第二十四章 第一部 雛型実王
俺の名前は雛型実王。
優しい母、愉快な父と三人で過ごしている。祖父母は、田舎に住んでいるが、いつも会う度にかわいがってくれる。
幸せなはずだった子供の時代。
それに変化が訪れる。ある声を聞くようになってからだ。
――。
確かに誰かに呼ばれた気がした。
小学校での授業を受けていた。俺は、その声がまるで助けを呼んでいるような気がした。だから、席から立ち上がり、先生の制止も振り切って、教室を飛び出した。
どこーどこにいるのー。と、泣き喚き、隣の教室でも叫び、トイレの個室を全て開放し、ゴミ箱をひっくり返して、自分を呼ぶ声を探し続けた。
子供とはいえ、このような姿は異常だ。……そうだ、子供とはいえ異常だ。
先生達に途中で取り押さえられて、両親を呼ばれ、その日は家に帰ることとなった。両親は、人前で話してはいけないと注意をした。それ以上は怒られることもなく、普段よりも少しだけ豪華な晩御飯と毎週楽しみにしていたアニメを堪能してから普段どおりに眠りについた。
翌日、学校へと着いた。それも普段どおり。そして、変化が始まる。
机の上は落書きが溢れ、昨日置きっぱなしにしていた体操服は破かれ、引き出しを引いてみれば、切り裂かれた教科書とグロテスクな無数の虫達。それから、孤立。
「気持ち悪い」
「頭、おかしいんじゃないの?」
「うそつき」
幼く精神的に未発達な年齢。集団から突然出現した異常に戸惑うもの。相手が強い立場なら、彼らは飛びぬけた存在として評価する。しかし、相手が個としての弱い立場なら、それは単なる幼い狂気をぶつける対象になる。
なんで、自分がこんな目に合うのか。
なんで、自分は何も悪いことをしていないのに。毎日、酷い言葉をかけられるのか。
早く、こんなところを出て行きたい。本当の居場所が他にあるはずなんだ。その時期から、俺は自分の居場所を探そうとしていたのかもしれない。
両親にはそれらしい理由を取り付けて、中学は家から離れたところに通うことになった。
小学校時代の影響で、その頃の俺はあまり人と話をすることが得意ではなかった。しかし、過ごす場所も変われば人も変わる。決して多くはないが、友達と呼べる存在もできた。
ここではないどこかに、そんな気持ちを抱えながらも、俺の日々は穏やかなものに変わっていっていった。
ある日のこと、一人の女生徒と親しくなった。
少女は、いじめを受けていた。どこか変わった子だったが、クラスメイトがいじめるには十分過ぎる理由だったのだろう。
放課後、忘れ物を教室に取りに戻った俺はその光景を目にする。
髪を引かれ、自分のバッグの中身を床に散らす。その少女を数人の女生徒を囲んでいる。
「やめろ!」
怒鳴り、その子の手を引いて歩き出した。
自分と少女の姿が重なった。あの日の自分は誰にも助けてもらえなかった。手を伸ばしても、それを握ってくれる人のいない悲しみを知っていた。だから、俺は助けようと思った。今は、手を伸ばす立場なのだから。
本を読むのが好きな子だった。いろんな本を教えてくれたし、俺も楽しそうに物語を語る彼女を友人だと思っていた。……もしかしたら、恋愛感情もあったかもしれないが、今はよく分からない。
クラスで噂が立ち、強引に同じ委員にさせられたりとしたが、それでも俺は嫌ではなかった。あの子はどう思っていたかは考えられないが、少なくとも孤独ではないということは、それだけで力であり安心であるはずだった。
「雛型くん、これ面白いから読んでみてくださいっ」
「雛型くん、いつも迷惑かけて……ごめんね」
「雛型くん、修学旅行……私と一緒に見て回って良かったの?」
「いつもいつもありがとう。……こんな私のために」
俺は信じていた。いろんな表情を見せてくれることを証拠に、彼女のためになっているのだと。一緒にいるだけで、彼女の悲しみを和らげることができるのだと。
そうやって、過ごしていく内に――彼女は死んだ。
飛び降り自殺だと言われた。はっきりとした理由も分からない。事故だという人もいたが、どちらにしても遺書のも残さず消えてしまった彼女はもう戻らない。
いつも通り、手を振って離れていく彼女は笑顔だった……はずだ。思い出せない、あの日の笑顔も。
少なくとも、俺には一つだけはっきりしていることがある。
手を握る側になっても、その手を絶望から救い出すことができなかったという現実。毎日、手向けられた花の置かれた机を見るたびに、発狂してしまいそうなった。
それから間もなく、夏休みに入った。毎年恒例となっている祖父母の家へと盆を利用しての帰省。
彼女のできごとで、はしゃぐ気分にはなれなかった。温かく迎えてくれた二人に、冷たい態度をとってしまったことは今でも後悔している。
祖父母の家で過ごす内に、祖父がどうやら俺の様子の変化に気づいたようだった。原因までは知らないようだったが、いつも心配そうに様子を窺っているのが俺でも気づけた。
「一緒に、スイカでも食べないか?」
夕食の後、祖父にそう誘われた。
ここで心配ないと言ってしまえば、彼の俺へ抱く心配も解消されるだろうと、失礼なことを考えつつ、イエスの返事をした。
二人、縁側で並んでスイカをかじる。祖父の自信作だけあって、甘く瑞々しかった。
「どうだ、うまいか」
口から流れる赤い果汁を拭いながら、俺は頷いた。
「うん、おいしいよ」
そうか、と祖父は笑顔で頷き返せば、夜空を見上げた。田舎の澄んだ夜空にまん丸のお月様が、とても綺麗な夜だった。
「実王、何か悩みでもあるのか」
予想していた質問に、俺は反射的に用意していた言葉で返す。
「……ないよ、少し宿題が多いから、それで悩んでいたんだ。だから、大丈夫さ」
作った笑顔を祖父に向けた。
それなら、良かった。そう返ってくると思っていた。だが、普段ニコニコしている祖父の顔は、どこか怒っているように思えた。
「まったく、お前ら親子はどんどん似てくるな。お前の父さんも、同じようにいろいろなものを抱え込んでいる時、決まって大丈夫大丈夫。下手な作り笑いと一緒にな。……書いてあるぞ、悩んでいますとな。あの二人が、お前の悩みに深く突っ込まないところをみれば、大きな悩みなのだろう? なあ実王……老い先短いジジイの頼みだと思って、話て聞かせてくれないか。こう見えても、お前の父さんの悩みだって、山ほど聞いてきたんだ」
祖父は、その表情を再び穏やかなものに変えると、ゴシゴシと乱暴に頭を撫でてきた。久しぶりに誰かに撫でられたことに気づき、恥ずかしさに顔を伏せる。
蝉の声、スイカの果汁で占める手、頬を撫でる夜風、合間に聞こえる頭を撫でる音。不思議と、祖父に話をしたいと思った。自分の中では、決してまとまることのない彼女の話を。
「……じいちゃん、俺さ。クラスでいじめられている女の子がいて、その子をいじめっ子から助けたんだ。それからは、守りたいと思って、なるべく一緒にいることにしたんだよ。最初は同情で助けたかもしれないけど、俺は彼女のことを大切な友達だと思っていた」
「それから、どうしたんだい?」
言葉を詰まらせる俺に、祖父は優しく声をかける。
「……それから……そして……。……彼女は、死んだんだ。自殺かもしれないし、事故かもしれない……」
祖父は息を呑んだのが分かった。撫でていた手がピタリと止まる。
「俺……助けたいと……守りたいと……思っていたのに……。結局、俺は彼女のためには、何もできなかったんだ。……それに、もしかしたら、俺が行きたくない学校へ縛り付けていたかもしれない。……最初から、助けなければ……彼女はまだ、生きていたかもしれないのにっ」
自分の顔を覆う。
思い浮かぶ彼女の顔。その全てが一斉に俺のことを見て言うのだ。
君のせいだよ、何で助けてくれなかったの。青い顔でそう告げる。悪夢で何十人もの彼女に言われたこともあるし、この間はとうとう幻覚まで見ることになった。
また、彼女の姿を見てしまいそうで、俺は己の顔を覆うことで、それを見ないようにした。彼女を思い出すと、彼女の話をすると、彼女が立っているような気がした。
ナンデタスケテクレナイノ、キミノセイダヨ。彼女の言葉が、全て刃物のようだった。心を体を引き刺していく恐怖の声だった。
体が震える。寒さではない、ただ怖い。言いようのない罪悪感が恐怖になっている。そんな俺の体を祖父が抱きしめた。
「実王、よくお聞き」
「え……」
「最初から助けない、なんて選択をしちゃいけないんだ。実王は、間違ったことなんて何もしてないんだよ」
「どういうこと……?」
顔を上げれば、祖父はその皺を何重にもしながら頬を持ち上げた。
「私も、昔。ある子供達を助けたことがあるんだ。最初は凄く警戒してね、何を言っても暴れてばかりだったよ。でも、この子達を助けられるのは、自分達だけしかいないんだと思ったんだ。……実王も、その子を助けた時、同じ気持ちじゃなかったかい?」
「俺は……ただ……。助けたいと思っただけで……」
「それで十分だよ。実王は、それを行動にできたんだ。……その子供達を助けるために、いろいろ大変なことがあったよ。本当に、いろいろと大変だったな」
祖父は何か思い出すように遠くを見る。その時の俺には、祖父が何を見ているかは分からなかった。
「じいちゃん……」
「すまないね、少し昔を思い出していたよ。……でも、私は後悔してないよ。あの時、子供達を助けなかったら、私はもっと後悔していたと思う。それに、子供達を助けたことで、私はとても幸せになれた。苦しみの中、自分を信じて来たから、その幸福に出会えたんだよ」
「でも、その人達は生きているよ。……俺の助けたい人は、死んじゃったんだ」
「実王の助けた子は、笑ったりしていたかい? 楽しそうに、お喋りとかはしなかったのかい?」
「……したよ。だって、俺は友達だと思っていた。他の子には、見せない笑顔で俺に話しかけてくれるんだ」
祖父は俺を褒めるように、優しい動きだった手をゴシゴシと再び大きな動きで撫でる。
「それなら、実王の選択は間違いじゃない。彼女は、実王と出会えて幸せだったんだ。結果は覆すことはできない。……だけど、彼女の幸福な時間を作ったのは、実王があの日、彼女を助けてあげたからなんだよ」
「俺が……助けたから……」
「そうだよ、困っている誰かを助けない。なんて選択が間違いなわけないんだ。……他者を思いやる気持ちがダメなわけないじゃないか。実王の優しさ、彼女に届いているさ」
思い浮かぶ彼女の顔。
今、頭に浮かぶのは笑顔の姿。好きな作家の本が発売したとはしゃぐ彼女、傘を忘れたので仕方なく、相合傘をしたこともあった。その時は顔を真っ赤にしていた。一緒に帰ることもあった。いつもの交差点で彼女は手を振った。
――また明日、雛型くん。
俺は覆っていた顔を上げた。思い出した、最後の日の彼女の言葉を。
視界が見えなかった。ただ、目の前が水の中に沈んだように濡れていた。涙が溢れているのだ。
「でも、死んだんだよ……。それでも、俺は……」
「それは悲しいことだ。だけど、実王の中で彼女は生きている。今、心の中で彼女が生きているのは、実王が誰かを救う選択をしたからなんだ。救ったんだ、実王は確かに……彼女を救ったんだ」
涙が溢れてくる。
「俺……俺……っ」
涙で濡れた視界で、顔を上げた。
再び見えるのは、彼女の幻覚。そこにいる彼女は、ポツリと咲く小さな花のように可憐な笑顔を見せていた。
その笑顔こそ、あの日、最後に見た彼女の笑顔だった。
俺は、彼女のことで、その日初めて大声で泣いた。それから、彼女の声を聞くことはなかった。
それが、俺の短い人生で経験した。
二つの絶望と大きな希望。
※
目を開ける、どうやら長い夢を見ていたようだった。
上半身を起こすと、そこはただ広い原っぱ。上を見上げれば、澄み渡る青空。初めて来る場所、祖父母の家もかなりの田舎だが、ここまで広々とした草原はない。ただ、草原が広がるばかり。
上半分は空の青、下半分は草原の緑。まるで、よく出来た絵画のようだった。
「こんにちは、お目覚めですか?」
俺はその声に反応して振り返る。
白のワンピース姿の少女がいた。長い銀色の髪は、優しく揺れる。本当にその髪は長く、後ろ髪は腰より下まで伸び、前髪にいたっては目元を隠すほどだった。年齢は十五、十六ぐらいか。自分と同じぐらいに見える。
腰を上げて、尻の泥を落とす。
「ここは一体、どこなんだ? それに、君は?」
「あぅ……。えと、説明すれば……いろいろとお困りになるかもしれませんが……」
ちょっとだけ挙動不審そうに少女は言う。そして、意を決したように平均よりも大きな胸元に手を当て、僅かに赤くなる頬で言った。
「――バルムンクと申します。いつも、お世話になっていますっ」
ぺこり、と少女は頭を下げる。その長い髪を地面に垂らした。
そして、二分ほどの沈黙。
「は?」
精一杯という感じに自己紹介をする少女に対して出た言葉は、間抜けな一声だった。