第十三章 第二話 救世主の不在、或る所在の彼女
うまく着地の態勢をとることのできなかった私は、下半身の痛みと同時に自分が他の場所へと移動させられたことを知る。
強引に転移させられた私は、自宅の居間に尻餅をついたことに気づいた。見覚えのある机に角のテレビ、窓は風でカタカタ揺れる。そんな私を見下ろす影が体に重なっていることに気づく、顔を見なくても分かる。
「……どうして、ヒヨカ」
私は俯いたままで、影に話かけた。
「理由は明確です。親友が罪を犯すのを黙って見ていることができませんでした」
威圧的なヒヨカ。
白々しくも私は、そこでおどけた声を出す。
「そんな、私は罪だなんて……」
「あの二人に貴女は何をしようとしていたんですか」
「な、なにをって……」
何を。
そんなの決まっていた。私は自分の手の平を見てみた。忌々しく弱い細い指。魔法という超常的な力で、奴らに罰を与えようとした。
「空音……! どうしてしまったのですかっ」
我慢ができないという感じで、ヒヨカは憤りのままに声をかける。
「どうもしてないわよ……。こんなところにいる場合じゃないでしょ、早く仕事に――」
「――戻れるわけないですよ! 泣いているんですよ、苦しんでいるんですよ、私の大切な親友が!」
心の底からの私を想う言葉に胸が苦しくなる。その胸をさらに締め付けるかのごとく、言葉を投げかける。
「実王さんのことで辛いのは分かります。私だって、辛いです……! いろんなことを言う人がたくさんいるのも知っていますっ。私だって、嫌なんです。実王さんはそんな人じゃないと言って回りたいですっ。……だからといって、ダメなんですよ。ここで私と空音が壊れてしまっては、おかしくなったら……もうイナンナはダメになってしまうんですよ!」
だから、空音。そう言うヒヨカの陰が、さらに大きくなったかと思えば、いつかのようにヒヨカの小さな手がそれよりも少し大きな私の手を包み込む。
「一緒にこの危機を乗り越えましょう。きっと、乗り越えられるはずなんです。実王さんを信じて、待ち続けましょう。ねえ、空音。実王さんもきっと、そんな空音は見たくないはずです。胸を張って彼を迎えることができるように――」
ヒヨカが私を立ちなおさせるための優しい気遣い。苦しんでいる私のための甘い期待と嘘。こんなとき、ただの友達ではない巫女としてのヒヨカを意識する。
本当にヒヨカは私のことを考えて、声をかけてくれているのだろうか。これは、形だけの酷く寒々しい言葉の数々ではないか。虚言と建前、まるでヒヨカの心の中を見ようとしていなかった自分に気づく。
ヒヨカは一人の女の子である前に巫女である。この大陸の象徴であり、望めばこの大陸全ての情報を知ることができる。それをしないヒヨカを尊敬し、誇らしくも思った。でも、違う。ヒヨカは友人であると同時に、ずっと巫女だったのだ。ずっと象徴としての彼女が私と話をしていた。
私のノートゥングが暴走した時だって、きっとヒヨカは……。
極端な思考で、ある一方的な考えをひねり出した。そうして私は、必死に声をかけ続けるヒヨカの言葉を突き放すという最も愚かな道を選択した。
「――うるさい」
「そら……ね……?」
「うるさいよ、ヒヨカ様。さっきから、実王、実王って……。正直、ヒヨカ様の口から実王の名前を聞くことが不快なの。私を馬鹿にしているの。絶対、馬鹿にしているよね」
様、の部分を強調し嫌味を込めて言う。
狼狽したヒヨカは必死に口を開く。
「そんなことありません! 馬鹿になんてしてません。私は本当に……空音が心配で……」
「心配? はっ、笑っちゃう」
この時、私は本当に笑ったのだ。心底、馬鹿にするように。
「……おかしくありません」
ヒヨカは搾り出すように小さく言う。
立ち上がり、私は上からヒヨカを見下ろすように見つめた。
「それはね、心配じゃなくて哀れんでいるのよ。そうなんでしょ、イナンナの巫女様」
あえて、彼女を名前で呼ぶことはやめて、親しい人から言われて最も傷つく呼ばれ方を使う。
私は最低だ。心でそう言いながらも、それは肯定の意味。こうする自分を許す自分もいた。
私は冷たい視線のままに彼女を見る。ヒヨカは苦しげに唇を噛んでいた。
「空音。私はここまで貴女が苦しんでいることに気づかなかったのは友人として失格だと感じます。それでも……貴女に何を言われようとも、貴女は私の友達なんです。大切な友人なんです。だから、言い続けますよ。実王さんがそうするように、私も言い続けます」
温かい。自分の強く握られた右の拳が、ヒヨカの両手でがっしりと覆われていることに気づく。払いのけようと力を入れるが、動かない。これはもしかして、魔法か。それとも、私が払うことを拒んでいるのか。
ヒヨカがすぐにも泣き出しそうな声で言葉を続けた。
「きっと、実王さんは帰ってきます。今の空音にできることは、実王さんを待つことなのだと思います。彼がここに帰って来るその日まで、この家を守り続けるんですよ。そのための……いってきますとおかえりなさい、だったんじゃないんですか」
――そんじゃ、空音。……いってきます。
照れ笑いと一緒に言う実王の顔が頭の中を駆け抜けた。ヒヨカを飛び越し、この居間を見回す。至る所に彼の形跡が見えてきた。
疲れて食事をしながら寝た彼、テレビを見ながら笑う彼、ソースのかけすぎを注意されてふてくされる彼、一緒に戦うと誓ってくれた彼。……この家には、ずっと彼がいる。更新されない思い出の中で、彼が生きているのだと知る。しかし、今の私にはヒヨカの妥協案すら聞く耳を持つことはできなかった。
知ったようなことを言うな、と力いっぱいに手を払いのける。今度は重ねられた手は軽く、いとも簡単に覆われたそれは重さを失う。驚いたのか力が強かったのか分からないが、ヒヨカは尻を打ちつけ小さく悲鳴を上げた。
「きゃ……!」
怒ったからといって、毒を吐いたからといっても彼を助けるための解決策なんて浮かばない。それでも、ヒヨカの待ち続けるという名の居心地の良い何もしないという答え。それを受け入れるほど、私は大人になれないでいた。
ヒヨカを見下げ、はっきりと告げる。
「もう出て行って、罪を犯そうとした私を止めてくれたのは感謝してる。……でも、今は一人にさせて。……お願い、ヒヨカ様」
ヒヨカは悔しそうに顔をしかめる。その唇は震え、今すぐにでも泣き出しそうだ。私は、もう話ことなどないというアピールのつもりで背中を向ける。それは、彼女のその顔をこれ以上見続けることができない自分が起こした行動でもあった。
背中で、もぞもぞと動く音が聞こえる。すり足気味の足音は、ヒヨカが落ち込んでいることが理解できた。それでも、腰を曲げて歩いているであろう彼女を追いかけるような真似をすることはできなかった。
「……空音、貴女は一人じゃありません。私もイナンナのみんなもついています。あの日の事件の時も、一人じゃなかったですよね。忘れないでください、貴女は一人じゃない。……またね」
ゆっくりと告げられる弱々しい声を聞き、ヒヨカが玄関から外に出て行った音が聞こえるまで身動き一つしなかった。
カシャン、と玄関の引き戸が閉じる。
急な脱力感が遅い、私は不安定な土台から転がり落ちるように膝を曲げる。足に力が入らないと知り、腕に力を入れようとも思い手を持ち上げた。その手の中には、私の涙が吸い込まれていく。水滴が一つ、また一つとその手を湿らせる。
「……私は、どうすればいいのよ」
何で泣いているのか分からないままに、その手の平を濡らしていく自分の涙を眺め続けた。




