第十三章 第四話 救世主の不在、或る所在の彼女
まず私はルカの飼っていたその大きな犬を風呂に入れるところから始めた。
風呂で汚れを落とし、彼の空腹を満たすために食事を与えた。我が家には犬用のシャンプーなどなかったので、そのままぬるま湯で洗い流すだけでも、本来の綺麗さを取り戻すことに成功した。
人によく懐く犬だったが、食事も与えて撫でている内に、信じられないぐらい好かれてしまった。
捨て犬に優しくするということは、それは冷たさと温もりが同居する行い。私もそれぐらいは分かっているので、彼の世話も中途半端にするつもりはない。……他にすることもないし、今の私の罪悪感を埋めるには都合の良い存在に思えた。自分の中で己の評価がまた大きく下がった。
しばらく撫でていると、彼は大きく鳴いた。飼い慣れない私にも、その意味は分かる。彼は散歩に行きたいのだ。
空はもう薄暗い、夜といってもいい。それでも彼を連れて散歩に行こう。ボロボロに糸がほつれた彼のリードを握ると、靴を履いた。
※
大きなその犬に引っ張られ、向かったところは実王とジョギングをしていた河原に到着した。ルカもここを散歩ルートの一つにしていたようで、自然とここに足が向いたようだ。
やれやれと私はリードを緩めると、彼は土手を駆け出した。駆けるといっても、私の目に見えるところをうろちょろと走り回るぐらいで、よく躾をされていることが実感できた。
「躾、か……」
どっちのルカがしたのか分からない。今はどうでもいい、恐らくだが彼女は実王と一緒にいる。
なんで、実王はイナンナを捨てて彼女と一緒に行ってしまったのだろう。やはり、逃げたのか。戦いが辛くなったのか、それとも私のことを嫌いに――。
「馬鹿馬鹿しい……」
心の問いに声で吐き捨てる。実王は誰かを嫌いだからという理由で、全てを放り出すような人間じゃない。それに、どうして私一人のことで実王がいなくなるというのだ、思い上がりもはなはだしい。
私は本当に恥ずかしい奴だ。
――わん。私の足元に彼がまとわりつく。ボール遊びでもしてほしいのだろうが、残念なことに彼を満足させるような物は持っていない。
ごめんね、と頭を撫でれば、土手を再び走り回る。
「なんか、懐かしい。ずっとずっと昔のことみたい」
最近、独り言が増えたな、なんて思いながら駆け回る犬を見つめた。
そういえば、あの犬は実王ともよく遊んでいた。実王が駆け回れば、それを彼が追いかけて、ルカがそれを見て声を上げて笑う。
私はその時、どんな顔をして笑っていたのだろうか。ふてくされていたのか、早くトレーニングを続けようと苛立っていたのか。どちらにしても、嫌な性格だ。そこで、私は気づく。
「私、笑っているの……?」
自分の頬に触れる。口もが歪んでる。私は、小さく笑みを浮かべている。
そうか、思い出した。あの光景を見ていた私は、笑っていたのだ。彼らが笑っていたように、私もそれを見て笑っていた。その時笑っていたのは犬が好きだったからではない、吼えて追いかけられる実王が滑稽だったからでもない、あの穏やかな時間を幸せに思えたからだ。……そして、もう一つの大きな理由は――。
……雛型実王がいたからだ。彼がいたから楽しく、毎日が刺激と喜びで溢れていた。目を閉じる、思い出すのは実王のいろんな姿。一人でこんな世界にやって来て、たくさん不安を抱えていたのに、必死に戦っていたのだ。私は心の中でひっそりと息をする実王の記憶と対峙する。
――俺は世界の果てからやってきた乗り手だ!
メルガルに立ち向かう時も。必死に。
――二人で戦おう。
私に負けたあの日も、強く前に進もうとしていた。必死に。
――まだ終わっていない、必ず戻る。
もう諦めてくれればよかった。もう目を逸らして逃げてもよかった。それなのに、彼は自分の罪と立ち向かおうとしたのだ。傷だらけでも、必死に。
瞼を開く。気が付けば、目の前は涙で濡れていた。
「私は……何をしていたんだ……!」
強く強く両手で涙を拭おうとしても、止まらず顔を濡らしていく涙の粒達。
「ごめんっ……ぅぅ……」
絶叫にも似た泣き声。周囲を走り回っていたはずの彼も、気が付けば心配そうに私を見上げていた。何も考えずに、私は彼を抱きしめて、顔を埋めて声を上げて泣いた。心配そうに、彼はずっと涙で濡れる私の顔を舐め続けた。
答えはとっくの昔から出ていた。私は嘆き悲しんだ彼へ向けて告げていたのだ。
――だから、立って実王。そして、また刀を握るの。辛くても苦しくても、今のまま足を止めているよりも百倍マシよ。
私は自分の言葉に嘘をついていた。今の私を見たら彼はきっと嫌いになる。一時の感情で人を手にかけようとし、大切なものも傷つけた。全てから逃げ出した。ずっと、足を止めたままだった。
酷い後悔の中、私は泣き声と涙を飲み込んだ。
こんな私でも、できることがあると信じたい。私は彼の頭を撫でると、顔を上げて立ち上がる。
実王がどこにいるか分からないし、今の私が彼のためにできることはないかもしれない。それでも、彼の帰るべきこの都市を守ることはできる。あの時、一緒に戦うというのは近くにいるということではない。どんな時でも、どんな場所でも、戦う時は一人じゃないということ。
「私は絶対に一人じゃない」
そこで私は気づく。いや、もう降参したということが正解だ。
今の私はどうしようもないぐらい、雛型実王のことが大好きなのだ。
それはヒヨカのことも一緒だ。ヒヨカが大切で、守りたくて……そんな私は難しく考えすぎていたんだ。ただ、私は私のままで進み続ければ良かっただけの話だったんだ。
※
ヒヨカは学園長室の机で頭を抱えていた。
「マルドックの竜機神!? そんなはず、ありえない……」
現在、イナンナの都市が警報を鳴らしていた。
第三防衛ラインに出現したのはマルドックの竜機神だという報告がヒヨカの耳に飛び込んできた。確かに、強力な力を大陸の端で感じるが、竜機神とはまた違った何を感じさせた。それでも、その能力は竜機神に匹敵するかそれ以上の力をひしひしと伝わってくる。
『ヒヨカ! 聞こえてる!?』
突然響いた声は、レヴィのもの。部屋の中央から出現したモニターにレヴィの顔が浮かぶ。
「レヴィ……」
「そっちにヤバイのが向かっているらしいわ。メルガルの竜機人も交戦したけど、足元にも及ばなかったみたい」
レヴィは頬に汗を搔いている。彼女の動揺がここまで伝わってくるようだ。
「今、対策を考えているところです……」
「なに悠長なことを言っているの! 私のところに竜機神がいればいいんだけど、ブルドガングは修復できるかどうかも怪しいし……。あ、そういえば、ノートゥングはどうしたのよ。あの機体なら、戦えるかもしれないでしょっ」
「ダメです! 今の空音では、ノートゥングは動かせません! ……それに、私はもう彼女には、自由になってほしいんです。たくさんたくさん背負わせてしまっていたんです。知らない内に、私は彼女の気持ちをめちゃくちゃにしていた……。だから……ノートゥングは案から外して考えます」
確かに名案だった。私も考えていなかったわけではなかった。しかし、今の空音ではきっと操縦することなど不可能だ。それに、もうこれ以上苦しむ空音は見たくはなかった。
全てではないものの大方の事情を理解しているレヴィは、私の言葉に視線を逸らせば、話題を変えるように無理やり笑顔を作る。
「ごめん……。だ、大丈夫よ。メルガルの竜機人も向かわせるし、イナンナとの合同訓練も積んでいるんだもの。どんな敵でも負けるはずないわよ!」
頼もしげな笑顔を浮かべるレヴィ。それが、無理して作ったものだとしても、私の心を支える大きな力になる。
うん、と私は強く頷く。実王さんがいなくても、空音がいなくても、自分達を信じて戦おう。そうすれば、きっと――。
「――ヒヨカ!」
扉が力いっぱいに開け放たれる。そこから飛び込んできたのは肩で息をする空音だった。
※
ルカの犬を連れて自宅に帰れば、鳴り響いた警報とテレビの緊急速報を見た私は学園長室へと大急ぎで向かった。
私の目の前に驚きで目を丸くするヒヨカがいた。
ヒヨカが驚いている。そりゃ、そうだ。ヒヨカだって、ただの女の子なのだから。
「どうして、ここにいるんですか……!」
どうしてって……。その言葉を返して、口元に笑みを浮かべる。
「――私がヒヨカのお姉ちゃんだからよ」
私が飛び込んできた時以上に、ヒヨカの目が大きく見開かれた。
「おねえ……ちゃん……」
「誰がなんと言おうと、私はヒヨカのお姉ちゃんだもんね。巫女だろうとなんだろうと最初から関係なかったの。私はヒヨカが大切、絶対に守りたい。……大切な家族が今苦しんでいるんだもの、絶対に助けるわ」
私は自分の右手にしっかりと光り輝くノートゥングの指輪をヒヨカへ見せた。よろよろとヒヨカは机から立ち上がると、ドアの前に立つ私のところへ少しずつ近づいてくる。
「私は、お姉ちゃんを……頼っていいの……?」
「うん、お姉ちゃんを信じなさい。――ヒヨカ」
私は両手を広げた。ヒヨカは駆け足で私に近づけば、胸の中に飛び込んできた。
「たすけて……! お姉ちゃん!」
これが二度目の再会になるのかな。いや、ここで初めて再会できたのかもしれない。
胸に顔を押し付けるヒヨカの頭を撫でながら、なるべく頼もしく強い声で声をかけた。
「大丈夫、大丈夫だから……。これから、ずっと一緒よ」
昔、この都市で再び出会った時に、こうやって素直に抱きしめてあげればよかっただけなんだ。もう大丈夫だよ、と。これからもずっと一緒だよと。
「……まったく、来るのが遅いのよ」
レヴィと通信の途中だったようで、不満げな声が響く。
「すいません、レヴィ様。でも、これからは待たせた分……ちゃんとやりますから」
明るくも自信を込めて、そうレヴィに告げる。
「あらそう……期待しとくわよ」
それだけレヴィは言うと通信が切れ、モニターが閉じていく。
泣きじゃくるヒヨカの頭を撫でながら、時間は進んでいく。電話が鳴り、外がドタバタと始める。敵が接近しているのだ、それが嫌でも気づかされた。それでも、私達は互いの温もりを感じ続けた。……いいじゃないか、やっと再会できた姉妹なんだから。
それでも、敵はやってくる。……敵機の都市への出現は明け方。
私と真の力を手に入れたノートゥングの決戦はもうすぐだった。




