序 ②
ぶわっと、一つに束ねている長髪が風に舞った。
莉央は、一瞬何が起こっているのか分からなかった。
それは、始終、吹いているこの土地の風によるものではなかった。
猛烈な速さで、自分の真横をすり抜けたもの……。
それが、鈍い音を立てて太い木の幹に突き刺さった瞬間、背筋がぞくりと寒くなった。
すぐさま、誰かが自分の前に立った。
連れてきた臣だろう。
新しく配置された者のようだが、莉央は彼の名前を知らない。
(私は、ここで死ぬのね……)
静寂が支配していた森の中を、怒号がこだまし、無数の矢が空気を裂いて、地面に突き刺さる。
莉央は、領主だった父の位をつい半月前に継いだばかりだ。
もしも、莉央に不満がある勢力がいるとしたら、喪が明けるのを待って、何かしらの攻撃をしてくるかもしれないと、心の片隅では、考えていた。
だが、心の大半では、そんなことは有りえないだろうと、高を括っていた。
血筋を尊ぶ領内で、領主の血を継ぐのは莉央しかいないからだ。
(どうすれば良い?)
ここは、人気のない森の中だ。
莉央は矢が射られる前に、外に飛び出したので、命に別条はなかったが、馬車には無数の矢が突き刺さっていて、馬はとっくに遁走してしまった。
唯一出来るのは、目的地だった寺に助けを求めることくらいだろうが、それも無理だ。
莉央の足は竦んでしまって、動かすことも出来ない。
(……駄目だ)
どうせ、死ぬのならば、とっとと流れ矢にでもあたってしまったほうが良いのかもしれない。
だが、こんなに沢山の矢が飛んできているのに、何故か、命中しない。
莉央は少し口角を上げた。
(彼らだって、遊んでいるわけではないだろうに……)
木々の狭間、暗がりの中で、弓を構えていた刺客が一瞬たじろいだ気がした。
莉央の微笑を、権力者の矜持だとでも思ったのだろうか。
……まさか。
気丈というわけではない。疲れているだけだった。
森の奥で蠢いている影に、何気なく視線を這わせる。
崖の上から俯瞰するような形で、弓を構えている刺客は、皆しゃがんでいるようだった。
しかし、一人だけ……。
立っている人間がいる。
木々の隙間から差し込む木漏れ日が逆光のようになり、その影しか分からないが、身長と体格から判断したところ、男のようだ。
「……えっ」
突如、矢の雨がやんだ。
(何故?)
分からない。
けれど、その男が何事か合図したのは確かのようだ。
刺客達は男を囲むように、一斉に身をひるがえし、風のように去って行く。
「待て!」
莉央を守っていた小柄な家臣が腰の剣を抜き放ち、追いかけようと勢い良く踏み出す。
……でも。
どうせ、追いつきはしない。
「もう結構です」
莉央は、家臣を呼び止めた。
「……はっ?」
疑問を隠そうともしない家臣を目で制して、震えている手を袖の中に引っ込めた。
「怪我人の手当てを、優先して下さい」
不満そうな家臣に有無をも言わさない威圧感を放ちながら、心根では自分を嘲笑っていた。
(これは、強運と呼ぶべきなの?)
分からなかった。
そして、莉央は何にも分かっていない自分こそがひたすらに怖かった。