第四章 ③
香鈴の上着も裳も、莉央には少し小さかったが、外套を纏ってしまえば分からない。
女官に変装している莉央が手配できるのは、買い物用の大きな荷馬車だけということだったが、莉央はそれで良かった。
道程は、横殴りの雨が襲った。
土砂降りというわけではなかったが、風が強いので、外套の中に冷たい水が浸入してくる。既に香鈴から借りた着物もびしょ濡れだ。
(ここは、何処だろう?)
真っ暗な夜道だ。
視界は途方もなく悪いし、雨のせいで道はぬかるみ、馬車の速度も出ない。運が悪ければ車輪が泥の中に入り込んで、動けなくなってしまうかもしれない。
しかし、志雄はこんな最悪の状況でも文句の一つも口に出さなかった。
莉央は荷台から、黙って、志雄の背を眺めていた。
志雄は外套すら着ていない。雨のせいで体感気温が落ちているのに、着物一枚だ。
「ごめんなさい」
「えっ?」
「私のせいで、志雄が風邪をひいてしまうかもしれません」
「大丈夫ですよ。体は鍛えていますから」
こちらに一瞬、顔を向けた志雄は、笑っていた。
この男の笑顔を今まで莉央は目にしたことがない。錯覚だったのではないかと疑ってしまうほどだった。
「私は王英様に拾われる前は、行商をしていたこともあったんです。こんな夜道に荷馬車を飛ばすことなんてしょっちゅうでしたから……」
「貴方も、色々とあったんたですね」
「私の母はエスティア人だと、お話しましたよね……」
「ええ」
「エスティアでは、異国人との結婚はご法度なんですよ。それで、父の死後。母は帰る場所がなかった。私を残せばエスティアに戻ることも出来たのでしょうが、そんなことは出来なくて……。だから、母は身を粉にして働いていました。私も働いて……って、こんな話面白くないですよね?」
「いえ。志雄のお母様がどのような方か知りたいです。私には母がいないようなものですから……」
懐かしい森の一本道に馬車は入っていく。
森の木々が雨を吸い、小降りになった感じがした。志雄は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「母は子供のような人でした。口癖のように、エスティアに帰りたいと繰り返し、宋禮の言葉を理解しようとしなかったので、私はよく面倒ごとに巻き込まれましたね」
「ごめんなさい」
「だから、どうして、斎公が謝るのです?」
「エスティアと戦うことになどなったら、志雄は辛いでしょう?」
「そんなことありませんよ」
意外なほど、冷淡な物言いに、莉央は逆に心配になった。
「お母様は?」
「随分前に、病気で死にましたよ」
香鈴にも両親がいないが、志雄にもいないのか。
(みんな、何か抱えている)
何と声をかけて良いのか、莉央が悩んでいるうちに、志雄は森の奥を指差した。
「あれですね」
遠目でも、本堂にぼんやりと明かりがついているのが確認できた。
どうやら、深夜に未海を叩き起こす必要はないらしい。
莉央は身を乗り出した。
馬車が山門の近くまで近づくと、察したように入口から、墨色の衣をまとった剃髪の老僧が現われた。
未海だと、莉央は急いで馬車から降りようとする。
慌てて、莉央の手を取った志雄が静かに告げた。
「香鈴殿の言う通りです。逃げないのですか? これが最後の機会ですよ。貴方も領主になどなりたくなかったのでしょう……?」
「ずるいですよ。志雄。その言い方は……」
「えっ?」
みんな、莉央に逃げ道を用意する。
辛いなら、嫌なら、領主に向いていないのならば……、いっそのこと逃げ出してしまえば良いと……。
だが、それがかえって莉央を追い詰めているということに、まるで気付いていない。
他の生き方など、莉央には分からない。
選択の幅は多いように見えて、実は皆無に等しいのだ。
莉央は冷えた志雄の手に手を乗せて、微笑した。
そうするしかなかった。
だって……。
ここで逃げたところで、他に、自分に何があるのか?
「行きましょう。志雄」
うながすと、長い溜息の後、志雄は莉央の後に続いた。
「―――おやおや。珍しい時間にいらっしゃいましたね」
満面の笑顔で出迎えた未海は、夜分の突然の訪問にも何も言わなかった。
まるで、莉央が殺されかけた時のように、見事に知らぬふりをしている。
「随分と濡れたようですね。衣を乾かさなければ風邪をひきます。さあ、こちらに……」
「はい」
志雄は丁重に礼を述べて、未海の後に従う。
――が、莉央はその場に立ち止まった。
「祥玲様は、いらっしゃいますよね?」
「…………ああ。あの方は」
未海はしばらく悩んでから、口を開いた。
「……残念ながら、こちらにはおりません。地下が本で埋め尽くされてしまったのでね。今は離れに移っています」
「では、離れは何処ですか?」
「ここから少し距離があります」
「行きます」
「何をおっしゃっているのですか。莉央様。まずは着替えを」
「急いでいますから。ここで失礼します」
前髪から滴り落ちてくる水滴を拭い、莉央は顔を上げた。
志雄を一瞥する。
彼の母親の祖国と対立しているのだ。
エスティアが兵を挙げてしまったのならば、戦争は避けられないだろう。けれど、必要最低限の衝突で済む方法を、祥玲は知っているかもしれない。
未海が細い目を瞬かせている。
「この寺の裏手に小さな建物があります。おそらくあの方は本を読んでいるでしょうから、明かりが皓々としているでしょう」
「有難うございます」
莉央は頭を下げると同時に、くるりと姿勢を変えて走り出した。
「斎公!」
志雄が手を伸ばす。
「着物を乾かして下さい。志雄!」
莉央は言い放つと、再び、闇の中に飛び込んだ。
本堂の明かりを頼りに裏手に回ると、未海の言う通りだった。
薄い灯が長く伸びている。橙色の温かい光は、蝋燭だろう。
(あそこか……)
降り続く雨が体にずっしりと重くなっていたが、莉央は構わず進む。
――平屋だ。
どの程度老朽しているかは暗くて分からないが、相当年季が入っている建物のようだ。
扉を叩こうとしたら、見事に扉が全開して、莉央は薄い男の胸板に頭から飛び込むような形になってしまった。
「――――あっ」
男は、草の香りがした。
「一体、何をしているんですか? 莉央さん?」
「祥玲様……」
祥玲の漆黒の瞳が大きく揺れていた。
心底、驚愕しているのが伝わってくる。
数瞬、視線が合わさっていたが、祥玲は急に懐に手を入れて訴えた。
「あのー……。本が濡れまくっているのですが」
「わっ! あっ。失礼しました!」
莉央は逃げるように、祥玲から離れた。
しかし、何故、祥玲は胸の中に本を仕舞っているのだろうか?
何から何まで、相変わらず分からない男だった。
そして、室内はやはり、本だらけだった。
祥玲はおもむろに背中を見せると、強引に本の山を端に寄せた。欠けた茶碗の中で飲みかけの茶が激しく揺れている。舞い上がった埃が入りこんだのではないかと、莉央は心配だった。
「さあ、どうぞ」
「でも、私、こんなことになっていますし、急いでいますし、立ったままで構いません」
「それは、絶対にいけません。ええーっと。まずは、まずは……」
祥玲は珍しく狼狽していた。
部屋の奥に埋もれていた藤の籠をあさって、着物をあさっている。
「祥玲様。それどころではないのです!」
莉央は水浸しの靴を脱ぎ捨てて、祥玲ににじり寄った。
「それどころですよ。とりあえずは、私の着物でも着て……」
莉央は、手渡された謎の紅色の着物を力一杯放り投げた。
「聞いて下さい!」
「分かっていますよ」
「えっ?」
「王英がいなくなりましたか? エスティアが攻めてきましたか?」
みるみる血の気がひいていくのが莉央自身にも分かった。
「その……、両方です」