第二十四章 第六部 雛型実王
頬が濡れていた。
自分が泣いているのか、と思った。違う、涙の跡にしては、方向がおかしい。縦に落ちていくはずの涙は、頬の途中から出現し、そのまま耳のある方向へと流れている。
じゃあ、これは何だ。……そこで、自分が目を閉じたままだということに気づく。そうだ、これなら何で泣いているのかなんて分かるわけがない。
さあ、目を開けよう。
「――実王」
空音が泣いていた。
答えは簡単だった。そして、俺は幸運だった。大切な人が側で泣いてくれるなんて、俺はなんて幸せものだろうと思った。
「空音……。心配させて、ごめん」
久しぶりに喋った気がした。短い言葉のはずが、声を出すという行動に違和感を与える。それだけ、自分が眠り、この世界との関わりを失っていた証明。
「本当よ。私が、どれだけ心配してたか、知らないんでしょ」
顔を下げ、俺の胸元にその頭を乗せた。じんわりと感じる体温と、流す涙で湿る感覚。
「いいや、心配していたこと、よく分かるよ」
「……ばか実王」
「ほんと、馬鹿だな。……だけど、ゆっくりしている暇はないよな」
目の回りを赤くする空音が顔を上げ、不思議そうに俺を見る。
どういうこと? その目はそう問いかけている。
「ヒヨカ達は今、カイムと戦争をしているな。そうだろ?」
俺の口から思いがけない言葉が出たことに驚いた空音は、驚愕の表情で俺の顔を見つめる。
「どうして、実王がそれを……」
「説明している時間はないんだ。ヒヨカ達のもとへ急ごう」
俺は上半身を起こす。傷は完治しているが、ところどころ体が痛むのは、まだ本調子ではないからだろう。大きな怪我だったはずのものを無理やり治したせいだろうか。だが、この程度の傷に構っている暇はない。
「空音、ヒヨカと魔法で連絡を取ることはできないか。俺の無事を知らせれば、ヒヨカの気持ちも多少なり落ち着くはずだ」
俺の言葉に空音は表情を曇らせた。
「どうかしたのか、空音?」
「その……私……。ちょっと、魔法が使えないみたいなの」
「え!? な、なんでだよっ!?」
俺の問いかけに空音は、気まずそうに目を逸らした。
そこで空音を責めているような状況になっていることに気づいた俺は、ゆっくりと静かに質問を投げかける。
「すまん……。言いたくないなら言わなくてもいいけど、良かったら教えてほしい。空音に何が起きているのか、俺は知りたいんだ」
俺の言葉をゆっくりと飲み込むように、二度三度コクリコクリと頷く空音。そうして、相変わらずの暗い顔つきで俺と目を合わせた。
「実は……。実王を救うために、私の魔法を実王の中へと送り込んだの」
「お前……!? なんで、そんな……」
空音にとって魔法とは、強大な力以外にもヒヨカの絆としての意味もあったはずだ。それを俺に譲り渡すなんて……。
「それでも、実王を救いたいと思ったの! 私の魔法の力を全て託してでも、実王には生きていて欲しかったの!」
次に驚きの表情を浮かべるのは、俺の方だった。
空音の素直で真っ直ぐな感情は、俺の胸に突き刺さり、心を優しく包み込んだ。
空音の目は、複雑そうに揺れる。
これ以上、空音に問いかけるのはやめよう。きっと、俺が逆の立場なら同じことをした。ただ、愛した人を救おうとしただけの話だ。これ以上の問答など、意味のないものだ。
今、彼女にかける言葉は、同じくシンプルなもの。
「……ありがとう、空音。お前から、受け取った魔法を大事に使わせてもらうよ」
俺は空音に微笑みかけると、よほど不安だったのか、無邪気な笑顔を俺の顔に向ける。少し幼く、とても可愛らしい笑顔だった。
※
俺は空音から制服を受け取り、綺麗にアイロンのかけられた制服に着替える。
ヒヨカの学園長室に俺の指輪はあるらしく、俺と空音は学園長室へ向かう。
都市は静寂に包まれ、人っ子一人いない。この世界、最後の大陸戦争が始まるのだ。予期せぬ事態に備えて、全ての住民達を避難させているのだろう。
一応、空音から俺は魔法の力を奪い取る形になっているようだが、今の俺にはその力がないようで、どれだけ念じても魔法の力が発揮することはできない。移動しながら、空音に助言を求めても、それ通りに行おうとしても、何も変化はない。
どういうわけか、魔法を持ちながら、魔法を使えない俺は、空音に申し訳ない気持ちになりながら、急ぎ足で学園を目指す。何か相性があるのか、それとも俺が異世界の人間だということが原因なのかは分からない。それでも、宝の持ち腐れをしていることには変わらなかった。
気持ちが沈むからといって足を止めるわけにも、魔法の使い方を改めて学ぶ時間もない。ゴーストタウンと化したイナンナの都市をじっくる見る暇もなく、俺と空音は学園長室の扉に飛び込んだ。
目に飛び込んできた風景は、いつもの学園長室。ただ、そこにはヒヨカはいない。机の上や床には、乱雑に様々な資料類が散らばる。
「……誰?」
訝しげな空音の声。
空音がその目に警戒の色を表しながら、ある方向を見つめていた。それは、ヒヨカの座る学園長の椅子。それが背中を向けて揺れている。
どこかで見たことのある光景。それは、ウルドに見せてもらった過去のものと似ている。その椅子が、振り返った瞬間、カイムがいるのではないか。そんな嫌な想像が浮かぶ。
俺は、無意識に体に力が入る。
椅子がクルリと反転をする。
「実王お兄ちゃん、空音お姉ちゃん、待っていたよ!」
俺と空音は目を丸くする。
そこに待っていたのは、ニコニコ笑顔のルイザだった。
俺はホッと息を吐き、空音は未だに目を丸くしたままだ。
「実王の知り合い……?」
「あ、ああ。実は、コイツが……ナンナルの竜機神の乗り手なんだ……」
「え!? 嘘でしょ!」
「ぶいっ!」
嘘じゃないよ、というつもりなのだろう。ルイザはその笑顔で、二本指を立ててピースサインを向ける。
「嘘じゃないさ、正真正銘の竜機神グングニルの乗り手だ。それに、この状況で嘘をつくと思うか?」
「うっ……。確かに……」
空音は複雑そうな顔で納得すると、ルイザを見る。……やっぱり、どこか納得してないようだ。
とりあえず、複雑そうな顔をする空音はおいといて、俺はルイザの声をかけることにした。
「どうして、ルイザはここにいるんだ? 普通なら、ルイザも……」
「――戦っているんじゃないか、てことでしょう」
「あ、ああ……」
「うん、本当なら私も戦わないといけないの。だけど、それでは勝てません、てねクリスカ様に言われちゃったからさ。……だから、今の私じゃ勝てないから、お兄ちゃんを待っていたの」
何か考えることがあったのだろう。少しだけ大人びた表情でルイザは、俺に微笑みかける。どこか、影のある笑み。
「俺を待っていた……?」
「うん、お兄ちゃんのバルムンクの指輪、私が預かっていたんだよ」
「ル、ルイザがバルムンクを!?」
ゴソリゴソリとポケットから出てくるのは、バルムンクの指輪。
俺は他の大陸の乗り手にヒヨカが渡していることに、驚きの声を上げる。空音も驚いているようで、あんぐりと口を開けてルイザの手の平を見つめている。
「だいじょーぶ。ナンナルは、もうイナンナと一つになったから、戦う理由なんてないからさ。――だけど、実王お兄ちゃんには、エヌルタと戦う理由があるよね」
射抜くようなルイザの視線。俺にとっては、つい最近見たもの。人に緊張感を与える乗り手としてのルイザの顔。
気づく。俺はルイザに試されている。
「ああ、俺には戦う理由がある」
「どうして? ヒヨカ様に聞いたけど、お兄ちゃんはイナンナの人じゃないんだよね。それなのに、どうして、そうまでして戦うの? お兄ちゃんは、死にかけていたんだよ。もしかしたら、今度こそ死ぬかもしれないのに」
「そうかもな。だけど、俺は行かないといけないんだよ。俺にしか、カイムは止められない。……この世界を救えるのは、俺しかいないんだ」
「それは、お兄ちゃんの望んだことなの?」
自分の力で全てを救えるなんて思っていない。それでも、俺が今から戦うのは、戦うしかないというわけではない。――戦わないといけないのだ。
それしか道がなく、自分で考えることもできずに、ただ流された戦うのとは違う。
俺が守りたい人がいるから、大切な人達がいるから。戦わないといけないのだ。
ルイザの目を見て、俺は深く頷いた。
「望みじゃない、俺の選択だ。自分で選んだ道だから、ここにいるんだ」
鋭い目線と迷いのない瞳が交錯する。そして、ルイザはつい先程まで浮かべていた年相応の笑顔を見せた。
「――そっか! それなら、私は応援するしかないね!」
お兄ちゃん! 元気いっぱいに声を上げれば、小走りで俺の前に立つルイザ。
ルイザは指輪を、俺に差し出した。
「それじゃ、お兄ちゃん。――この世界のことを頼んだよ。この、バルムンク・リヒトと一緒に守ってね」
「バルムンク・リヒト……」
俺はその名前を口にする。これが、今から俺の受け取る希望の名前。
「私の乗っていたグングニルとバルムンクの合体した最強の竜機神だよ。絶対に、負けないから。それに、負けたら絶対に許さないよ!」
めっ、という感じにお姉さんぶって人差し指を立てるルイザ。
その微笑ましい顔に、緊張が少し和らいだ。
二体の竜機神が一つになったという前代未聞の事態もすんなりと受け入れることのできた俺は、指輪に手を伸ばす。
「おう、さっさと終わらせてくるよ。――行こうぜ、空音」
指輪をその手に受け取る。
他の大陸の竜機神が一つになるという事態が、よほど驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする空音に笑いかけた。
「あ……。――うん、行こう!」
我に返った空音が、俺の目を見て強く頷いた。
こうして、俺は再び希望の剣を手にした。
――行こう、ウルド。
――はい! どこまでも、一緒に!
ウルドの元気な声を耳に、俺はその指輪を中指に装着した。