第二章 ④
香鈴の話の内容は、簡潔だったが、莉央が受けた衝撃は大きかった。
その日一日、悩み、沸き立つ衝動を押さえ込んで、莉央が城を飛び出した翌日の朝。
宋鄭寺は、薄い霧の中にあった。
山門にかかっている木々の隙間を、微かな日差しが縫うように明かりを落としている。
幻想的な光景は、莉央の心の靄を溶かすかのようだった。
意外に、時間を置いてしまうと、冷静になってしまうらしい。
掃き掃除を自ら率先して行なっていた未海は、その手をぴたりと止めて、莉央を寺の中に誘った。莉央はいつものように、志雄や従者を寺の外で待機させた。
毎日のように訪れていた莉央が昨日は初めて来なかったのに、しかし、未海は特に何も言わない。
だからこそ、莉央の方から口火を切らなくてはならなくなった。
「――未海様。私、翠塾について、香鈴に聞いたんです」
「そうですか」
「貴方は翠塾の創始者である翠 慧月とは親しかったそうですね。貴方は私のことを、やはり最初からご存知だったのでしょう。香鈴が話していたのですね。生前、香鈴の父は、翠塾の門下だった。そして、王英も……」
「はい。知らぬように振る舞って欲しいと、香鈴殿、直々の頼みでした」
相変わらずにこにこしていた未海だが、ぴたりと立ち止まると、恭しく頭を下げた。
「今までのご無礼をお許しくださいませ。斎公」
莉央は、綺麗に毛髪が剃り上げられている未海の後頭部を、ぼんやりと見つめながら、これで、今までの自分と宋鄭寺の関係が崩れてしまったことを悟った。
「私はただの一般人として、ここで和やかに過ごす時間が欲しかったのです」
「……ええ。分かっておりました。最初は私も香鈴殿の頼みで、嘘をついておりました。ですが、貴方もまた知らないふりを、騙されたふりを続けて欲しいというふうに、言葉ではなく、目で訴えておられた」
「そう、かもしれません」
優しい時間も、温かい人もすべては幻だ。
そもそも、莉央という存在自体が虚飾ではないか。
だけど……。
本当は、いつまでもこの時間が続くことを望んでいた。
「何も知ろうとしなければ、良かったのかもしれませんね。でも、私は訊いてしまいました」
莉央は歩みを止めなかった。
淀みなく、国祖の像が安置されている部屋に入ると、床の切れ目に手を伸ばし、取っ手を引いた。
行きなれた地下室の入口だ。
下から漏れる灯が莉央の顔を明るく照らす。
「本当は何もかも、放棄して、ここに飛び込みたかったのかもしれません」
「それでも良いと思っておりましたよ」
「未海様?」
振り返ると、未海が部屋の外で、再び頭を下げた。
「貴方は、ここに逃げてくるかと、本気で思っておりました」
「…………私は」
莉央は寂しい微笑を浮かべた。
「逃げることすら出来なかったのです」
「…………それが貴方の性分なのでしょう……」
未海は、いつもよりももっと柔和に微笑して、一礼した。
「お行きなさい」
未海の言葉を後押しするように、ぽろん……と、壊れた筝の音が莉央を誘う。
莉央は、導かれるように、小さな階段を軋ませて、地下に降り立った。
今までの祥玲との会話を思い返して、苦笑する。
「伝染病なんて、嘘ばかり……」
呟いた。
そして、断りもなく、素早く、突然に……。
見上げるだけだった厚い扉を、豪快に開け放った。
――――が。
「……あ……れ?」
そこに祥玲はいなかった。
見えなかった。
視界に収まるすべての景色が悉く……、黒い。
「あっ」
驚きのあまり、莉央が少し態勢を変えると、それは唐突に空から降ってきた。
――――本という名の凶器だった。
数冊頭に当たって、頭が痛い。
いや、それより、何より……。
「ごほっ、ごほっ!」
古い書籍が多いのだろう。埃に反応して、目は痛いし、喉が痛い。
「ああ、ああ~。…………ほら。だから言ったじゃないですか。病が伝染するって」
袖に唇を押しつけた莉央に、涼しい声音が飛んできた。
「こんな凄まじい部屋、貴方のようなお嬢さんに見せるわけにはいかないでしょう。せっかく、病気っていうことにして、通さないように苦慮していたのに。大体、この部屋自体、私一人しか空間が確保されていないんですよ」
「いや……。えっと……」
いきなり、捲くし立てられて、拍子抜けした。
莉央は、涙目でその声の人物を捜す。
しかし、本の山を掻き分けて進まなければならないので、歩く度、無造作に積み重ねられている本は数冊地上に落下して、木目の見えない床に落ち葉のように降った。
もう、進まないほうが良いような気もする。
「――――王英ですね?」
「……はっ?」
立ち止まった莉央を見透かしたかのように、男は会話を再開させた。
その澄んだ声音は、彼以外いない。
「祥玲様……?」
「そろそろ、貴方が来るだろうとは予測していました」
祥玲は淡々と語った。
「私は、貴方に法を変えさせようとした。ならば、王英も黙ってはいないでしょうからね。きっと、貴方に嫌味の一つをお見舞いして、貴方は私の正体に疑問を持ったことでしょう?」
「祥玲様。貴方は一体どちらに……?」
莉央は周囲をきょろきょろと見回したが、立ち込める煙と大量の本、たまに変な楽器や、衣装などが見えるくらいで、肝心な祥玲を発見することが出来なかった。
(まさか、怪しい術が使えるのでは……?)
なかば、本気でそう考え始めた時、足の下で蠢くものを感じた。
「ひっ!」
「えーっと。叫びたいのは私の方ですね。今、本当、痛いですから……」
莉央は飛び退き、視線を下に向けた。
どうやら莉央は、祥玲の手を踏んづけていたらしい。
「す、すいません!」
「寝転んでいたのは、私ですから。仕方ないです」
祥玲は黒い長髪をおろしていた。貴族の成人男性は、髪を一つに結い上げるか、後頭部でまとめるのかが普通だ。多分、寝起きのせいだろう。
女子の場合は、簪さえつけておけば、髪をおろしていても、問題はないのだが……。
(……寝ぐせ……)
腰まである髪は、まとまりがなく、内側に跳ねたり、外側に跳ねたりしている。
要するに、ぼさぼさだ。
しかし、祥玲は気にするでもなく、欠伸をしながら、気持ち良さそうに伸びをした。
そして、突然、寝床に置いていた、ぼろぼろの筝を横にずらした。
床に散らばった本を遠くに放り投げて、何とか小さな何もない空間を作ることには、成功したらしい。
「申し訳ないです。ここにはまともな空間が私の寝床しかないので、座るとしたら、ここしかないのですが、どうします?」
祥玲は、ぱんぱんと気合を入れて寝床を叩いた。
綺麗にしているつもりなのだろうが、薄い敷布から、埃が舞い散って、益々莉央は呼吸困難を起こしそうだった。
逃げ出そうとも思ったが、ここで逃げてもどうしようもないだろう。
莉央は、ちゃんと向かい合って、祥玲と話すためにここまでやって来たのだ。
覚悟を決めて、長い裾を横に払って、莉央は姿勢正しく祥玲の前に座った。
「ほう……」
意外にも、祥玲は驚いているらしい。
莉央がこのまま、この部屋に居座るはずがないと思っていたのかもしれない。
やはり、この男も、王英と同じく、やっていることが計算づくのようだ。
きりっと前を見据えると、真正面から目が合った。
透き通った声と、同一人物だとすぐ分かるような綺麗な面差しをしていた。
とてもこの壊滅的な部屋の持ち主とは思えない。
漆黒の瞳と小さな唇。
女性のような容貌をしていたが、着崩れた着物の下からは鎖骨が骨張って見えて、男だということは確かなようだ。
そこで初めて莉央は自分が置かれている現状に頭が働いた。
王英はともかく、若い男性とこんなに至近距離で二人になるのは初めてだ。
……男性と意識してしまったのは、祥玲の衣装があまりにも乱れていたせいだ。
「――何やら、緊張されているようですね?」
「してません!」
いきなり図星を差されたので、莉央はうろたえて声を荒げてしまった。
祥玲は、円らな瞳を見開いて、顎をさすっていたが、さすがに自分の格好に気付いたのだろう。肌が露わになっていた襟元だけは、ちゃんと合わせてくれた。
「むさくるしい所に、遥々ようこそいらっしゃいました。莉央さん」
「おかしな挨拶はやめて下さい。貴方は私のことを知って……」
「では、莉央様とか、斎公と、お呼びしたほうが宜しいですよね?」
「莉央で結構です」
「では、莉央さん、私のことは「さま」なんてつけなくて結構ですよ」
「いいえ。祥玲さま」
莉央は祥玲を睨みつけた。
祥玲が顔を伏せて、その肩が小刻みに震えていることが腹立たしい。
――この男は、莉央を笑っているのだ。
そうだ。確かに、自発的に語ったのは、莉央だ。
けれども、莉央の素性や王英との関係を祥玲が知っているのならば、莉央の芝居は滑稽でしかない。
「ふふふ。じゃあ、貴方の好きなように呼んでくだされば結構です。それにしたって、傑作だなあ。私もね、貴方が来るとは予想していたのですが、まさか何の前触れもなく、いきなり戸を開け放ってくるとは思ってもいなかったのですよ」
「私だって、予想外ですよ」
莉央だって、一言ここまで危険な部屋だと忠告してくれていれば、こんな形で訪問せずに済んだはずだ。むっつりして言い返そうとしたが。
しかし……。
(……馬鹿だ)
咄嗟に気がついた。そんなことを言い争っていても、仕方ないではないか。
「…………そうじゃなくて。私は、そんなことを貴方と話にきたわけではないのです」
「ああ。私が翠塾の関係者か……っていう話ですか?」
「な、何故、それを……?」
「そんなこと、子供でもすぐに察するでしょう。貴方が勇んでここに来る理由なんてたかが知れています」
そうなのか?
分からない。莉央の頭は子供以下なのだろうか。
莉央は、大きく咳払いをした。
「まあ、それもありますし。本当に色々と。第一、私は貴方と香鈴、王英の関係についても何も知らないのです」
「彼らと私の関係など知って、貴方は一体、何をしたいのですか?」
「そこまでは、まだ考えてません」
「なるほど。貴方は自分の周囲にいる人たちが自分にとって、敵か味方か……。知りたいのですね?」
祥玲は胡坐をかいた膝の上に頬杖をついた。
(そうかもしれない……)
莉央は、まともに祥玲の顔を見ることが出来ずにうつむいた。
敷布の色は、祥玲の寝巻きと同じ青色だった。
所々、黒ずんでいるのは、錯覚だと己に言い聞かせる。
「私は……、王英が何を考えているのか分かりません。人格者であった翠先生の生徒なのに、税金を上げるなんて、そんな……」
「税金のことを、王英は貴方に告白したのですか?」
「いえ……。何か、はぐらかしていましたが、今の政治は王英主導です。彼の許可がない法律が通るはずがありません」
「なるほど。惑わされていないようで安心しました。まあ、彼にも彼なりの考えがあるのでしょう。結局、貴方の一声で見直しになったのなら、良かったじゃないですか。王英は、貴方の心を乱すのが趣味なんでしょうから、適当に流すのが良いと思いますよ」
「そんなこと無理ですよ」
「どうして?」
「王英は、私を拾ったんです。私は、あの人の人形で……」
「では、王英は貴方にとって敵なのでしょうね。貴方の自由を束縛する奴なのですから」
「――そういう形で言うのであれば、貴方だって私の敵なのではないですか? 祥玲様」
「まあ……。立場でいうのであれば、私は貴方の敵になるのでしょうね。前領主を恨んでいたとすれば一応動機にもなる……のかな? けれども、私は貴方が実の娘でないことも知っていますよ」
「私が話したからでしょう」
「いいえ。私は知っていました。貴方に会うよりも、香鈴殿から文が届くよりも早く、王英とはやりとりをしていましたから」
「……やはり、貴方は何もかも知らない演技をしていたんですね?」
「それは、お互いさまじゃないですか」
祥玲は、にっこりと笑う。
「私が素性を隠すことなく、貴方の前に現れたところで、貴方は私に胸襟を開かなかったでしょう? 私はね。本当の貴方と向き合ってみたかったのです」
「――本当の私?」
確かに、莉央は祥玲が何者なのか、見たこともない男だったからこそ、すべてを話す気になった。だけど……。
「そんなことをして、一体貴方は何がしたいのですか?」
「簡単なことですよ」
言いながら、祥玲が長い髪をかきわける。長髪は更に乱れ、後ろ髪が前にやって来たので、綺麗な瞳は完全に黒髪の中に埋没してしまった。
「変に気遣ったり、壁を作られたりするよりも、本音で語り合ったほうが楽しいじゃないですか」
「そんな……こと?」
「……敵、味方なんて、くだらない。貴方の心の持ち方次第で、人は敵にも味方にもなるものですよ。貴方は本物でないことに劣等感を抱いていらっしゃるようですが、それとこれとは別の問題でしょう。口悪く言えば、貴方に害をなそうとしている人間だって、実は、貴方の頼もしい味方になるということなんです」
「おっしゃっていることがよく……」
「生き方にも、戦術があるということです」
「…………はあ」
何だか、祥玲の弁舌にうまく乗せられているようだ。
しかし、莉央には口を挟むほどの知識もなければ、頭の回転の速さもない。
呆然としている莉央の心根を見透かすように、祥玲は両目を眇めて、曖昧に微笑する。
「王英と私は……。関係として口にするのならば、師弟関係というところでしょうかね。一応……、王英は私の弟子という格好になるのでしょうか……ね」
「…………えっ?」
ようやく祥玲が開示した情報に、莉央は唖然とした。
聞き間違いでなければ、おかしい。どう見たところで、王英よりは祥玲の方が断然若い。
「逆じゃないのですか?」
「勘弁して下さい。彼が私の師であったら、私はとっくに塾を辞めています」
酷い言われようだ。
「私は、翠先生が亡くなられる前に、塾頭を継ぐように言われたんです。先生が生きていらっしゃった頃は、衰退はしていましたが、翠塾は、細々と続いていましたからね。私が塾頭になってから、解散してしまったので、今じゃ、てんでばらばらですけれど」
「解散?」
「一人で旅にも出たかったので。まあ、いいかって……」
「私にはまったく意味が分かりません」
「先日、貴方が会った農家のおばさんは、翠塾について話してくれなかったようですね」
「……やはり」
莉央は大きく溜息を吐いた。
「貴方は、あの農民に会わせるつもりだったのですね」
「城に戻るための一本道。丁度馬車を停めても不審ではない農地はあそこですからね。あの後、すぐに行けば、おばさんが農作業に出て来るだろうと思ってました」
(――最悪だ)
何もかもが一つの線で繋がっている。
この男の思惑通りに……。
王英の企み通りに……。
だから、莉央は、面と向かって、彼に問いたかったのだ。
「私の命を狙ったのは、貴方なのですか? 祥玲様?」
ーーそのたった、一言を。