮していなかった。 


「未海様……ではないのですか」

「…………」


 莉央が返事をしないことで、男の方がその可能性を打ち消してしまったらしい。


(逃げる?)


 いや、それはそれで不自然だろう。

 莉央は、今のところ身分は隠しているが、この寺院でやましいことは何もしていない。


「わ、私は参拝者です」


 莉央は震える声で告げた。


「おやおや。まさか参拝者がいらしたとは、知りませんでした」


 男は笑い混じりに言った。


「下手な楽の音をお聞かせしてしまいましたね。失礼」

「いえ」


 下手だと自覚しているのならば、まあ良かった。


「私、何度もこちらには参詣しているのですが、確かここは突き当たりの部屋でした。貴方は何処にいらっしゃるのですか?」

「貴方が眺めている国祖の像の下にいます」

「下!?」


 莉央は刹那その場から飛び退いた。


「おおっ。元気の良い足音だ」

「もしかして、隠し部屋とか?」

「ええ。つい先日から移り住みましてね。息を潜めているのが結構苦痛で」

「…………はあ」


 男は自然の流れのように語っているが、何処か会話が不自然に感じた。


「……でも、移り住むって?」


 何度もここに莉央は来ている。もしも、以前から知られていたとしたら、恥ずかしいどころの騒ぎではない。


「ああ。変な心配しないで下さいね。耳を澄まさない限り、上の物音は余り聞こえませんから」


 つまり、耳を澄ましていれば、上の物音を聞くことが出来るということなのではないか?


 ……何だか、ことごとくいろんなことがずれている男だ。


「実は大病を患っていましてね。まあ、実家からこの寺に隔離されているのです」

「そう、なのですか」


(一体、何と返したら良いんだろう……?)


 今まで家臣と明け透けに話したこともなければ、他人を労わるような言葉をかけたこともなかった。莉央は、本音の交流を他人としたことがなかったのだ。

 とりあえず、男には見えないだろうが何度もうなずいてみる。

 でも、それは沈黙に等しかったらしい。

 男は勝手に先読みして、再び言い訳めいた説明をした。


「ああ、もしかして警戒されますか? いえいえ。大丈夫ですよ。さすがにこの距離では伝染(うつ)らないでしょうから」


 どうやら伝染する病気らしい。

 話には聞いたことはある。

 貴族の家で伝染病者が出た場合、寺に多額の金を払って、面倒を見てもらうことがあるらしい。

 僧は俗世を捨て、人に奉仕することを目的としているのが建前なので、隔離と称して放逐するには丁度良い場所なのだ。この男もそういった理由なのかもしれない。


「大変ですね」


 何とかひねり出した言葉に、男はすぐさま返答した。


「いえ。決してそんなことはありませんよ。好きなだけ寝ていられるのは、私が病持ちだからです。貴方だって、何か事情があるのでしょう。真っ昼間から、こんなところにこもっているんですからね」

「私は、母の病気快癒を祈願して」

「おおっ。それは大変だ」

「……ああ。まあ、切実です」


 しかし、大げさに同情したわりには、男はまったく莉央の母などには、興味を持たなかった。


「すいません。申し遅れていました。私の名は祥玲(しょうれい)と申します。姓は実家の許しがないと名乗れないのですけど。はははは。宋禮(そうれい)祥玲(しょうれい)。なかなか笑えるでしょう?」


 ……いきなり自己紹介を始める。

 ちなみに、爆笑しているのは、祥玲だけだ。


「―――祥玲様、ですか」


 莉央は口の中で繰り返して、再びその場に座った。


(……さま、だなんて)


 自分よりは年上だろう男に対して、庶民の子女が呼び捨てにすることは出来ないと配慮したのだが、ずいぶんと滑稽な演技だった。

 領主が領民に敬称をつけて呼ぶことは皆無に等しい。


「…………私は、莉央と申します。……………………莉央というんです」


 莉央は膝の上で組んだ手に視線を落とし、寂しく微笑した。


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