第四章 ②
「祥玲様を、城に呼んでもらえませんか」
莉央は一瞬逡巡したが、覚悟を決めて命じた。
うろたえたのは、香鈴と志雄だった。
「まさか……。公位をお譲りするおつもりではないでしょうね?」
「私は別に諦めているわけではないんですよ。香鈴」
「では、どういう?」
香鈴の心配顔は、一層深くなっている。
莉央は香鈴の隣で跪いたまま硬直している志雄に目を向けた。
「志雄は知っているのでしょう? エスティアと宋禮領の兵力の違いを……」
「……それは」
「宋禮領は、分が悪いのではないですか?」
志雄は目を瞑った。肯定の意味だろう。
キアノと名乗った使者をもてなした時の王英は尋常ではなかった。大体よっぽどの事態でない限り、莉央に使者を会わせようなどと考えない男だ。
「恐れながら。蛮国……と、宋禮ではエスティアのことを貶めていますが、国土は宋禮よりもはるかにあちらが広く、近年力を持った野心家の王が即位したそうで、軍事費に膨大な予算つぎ込んでいるそうです」
恐縮しながら、志雄が答える。
「やはり」
莉央は、高いだけの天井を仰いだ。
「私が……、隣国の王子と結婚するのが一番なのでしょうね」
「何を、おっしゃっているのです!」
香鈴は立ち上がって、怒鳴った。
直後に周囲を憚って口元を押さえたが、もしも近くに人がいたら無駄かもしれない。
「冷静に考えてみて、王英は平和的に解決するしかないと思ったのでしょう? 私もその意見が間違っているとは思えません。仕方ないことだと思います。でも、それを、餌に使って、王英がおびき寄せられとしたら大変です。私はエスティアの真意を知りたい」
莉央は、体重を椅子の背に預けた。
疲れている。
(私はおかしくなっている?)
そうは思わない。極めて心は澄んでいる。
「……祥玲様は、エスティアまで旅をされた経験があります。その血筋はさることながら、翠塾の塾頭で、頭の回転も早い。私はそのまま孤児のまま生きていたら、死んでいたかもしれません。譲位の問題はともかく、私は祥玲様のお力を借りたいのです」
「自虐的な物言いを致しますね」
莉央は、香鈴が本気で怒っているこがおかしくて苦笑した。
「貴方は……、本当、どうして……」
志雄は苦々しく唇をかみしめて、視線を逸らした。
開け放たれている小さな窓から、大粒の水滴が室内に吹き込んできて、香鈴が窓を閉めた。
いつの間にか、外は嵐となっていたらしい。
昼間の晴天の欠片は、何処にもなかった。
部屋の奥に陣取っている円卓。
その真ん中に活けられた色鮮やかな一輪挿しの花弁がひらりと落ちた瞬間、激音と共に微かに地面が揺れた。
…………雷だ。
「とにかく、明日にしましょう。祥玲様の所には、私と志雄殿が行けば事足ります」
「それは駄目です。私、祥玲様には一方的に怒ったまま、それきりなんです。私がここでちゃんと話さなければ、祥玲様、協力なんてしてくれませんよ」
「……してくれますよ。斎公が困ったのを助けるのが楽しみな様子でしたから」
志雄が無表情で、おかしなことを言い放つ。
残念なことに、莉央はその言葉が信じられなかった。
祥玲がただの良い人とは、どうしたって考えられない。
「志雄の言っていることも一理ありますけど。とにかく想像のつかない人ですから」
「しかし、斉公。貴方は領主です。この切迫した状況で自由な時間は得られません。私が何とかしますから」
「香鈴。良いのです。これは、私の問題ですから」
莉央は静かに微笑した。
ここで香鈴に助けを求めてしまったら、どんなに楽だろうか。
しかし、それでは駄目なのだ。
それでは、今までと変わらない。
莉央の寄りかかる対象が王英から、香鈴になるだけでは、いつまで経っても莉央は、自分が大嫌いな莉央のままなのだ。
…………そう、祥玲が言っているような気がした。
「今夜なら何とかなるかもしれませんね」
莉央は、椅子から腰を上げた。
「はっ?」
香鈴が小首を傾げた。
「考えてみたら、物を頼むのに、わざわざ祥玲様に、こちらに来て頂くのは、礼を欠いていますね」
「何をおっしゃっているのですか?」
香鈴は、呆然と訊いた。
「香鈴。今すぐ、馬車を用意することは出来ますか?」
「斎公!」
とうとう莉央の言いたいことを、香鈴は察したらしい。振り向いて、志雄に何かを訴えている。
「僭越ながら……」
志雄が神妙に頭を下げた。
「私が貴方を、祥玲様の所にお送りしてもよろしいでしょうか?」
「志雄殿。貴方は!?」
香鈴は、呆気にとられたのだろう。
大きな口をぽかんと開けていた。
――が、揺るがない莉央に本気を見たのか、すぐに真顔に戻った。
「馬車の用意をせよ……ということでしたね」
香鈴は、莉央の肩にそっと両手を触れた。
「分かりました。…………でも。もしも、今がお辛いのだったら、そのままどこかに行ってしまっても良いのですよ」
莉央は初めて、香鈴の目を見返した。
……見返すことが出来た。
今まで、莉央は彼女から逃げていた。差し伸べられていた手を取ろうともしなかった。
でも、今彼女が話してくれたことは、心の底からの言葉なのだと信じたかった。
「……有難う」
言葉はぎこちなかったが、気持ちは伝わって欲しいと、香鈴の手に自分の手を重ねた。