第四章 ④
「何故、それを?」
「ああ、当たりですか。まあ、貴方が雨の中、血相変えてこんな所まで来る理由に見当をつけてみただけなんですけどね。あっ。ちなみに作物は何とか大丈夫そうですよ。まあ、風が強いので、油断は出来ませんけど」
「……話が早い……ですね」
呆れているのか、感心しているのか自分でも分からないまま、莉央は一息ついた。
我に返ると、寒さが身に染みてくる。
濡れそぼった己の肩を抱きしめて、ぶるっと震えた。
「ほら、だから言ったでしょう。まずは着物を着替えることです。そんなに濡れていたら、風邪をひきたいと主張しているようなものですよ」
もっともらしいことを言って、祥玲は紅の着物を押し付けてくる。
莉央は仕方なく、それをちゃんと受け取り、泥だらけの靴を脱いで、室内に入った。
「あの。……では、着替えますので、あちらを向いていて下さい」
「えっ! ここで?」
「他に何処もなさそうなので。もしかして、ここに地下室でもあるのですか?」
「ないです」
祥玲はあからさまに、悄然としながら、言った。
「ああっ。では私は外に出ています。だから、その間に」
「それでは、祥玲様が濡れてしまうではないですか……」
「―――言われてみれば。それも、そうですよね」
気まずい静けさの後、くるりと祥玲が後ろを向いたので、莉央は体に張り付いている水色の着物を脱ぎ始めた。ちゃんと、乾かして香鈴に返さなければならない。
「祥玲様は、ご存知だったのですか。王英がエスティアに向かったことを……」
「本人がわざわざ報告に来ましたからね」
「王英は生きているのですか?」
「どうして?」
「貴方が平然とされているので……」
「私は、元々こういう性格なので。よく言えば楽観的になんですが、悪くいえば反応が悪いのです」
「……はあ」
痛々しい自己分析だ。
莉央は祥玲が与えた紅の着物に袖を通した。帯を通そうとするが、なかなかうまくいかない。
「王英のことはともかく、問題はすぐに援軍が期待できないということでしょうね。国王にもそんな余裕ないでしょうし、王都から宋禮は離れすぎている」
「まるで、すべてお見通しだったような言い方ですね」
「まさか。私だって貴方が供も連れずにこんな所にまで来るとは思ってもいませんでしたよ。あまりにも不用心です。貴方は領主なんですから、二度とこんなことをしてはいけないですよ」
「領主には、貴方が相応しいと……。私はそれを言いに来たのです」
「どうやら、私の出自もばれていたようですね」
祥玲は溜息混じりに、振り返った。
莉央は、まだちゃんと着物を着ていない。
祥玲は莉央の顔をまじまじと見ていたが、やがて視線が着崩れている着物に向かった。
慌てて、莉央は胸元を押さえた。
「緊張……」
「してません!」
「いえ。私がしているんです」
「はっ……」
「緊張しています」
「そうなんですか」
そう言う以外、莉央はどう返して良いのか分からなかった。
どうしようもなく、頬が紅潮する。乱れた格好を見られたことよりも、満足に着物くらい着ることができない自分を恥じた。
てっきり祥玲は、目をそむけてくれるものだと思っていたが……。
何を思ったか、祥玲はそのままずいずいと、近寄ってきた。
「な、な、何!?」
「すいませんでした。てっきり敬語を使っていたから、着替えも一人でされているのかと思っていましたが、さすがに領主がそういうわけにもいかないですものね。普段は女官がしていることなのでしょう」
莉央は返事が出来なかった。その通りなのだが、頷くことがどうしても恥辱のように感じた。
「失礼」
「あ、ちょっと!」
祥玲は有無をも言わさない勢いで、帯を結びはじめた。ぽたぽたと滴り落ちる水滴が祥玲の衣に染みを作っていく。
「祥玲様が濡れてしまいます」
しかし、祥玲は問答無用だった。
「私も、昔はね、自分で服を着ることも出来なかったんですよ。貴方の指摘通り、私は前領主の弟の子。父は無実の罪で捕らえられ、獄死しました。息子の私もその時、死んだことになっているはずです。幸い、父は捕まるはるか以前に、私を翠先生に預けていましたし、先生はそれでも不安に感じたのか、私のことを未海様に頼んでいましたから。……ああ。未海様の教えは厳しかったですよ。何も教えてくれないものだから、私は独学で着物の着付けを覚えたんです」
祥玲の手が帯を持って、背中に回った。更に距離が近くなって、莉央は辟易とした。
「本当、皮肉ですね。本物である貴方がそんな生活を送ったのに、偽物である私は着物の着付け一つも出来ないなんて」
「血筋など、どうでも良いことじゃないですか」
「―――でも、貴方は領主になるべきです」
「何故?」
「貴方は、私などより優れた才をお持ちだとお見受けしましたから……」
「そんな理由で?」
「重要なことだと思います」
「嫌です」
「はっ?」
莉央は面食らった。
「しかし、祥玲様! 領主ですよ。貴方が領主になれば、父上の恨みを晴らすことが出来ますし、ばらばらになってしまった塾の再興だって簡単に……」
「エスティアが攻めてきて、危機的状況の国を急に与えられたところで、一体何だというのです?」
「それは…………」
その通りだ。
莉央は領主の位から逃げ、すべての責任を祥玲に押し付けているようなものだ。
「でも、他にどうしたら良いのか、私には分かりません。こうしている間にもエスティアは攻めてきているんです」
「エスティアだって、兵士を一旦都に集めて、それからこちらに出陣するんです。一日や二日くらいで、宋禮までやって来ることは不可能ですよ。幸い、こちらの領民は冷静です。噂が流布していたから、それなりに、覚悟をしていたのかもしれませんが、これは奇跡的に幸運ことですよ」
「しかし、国王の援軍も期待できないのであれば、王英のいない今、私が直談判してエスティアの王子と結婚する以外、宋禮には手の打ちようがないでしょう?」
莉央は至近距離にある祥玲の顔を見上げた。少しだけ祥玲の顔色が曇っていた。
「その話は、志雄から聞いたのですか」
「えっ、あ、それは……」
誤魔化そうとしたが、無駄だったらしい。祥玲は意味深な微笑を浮かべている。
「……心配しなくても良いですよ。結婚だなんてさせやしません。冗談じゃない」
「はっ?」
何だか引っ掛かる言い方だった。
「まあまあ。ここで、怒っても仕方ないでしょう。私とて宋禮の領民です。自惚れているわけではありませんが、私の出来ることは協力させてもらおうと思っていました。幸い、翠塾の出身者は、軍にも官吏にも存在しています。まあ、私の言うこと聞いてくれるか分かりませんけどね。これは貴方と出会う前から、私が決めていたことなんですよ」
「…………そうですか」
「おや? さては莉央さん、私のこと、やっぱり、信用していませんね?」
「それは……」
いまだに何もかも騙されているような気がしていた。
祥玲は肝心なことを、莉央に教えてくれなかったのだ。
――信じて、裏切られたくない。
今までいろんなことに裏切られて生きてきたが、何故か、莉央は祥玲にだけは裏切られたくなかった。
「――ああ。そういえば、莉央さん。もう二度とここには来ないって、随分と、怒っていましたよねえ」
祥玲は莉央の襟元を整えながら、したり顔で言った。
莉央は何も言い返せない。機嫌が悪いのを伝えるために、なかなか自分から離れない祥玲の手を払いのけた。
――が。
その手を祥玲が掴み直した。
「本当は、私も陰からこっそりと動こうと思ったのですが……、でも。気が変わりました。……作戦変更かな」
祥玲は莉央の至近距離で、茶碗をもう片方の手に取り、口に含む。
「…………はっ?」
一体、何事かと目を見張っているうちに、祥玲は胸元にあった本を取り出し、その頁の中から小さく畳んだ葉を取り出す。
……薬に違いなかった。宋禮では薬を葉に包む習慣がある。
祥玲は包みを開くと、一気に白い粉末を口内に流し込み、そのまま莉央の顎を持ち上げ、唇を押し付けてきた。
「なっ!?」
口を開いて、抗議をしようとした瞬間、いきなり生ぬるいものが口の中に流れこんできた。祥玲の唇で蓋をされてしまい、吐き出すことが出来ない莉央は、それをそのまま飲み込むしかなかった。
「ごほっ」
直後に祥玲を突き飛ばした莉央は、軽くむせた。
茶の味だった……と思う。
混乱していて分からなかったが、嚥下したものは冷めた茶だったはずだ。
「何を?」
「愛情表現です。貴方はこんな夜更けにわざわざ、私の所に駆け付けてくれたのです。その気持ちに応えるのは、男として当然なことでしょう。さすがに私も、まさか、貴方がここまでするとは思ってもいなかったのです。…………だから、私もやり方を変えさせて頂くのです」
「…………祥……玲さま?」
やっぱりこの男はつかめない。
一体、何がしたいのか?
「こんなことをしたところで、私は……」
「いいえ、意味のあることですよ。今の口づけは。私は貴方のことを護るし、協力するという誓約の証です。本当はもっと欲しいのですが、さすがに、これ以上は駄目ですよね。貴方の気持ちが伴わないと」
「何を言っているのか……、私には、さっぱり……」
言いかけて、莉央は目の前が歪んでいることに気付いた。
「祥玲様……。貴方、一体……」
「今、貴方に必要なのは休養でしょう。雨は朝までやみそうもないし。貴方のことだ。休めと言っても聞きもしないでしょうからねえ」
「……薬ですか」
莉央は頭を振った。
強烈な睡魔が襲ってきている。
けれど、こんなところで眠るわけにはいかない。
けれど……。
「ゆっくり、お休みなさい。莉央さん」
祥玲の柔らかい声音を合図として、莉央の意識は完全に途切れた。




