第三章 ④
「ここにいらしたのですね。祥玲様」
「――――王英ですか」
呼びかけると、微かに祥玲の肩が震えた。
莉央に暫時の別れを告げてから、急いでここに駆けつけた王英だったが、祥玲は寺に不在だったので、捜すのに苦労をした。
志雄に心当たりを聞いて、ようやくここに辿りつくことが出来たのだ。
(まさか、こんな所にいたとは……)
過去の目映い景色が、王英の脳裏で重なる。
祥玲は、長い黒髪を風に踊らせていた。彼の眼前には、豊かに伸びた穂が夕陽色に染まりながら、揺れている。この場所は昔も今も変わらない。
変わったのは、自分がまとっている重い衣装と、堅苦しい肩書きだけだった。
すぐに旅立たなければならないので、重い冠をはずしてくる暇すらなかったのだ。
目を細め、一歩近づく。
――と。ようやく反応が返ってきた。
「とうとう……、貴方自らが来たんですね。直接会うのは、随分と久しぶりです」
王英は軽く会釈をした。本当は、叩頭すべきだろう。
一瞬、迷ったが、そんなことをしている暇を、祥玲は与えてくれなかった。
「確か……、最後に直接貴方と会ったのは、私が旅に出る前でしたか?」
「はい。俺は、先生の葬儀にも参列することが出来なくて。貴方の出立することを聞いて、初めて駆けつけることが出来ました」
「まだ気に病んでいるのですか。別に構わないと、先生もそう言うでしょう。貴方は、国政に精を出すべき人だ」
「国政……ね。気の利いた皮肉です。貴方は悉く俺の邪魔をした。お怒りなのでしょう?」
「貴方がそう思えるのならば、そうなのかもしれません」
祥玲は微笑しながら、優雅に告げる。こういう所は、父親よりも翠 慧月に似ていた。
「仕方ないことです。あの時は、ああするしかなかった」
「別に。私は孤児だった莉央さんを公女の身代わりにしたことを責めているわけではありません。昔、貴方がそのことを手紙で知らしてきた時は、ちょっと、驚きましたけれどね」
「申し訳ありません。こんな重要なことを手紙で知らせてしまい……」
「まあ……、そうせざるを得なかった、その時の事情を、私がとやかく言う筋合いはないでしょうから。私が許せないのは、そんなふうにして、攫ってきた少女の命を利用していることです。今まで露見しなかったことは、奇跡です。それをどうして、大切に扱うことができないのか」
「奇跡ではありませんよ。祥玲様。姉は人を信用するということを知らない人でしたからね。娘を外に出すことはほとんどありませんでした。それがこの計略が成立した由来でしょう」
「わざと、話をずらしましたね。王英。では、その計略の成功のためにも、墓の下まで秘密を持っていくことは無理なのでしょうか?」
「それは、無理です。俺は誓いを破ることは出来ない。――貴方を、宋禮の領主にします」
祥玲が振り返る。
切れ長の双眸がぎらりと光った。
寝巻きのように、薄っぺらの着物が突風にばさばさと音を立てた。
王英よりもはるかに年下のはずだが、祥玲は腰を叩いて、老成した溜息を漏らして一言呟いた。
「……本気のようだ」
王英は、ここ数年で初めて純粋に笑った。
「貴方には分かっているのでしょう。俺のやりたいことも、やっていることも、すべて」
「さあ。私は神ではありませんからね。貴方の考えていることなど分かりませんよ」
「しかし、俺がしようとしていたことを、貴方は止めたじゃないですか。そして、あの小娘によからぬことを吹き込んだ」
「良からぬこととは思いませんけどね。良からぬことをしていたのは貴方の方でしょう。……莉央さんを、貴方は狙いました」
「結果的に無事だったんだから、良かったじゃないですか?」
「意図的に無事になるよう仕向けたんでしょう。貴方の家来の腕は確かでした。まったく、強情な人だな。まだ認めたくないんですか?」
「何を?」
「口にしなければ分かりませんか?」
「祥玲様……」
王英は眉根を顰めたが、祥玲はお構いなしに小声で呟いた。
「貴方は、利用しつつも、その小娘に情がわいてしまったんですよ」
近くで鳥が一斉に羽ばたく。
おかげで、周囲にも祥玲の言葉は漏れ聞こえなかったはずだが、一体、この局面で何ということを口走ってくれたのか……。
「馬鹿な」
一蹴したものの、祥玲は依然、典雅に微笑している。
やがて、前を向き、畑の中をゆったりと歩き始めた。仕方ない。王英もそれに続いた。
「今年は、豊作だと思っていましたが、大豊作ですね。気候も良いですが、手入れも行き届いている」
「――はあ、そうですか」
急に話題が飛んだことに、面食らう。
しかし、その話こそが核だったらしい。
「莉央さんがこの農家の仕事を手伝って下さっているおかげでしょう……」
「はっ?」
王英は、耳を疑った。
(あの娘が、そんなこと……?)
「あれは、貴方が滞在している寺に行っていたのではないですか?」
「実は、私、彼女を怒らせてしまったみたいでね。大体、貴方が莉央さんをけしかけたからいけないんですよ。もう十日以上も前から彼女とは会っていないんです。多分、私が行ったら、莉央さん、また頑なになってしまうだろうから、畑に莉央さんがいる間、私は立ち寄ることも出来ないのです」
口を尖らせて、ぶつぶつ言う。まるで、子供だ。これで、翠塾の後継者だから、笑ってしまう。
――翠塾を開いて以来の秀才。兵法に通じ、古今東西、瓏国はもとより、外国の言葉や文化にも造詣が深い「先生」の言動とは到底思えない。
「何故?」
「すいません。志雄には貴方に報告しないように、口止めしていました」
(また、ややしいことを……)
頭を抱えながら、王英は肩を落とした。
そんな隙だらけの自分を見せられるのは、やはり、この男しかいないのだ。
「どうして、農家なんかに?」
「庶民の暮らしに興味を抱いたのかもしれませんし、城が危険で帰りたくないのかもしれませんし……、どちらにしても、私は良い兆候だと思いますが?」
「……ようやく、俺が自分を狙ったのだと、気付いたんでしょうね。愚鈍な娘だ」
「いいえ。彼女は聡明ですよ。動機が分からないので、貴方を非難することも出来ないのです。本当に貴方が怖いんでしょう。いやあ、そんな彼女がまた堪らなく愛らしい」
祥玲は片目を瞑って、意味ありげに視線を送ってきた。
「――だからね。私、彼女を貰いますよ」
「はっ?」
「可愛い人じゃないですか。城育ちなのに、奇跡のように純粋で、可憐で、面白い」
何の話題かと思ったが…………。
(呆れた……)
「女で遊びたいのならば、好きなだけどうぞ。金がないのならば、俺が用立てますし。それに、貴方のその容姿。体裁さえ整えれば、何処からでも女がやって来るでしょう」
「心底、かわいそうな人ですね。……貴方」
同情的に言われると、腹が立った。
そもそも、そんなことを話すために王英はわざわざこんな所まで赴いたわけではない。
しかし、この若者にだけは、頭が上がらないのが王英の辛いところであった。
「祥玲様。念押ししますけど、あの娘だけは駄目です」
祥玲は、きょとんとした表情で、王英を見上げた。
少しだけ、王英の方が背は高い。
「まだ、そんなことを言っているのですか。隣国と政略結婚だなんて。そこまで、エスティアに媚びる人だとは思っていませんでした。今回税金を望外に上げようとしたのだって、万が一、戦争になった時の兵力を確保するためだったのではないですか?」
「何とでもおっしゃって下さい。すべてはこれからの……。貴方のためでした」
「まいったな……」
たいして、困っていないような無機質な声音が響く。
「大宰殿は、また良からぬことを企てているようですね」
(良からぬこと? それを貴方が言うのか)
いちいち癇に障る物言いだが、王英は何とか無愛想を貫いた。
――いい加減、本題に入らなければならない。
「俺は、しばらく留守にします」
「…………お隣の国に行くのですか。でも、そう簡単に応じるでしょうか?」
「だから、大宰の俺が出向くのですよ。一応、こちらは大きな土産を用意して行くんですから、悪いようにはされないはずです」
「――志雄は?」
「志雄はここに残していきます。その方が色々と役に立つでしょう」
志雄の仲間達は連れて行く予定だが、そんなことを祥玲に言っても意味がない。
王英は視線を伏せた。口元が緩んでいた。
風音に混じって、確かに人の気配も感じ取っている。
「貴方はその間に、お覚悟をなさって下さい」
「覚悟……ね」
「いずれにしても、あの娘は領主にはむいていない」
「……向き不向きの問題ではないでしょう」
「それがなければ何があるのです?」
「古史を諳んじ、八学を網羅していたところで、だから良い君主になれるというわけではありません」
古史は、瓏国以前の神話の時代から現在までの歴史体系のことを指し、八学は、官吏登用試験で用いられる八つの教科のことを示す。祥玲はそれの達人であった。
そして、王英はその学問を莉央には熱心に教えなかったような気がする。
「では、何があるのです?」
「神のごとく完璧な聖人を探すか、凡人よりも更に激しく喜怒哀楽を示す人物。周りを巻き込み、命を捧げたくなるような愛嬌のある人間です。実務的なことは、周囲がやればいい。そして、勘働きさえ少し優れていれば、君主のための犠牲者の数はぐんと減る。つまりは賢帝ということです」
「あの娘には、それがあると?」
「分かりません。こればかりは素養があると断言できるものでもない。本人の自覚と自信も必要となってきますからね。もっとも、違っていても私の恋路には関係ない話です」
「貴方は、ただ単に……」
王英は言いかけてためらった。
小娘に恋をしたと思い込んでいるだけではないのか?
その方が、自分にとって都合が良いから……?
王英の告げなかった言葉の先を知ってか、知らずか祥玲はうっすらと口の端を緩めた。
陰影が色濃く、祥玲の端正な顔の作りを際立てる。
正直、王英にはこの男の趣味も、莉央の魅力も分からなかった。
(特に祥玲は、とんだ、変わり者だ)
勉強がいくら出来たところで、世渡りが下手であれば、何の意味もない。ただの宝の持ち腐れだろう。
だが、この男の頭の良さは本当だし、人を惹きつける魅力も……あるはずだ。それはきっと、父親譲りのものに違いない。
そう……、その父親に、王英は託されてしまったのだ。
あの日、あの時、この場所で。
――きらきらと輝いていた日々。
「玲瓏」と例えるに等しい、風のような思い出に、自分は報いなければならないと、長い間、ずっと思っていた。
この男の覇道を自分は支えるつもりだった。たとえ本人が望んでいなくても……。
―――だけど、もう……。
最早、王英は莉央の行く手を阻むことなど、考えていない。
きっと……。
時の流れは、すべての事柄を怒涛のように流してしまうのだ。