第四章 ⑤
―――祥玲は、意識を手放した莉央を抱きかかえると、辛うじて一つに結ばれていた髪をはらりと解き、用意していた布巾で、莉央の髪を拭いた。
「まったく……」
わざと大声を出す。
莉央を責めたわけではない。祥玲は外に向かって合図したのだった。
「盗み聞きはどうかと思いますよ」
未海は、ゆっくりと戸を開いて、空気のように室内に入ってきた。
「お取り込み中だったとは。失礼しました」
「白々しいことをおっしゃる。まあ、おかげで、私も理性が飛ばずに済んだので、良いんですけど」
「一応、ここは寺なのでそういう目的で使用してもらいたくはないんですがな」
「ご面倒をおかけしています。未海様」
「今回は、何もしていませんからな。貴方に頭を下げられると不気味だ」
「不気味ですか……。困りましたね」
「香鈴殿が生け捕りにしてくれたみたいでな」
未海が誘うと、男物の袴を身につけた丸顔の女性が室内に入ってきた。問答無用で叩頭する。
「おや。香鈴さん。貴方とも、未海様を通して、文では頻繁にやりとりをしていましたが、こうして、ちゃんと、お会いするのは初めてですよね。」
「そうですね。でも、子供の頃、父に祥玲様のことは聞いていましたから。恐れ多いことですが、とても近しい感じがしています」
「香鈴さんのお父上は、私の父・玲宝の潔白を証明するために、命を絶ったのだと耳にしました」
「祥玲様が気に病む必要はありません。それにその、父は自らが命を絶つことで、家族は無関係だと主張したかったのだとも、思っています。父の死で、前領主はさすがに気が咎めたのか、母の女官としての地位を剥奪はしなかった。だから、私は斎公に仕えることが出来たんです」
「私も貴方には感謝しなければ。貴方が莉央さんをこの寺に連れて来てくれたおかげで、私は彼女に会うことが出来た」
「斎公は、長い間、一人で塞ぎこんでいましたから。貴方と話すことが出来たら、少し自分らしさを表に出すことが出来るのではないかと思いました。結果的には成功だったと思います」
「――まあ……。嵐の日に、わざわざこんな森の奥にまで、やって来る娘なんて、そうそういないでしょうね」
「私も、今日の斎公には、さすがにひやひやしました。人に物を頼むのだから、自分が出向かないといけない……なんて、おっしゃられて」
「人に物を頼むのに、人を殺そうとする男がいるのに、彼女は恐ろしく、まともに育っていますね」
祥玲の小声での呟きには、香鈴は気付かなかったらしい。神妙に話を続けた。
「城の中には、味方が大勢いましたが、外となれば誰もいません。祥玲様の指示通り、あの者を、もう少し自由にさせておくつもりでしたが、これ以上は無理だと、見定めて、捕らえさせていただきました」
「よく捕らえることが出来ましたね。仮にも彼は鍛錬を積んだ武人ですよ」
「特に抵抗されませんでしたし、大宰も少し兵を残していきましたので」
「なるほど」
祥玲は口元を緩めた。人間の機微というのは、本当に面白い。
「斎公は、城に戻られると、おっしゃっていましたか?」
「貴方は、彼女をこのままにしておきたいのですか?」
「私は、斎公の味方です。斎公には立派な領主になってもらいたいのが本音ですが、斎公がそれを大きな負担に感じているのであれば、投げ出しても良いのではないかとも思っています。このお方は、ずっと、あの城に捕らわれていました。私の母が世話をしていましたが、心の底では信じていなかったようです。ようやく、外に出て、世界をご覧になる機会を得たのです。ならば、ご自身で、選択することも一つの成長でしょう」
「莉央さんは、良い側近を持つことが出来て、幸せですね」
「祥玲様……」
「私には、貴方のような人はいません」
祥玲は静かに微笑った。
こういう人を持たなかった。
そして、こういう人を、今更得たいと望んでいる自分は、己の性分を変えることが出来るのだろうか?
「ここに来ても、宋禮の心配ばかりをしていました。今、ここに置き去りにするのは、それこそ不憫でしょう。それに、彼女はまだ自分のことを過少評価している」
「そうですか」
香鈴は、分かりやすいほど単純に笑みを作った。
「では、城にお運びしましょう」
「お願いします」
「それと、祥玲様」
「はい?」
「女性の着物を淫らに着替えさせないで下さいね」
「み、淫ら? そうきましたか?」
なかなか凄まじいことを口走る女官だ。
「楽しい思いをしたようですね」
未海がにやにやしている。
余計なお世話だ。
これでも、祥玲は十分、理性的に振る舞ったつもりだった。
「それと……」
「まだ何か、私の不手際が?」
神妙に聞き返すと、香鈴は首を軽く横に振った。
「……朝には、あの者を城に移しますが宜しいですか?」
「ああ……」
祥玲は、莉央の柔らかい灰色の髪だけを眺めて呟いた。
「そうして下さい。本当は、もう少し泳がせたかったんですが。…………仕方ないかな」
その声音は自分でも、ぞっとするほど冷たく、感情の伴わないものだった。
(やはり、難しいかな。今更、性格を変えるなんて……)
祥玲は、自分のことをよく知っている。
自分に決定的な欠点があって、それがために自分が領主になれないことは、随分前から気付いていた。
だからこそ、王英が育てたくせに、奇跡なほど真っ直ぐで、まっさらな心を持っている領主・莉央という存在は、祥玲にとって貴重な存在なのだ。