第五章 ②
暗い牢から急に外に出された志雄は、目を慣らすのにひどく時間をかけてしまった。
地下牢に入れられていたのは短時間だったはずなのに、膝ががくがくと震えて、自分の足だという感覚がなかなか湧いてこない。
これから、どうすべきか……。
死ぬつもりだったのだ。
長く莉央のもとにいれば、志雄ほどエスティアに近い人間はいない。
絶対に、祥玲に怪しまれることは分かっていた。
いつ潮時にしようか、ずっと考えてはいたが、昨夜、莉央を祥玲のもとに送る際、香鈴に尾行されていることを知り、志雄は降参したのだった。
(私は、こんなふうに、今までもずっと見張られていたんだな……)
気づいてしまった途端、何もかもどうでも良くなって、宋鄭寺に入った。無抵抗で捕まったのは、何もかも捨て去りたかったからだ。
もう殺せばいい。
未来を捨てて、自棄になっていた。
それなのに……。
何がどういうわけか、莉央の手によって助けられてしまった。
(……あの人はまったく、どうして)
側近として、そばにいる機会が長かったはずなのに、祥玲と同様、志雄には莉央の気持ちがいまいち分からなかった。
豪胆なのか、臆病なのか……。
(莉央は、本当に変な人だ……)
最初の出会いは、「立ち聞き」だった。
斎公・莉央と大宰・王英が普段誰も通らない廊下で、ひそひそと話している声を聞いてしまった。結局、すぐに王英に見付かり、志雄は王英の子飼いとなった。
実は、この時、二人の会話がどんなものだったのか、志雄はちゃんと耳にしたわけではない。
最初こそ、この二人は恋仲なのかと勘繰っていたくらいだ。
しかし、王英に仕えるうちに、志雄は莉央の正体に察しがついた。
元々、志雄には宋禮に居場所などなかった。
莉央の正体を、エスティアに売ることは、物的な証拠がなくても、充分、良い手土産になった。
……志雄には、仲間がいた。
志雄だけ、幸運にも、武官の道に進むことが出来たが、仲間達は皆不遇だった。
エスティアと宋禮の混血児。
実力で官位を勝ち取ることが出来る武官はともかく、文官は採用試験すら受けることが出来なかった。農民になるにしても、エスティア人には土地が与えられない。商人は客商売なので、まず雇ってもらえなかった。
自分達は宋禮にいる限り、一生まともな仕事に就くことも出来ない。
皆が嘆く。
それは、そうかもしれない。たまたま武芸に才能があった志雄は幸運だったのだ。
でも。
彼らだって、わがままだ。
正直、志雄は鬱陶しいと感じたことが何度もある。昔の縁だけで、志雄に頼る無様な幼馴染み達。
そして、自分は彼らを突き放すことが出来ない。
……それは、志雄の母に対しても言えた。
どうして、自分の肩にはいつも重しが乗っかっているのだろうか……と。
自由になりたかった。
しがらみなどすべて捨てて……。
否が応でも、志雄の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。
死ぬ間際、泣いて、エスティアに帰りたいと縋った母の姿を……。
多分、彼らから解放されたいと思ったのが、エスティアの密偵になった最大の要因かもしれない。
「…………仲間が心配か。志雄?」
「………………はっ?」
城を出てしばらく歩いた滑らかな下り坂で、志雄は、唐突に前方から声をかけられた。
鬱蒼とした木々が茂っている坂の物陰から、ゆっくりと男が姿を現す。
志雄を待ち構えていたのだろう。男のたたずまいには余裕があった。
浅黒い長身の男。
今まで、志雄にとって、萎縮するほど大きかった漆黒の衣をまとった男が不思議なことに、小さく見える。
「大宰……。やはり生きていたのですね。帰ってきたのですか?」
「命からがら、急いで、帰ってきた」
「祥玲様と斎公には、報告されないのですか」
「もう少し死んでいるさ。そのほうが、色々とやりやすいだろう」
それは、エスティアに対してのことなのか、莉央に関してのことなのか?
「わざわざ、私に会いに来たのですか?」
「臣から、お前が捕縛されて、開放されたことを聞いた」
情報が早い。
さすがというべきだろうか……。
「貴方もいろんなところに、密偵を放っているようですね」
「教えんぞ」
志雄は口の端を歪めた。
「祥玲様に聞きました。私は、貴方たちの掌の上で踊らされていたようですね」
「別にすべてが嘘だったわけではない。俺は途中まで小娘を害してでも、領主を代えようとしていた。他国に付け入る隙を与えないためにも、焦っていたが……」
「今は……。違うのですね?」
「敵がいる。蛮国が宋禮を侮っているのは、小娘の領主がいるおかげだ。俺が死んだことになっていれば、益々油断してくれることだろう」
「…………そうかもしれません」
志雄は、穏やかに首肯した。
(自分は、斬られるだろう……)
感じていた。
しょせん、使い捨ての駒だ。役目の終わった間諜などを生かしておくほど、この男は甘くはない。
そうなれば、先ほど祥玲に頼まれたことはできなくなってしまうが、それはそれで仕方ないだろう。
大体、志雄がやらなくとも、手ごまの一つくらい、祥玲であれば、持っているはずなのだ。
「……随分と暢気に構えているな。やはり、あいつらはお前の仲間ではないのか?」
「仲間ですよ。一応。彼らは、私と一緒。エスティア人と宋禮人の間の子供でした」
「そんなことは、分かっている。そういうことではない」
王英は見るからに苛々しているようだった。
「人種でいえばだろう。だが、奴らは好戦的で、お前は何処か消極的だった。蛮国からの密偵だと目星はつけていたが、俺はなかなかお前に確信を抱くことが出来なかったのだ。……だから」
「そんなことはないでしょう。貴方はわざとらしく斎公との会話を私に聞かせたじゃないですか?」
「残念ながら、あれは偶然だ」
「偶然?」
「お前を怪しいと最初に気がついたのは、祥玲様だ」
「……えっ?」
「祥玲様は、蛮国と戦争になると睨んでいたからな。いきなり、お前を俺との繋ぎ役に指名してきた」
「あのお方は、最初から私を捨てるつもりだったんですね」
「…………だろうな。あの方は喜怒哀楽が激しいようで、実は希薄だ。お前が役に立てば良し。役に立たなければ、切り捨てるまでだと、そう思い定めているのだろう」
「私には、分からない人です」
「俺が知るのは、無情という一点のみだ。あれだけ結びつきの強かった翠塾をあっさり解散して、それっきりのお方なのだからな」
「その祥玲様が私を牢から出しました。貴方はそれに逆らうのですか?」
「……ここで、俺がお前を斬り捨てると?」
王英は腰の剣に手を伸ばした。実戦向きの王英の剣は、柄の部分も装飾のない銀色だった。
志雄には剣がない。それでも、得物を探して目を動かした。むざむざと殺されるつもりはない。だが、きっと戦えば自分は死ぬはずだ。それも分かっていた。
王英の殺気が満ちる。志雄と王英の間合いは駆け足で四歩から五歩くらいのものだ。
王英が駆け出してきたら、まず何をするべきか……。あらゆる策と過去の記憶が脳内を巡った。……しかし。
「…………行け」
「はっ?」
「行けと、言っている」
体全体から溢れる怒気に背中を押されて、志雄は本能的に走って王英とすれ違った。
「お前の上官は、あのキアノか?」
「…………」
志雄は何も言えなかった。しかし、後ろを振り返ると同時に王英の背中が語った。
「キアノであればまだ良い。だが、違う上官……、たとえばこの戦争を指揮するだろう、イレチ将軍であれば命取りだ。この男。皇帝の弟というだけで、のし上がってきたそうだな。お前が逃げたとしても、執拗に捜し出すだろう」
……志雄は目を見張った。その通りだ。
(何故、分かった?)
志雄が取り入っているのは、キアノの上官イレチだ。皇族の血をひいていので、いきなり将軍の地位に上り詰めている。
エスティアにおいて、将軍は三人存在しているので、若輩のイレチが継いでも軍事にはほとんど影響がないのだ。しかし、志雄はいまだに一度もイレチと会ったことはない。指定の日に、密書を届けているだけだった。
「俺の言う通りだったか?」
「…………いえ」
志雄は首を振ってみたが、この程度の嘘は、きっとこの男に見抜かれてしまうだろう。
「逃げるのであれば、何処にでも行け。エスティアに行くのであれば、キアノの側にいれば良い。翠塾の名を出せば、渋々、あの男が何とかしてくれるだろう」
「私の仲間達は殺したのですか?」
「とりあえず、生け捕りにした。奴らを殺さずに、あえて、お前を苦しめてやろうかと思ったんだがな。気が変わった。どうせ、奴らでは、お前は苦しめられないだろうからな」
「大宰……、貴方は」
「俺は、あの方を領主にしようとした。しかし、それが仇となって、こんなことになってしまったのかもしれん。守ろうとしたのは、自分の義か、領土の平安か……。正直、自分の行いの可否が分からなくなった。だから、奴らの命を奪うことも出来ん」
(この人は……)
何と不器用な男なのだろう。
たった一人で、細く狭い道を歩く覚悟をしているのに、意外に心が脆いらしい。
そこで、ようやく志雄は王英の心根の一端が理解できたような気がした。




