第十三章 第一話 救世主の不在、或る所在の彼女
「もうすぐ半年になるのか……」
私は、居間のカレンダーをめくりながら、そう呟く。一人だけの家に、小さく響く私の声は空しい。
実王がルカと戦い、それから姿を消した。それももうすぐ半年になる。死んだわけではない、すぐに帰って来るだろう。しばらくすれば顔を見せる。淡い期待と共に待ち続ければ、もう半年。
あれからイナンナとマルドックは頻繁に小競り合いを続けている。竜機神を失ったマルドックに対して、イナンナにはメルガルの部隊が常駐しているので、戦力的にはこちらが優位に立っている。戦争をしているということを忘れたわけではないが、毎日の人が傷つくことのない争いが日常になっていた。
春先だった季節は、もう秋と言ってもいいぐらいだ。実王と一緒に買い物に行った時に聞かれた服ももう着ることはないだろう。
私は、部屋のクローゼットの中で新品のまま眠るワンピースを思い出す。ただの興味で聞かれた服だったが、心のモヤモヤを晴らすようにその服を購入した。確かに着ることはなく、鏡で合わせることもしなかった。モヤモヤも晴れることはなかった。でも、その服をたまに眺めているだけで、二人で出かけたかもしれない夏の日々を想像することができた。
「私……。こんなに、弱かったかな」
一人だけの食卓。どうしてだか、ここ数ヶ月は寂しく思う。
何も変わらないはずだ、何も劇的な変化はないはずだ。そうだ、机の上のあの指輪もそこにいるんだ。
救世主は、二人もいらないのだから。
※
放課後。私は、ヒヨカから頼まれた買出しリストのメモを確認しながらショッピングモールを歩く。
実王がいなくなってから、ヒヨカはずっとカンヅメ状態だ。レヴィ様も、あの日以降イナンナに顔を見せていない。ヒヨカと頻繁に連絡をとっているところを見ると決して来ることが嫌になったわけではなさそうだ。少なくとも、実王の不在で落ち込んでいるヒヨカの助けになるだろう。
せっかく買い物に来たのだから、と。ヒヨカの好きなお菓子でも買い求めようとお菓子コーナーへ向かう。そこには、学校帰りの買い物中であろう高等部の女子生徒と男子生徒がいた。
「救世主様、どうしちまったのかな」
大きく心臓が跳ねる。私は男子生徒の発言が聞こえ、とっさに身を隠した。
隠れるようなことはしていないし、私は彼らの顔も知らない。そう思いながらも、堂々と彼らの近くを通ることを体が拒んでいた。
身動きのとれない私の耳に、彼らの会話が嫌でも耳に入ってくる。
「そんなの知らないよっ。うちの学園に編入してきたことは知っていたけど、どこのクラスか知らないもん。……それに、もう死んでるんじゃないかって噂もあるよ」
「マジかよ! 俺もチラっとしか見てないけど、そんな強そうには見えなかったもんな。一度勝てただけでも、もうけもんじゃないか」
「だよねー。すぐに負けちゃいそうだったもんねー」
頭が痛い。痛む頭で、彼らの表情を伺う。まるで芸能人が引退でもするような軽口で人の生き死にの話をする。そこで私は気づいた。この頭痛は、彼らへの怒りから来ているのだと。
「そうそう。むしろ、俺が戦った方が活躍したんじゃないか! あんなへっぽこ救世主よりもさ!」
まずい。
黙ってくれ、これ以上喋らないでくれ。何も知らないお前らが、実王のことを馬鹿にするな。
「言えてるー。なんで、あんな奴が救世主だったんだろうね。私たち、もう終わりじゃん。あんな……」
二人は顔を見合わせた。愉快そうに。
「「へっぽこ救世主!」」
声を揃えてそう言えば、手を叩いて笑う。好みのお菓子が見つかったのだろう。二人は、一個ずつ手に取ればレジへと歩き出す。
私は通路の影から二人の背中を見つめる。
あいつらは何を言っているのだろうか。実王の苦しみも葛藤も知らなければ、傷つき血を流しても立ち上がる彼を知らない。彼らでは背負いきれない罪を背負いつつも、前進しようとする彼の強さすらも知らない。
どうしてやろうか。まずは、女を追いかけて、煩わしい長い髪を引っ張り、その頭に火をつけよう。歯を食いしばり立ち上がることも知らない女なら、きっと獣に似た悲鳴を上げる。
次は男だ。男はきっと情けない奴だから、女をそのままにして逃げるはずだ。魔法の力を使えば、男の前に回りこむなど寝ながらでもできる。そして、男の汚い口を閉ざそう。どうせ人を不快にさせることしかできないのなら、その顔を重力の魔法でも使って押しつぶそう。そうすれば、あまり血も飛ばないで済む。
完璧だ。奴らが店の外に出たら、すぐに追いかけよう。二人をどこかの崖にでも飛ばし、そこでゆっくりと苦しめるのもいいかもしれない。
もうなんでもいい。行こう、早く奴らの息の根を止めるんだ。
「――空音」
誰かが私の腕を掴んだ。知るか、と私は振り払う。
「空音!」
もう一度、大きな声で呼ばれ、私は足を止めた。
振り返る。そこには、頬を赤くしたヒヨカがいた。
「え……」
私がヒヨカを殴った。すぐに気づいた。
手を振り払う時に、やわらかい感触が手に当たったことを知っていた。それでも、それがヒヨカの顔だなんて思いもしなかった。
手が震える。
「凄い攻撃的な魔法の波動を感じて来てみれば……。空音、何をしているんですか」
ヒヨカの突き放すような言葉。
手に持っていたはずのカゴがない。無意識に溢れ出した火の魔法でカゴの持ち手が焼き切れていたことに気づいていなかった。
それは、ヒヨカの足元の上部が焦げたカゴが物語っていた。
「私、なんてことを……」
意識が遠くに行ってしまいそうだった。私は両手を自分の頬に当ててみる、ヒヨカを殴ってしまったことも、さっきの二人を殺そうとしていたことも、私は何でそんなことをしてしまったんだ。
顔を両手で抱えながら、ヒヨカの顔を見る。
「なんで、そんな顔で私を見るの……?」
いつもどこかで真理を持って、正解を導き出していたヒヨカ。それでも、今私が見ているヒヨカの表情は、複雑そうに小さく顔をしかめていた。その表情は知っている。恐れと哀れみ。
ざわめきが聞こえ、辺りを見回す。ヒヨカと私の周囲には、他の客が何事かと集まろうとしていた。ヒヨカは、駆け足で私の元に歩み寄る。
「転移します。行きますよ、空音」
ヒヨカは私の腕を掴んだ。今度の私は、それを降り払うことはしなかった。それでも、彼女へと声を荒げた。
「ねえ、ヒヨカ様。ねえ、なんで……! なんで、私のことをそんな目で見るの……!? ――ヒヨカァ!」
ヒヨカは苦しげに歯を食いしばると、魔法の力を念じる。私の視界は、白に染まる。それも一瞬で、目的地へと体を飛ばすことができた。そして、私とヒヨカはそこから姿を消した。
次に目を開けた先がどこだろうと、私にとっては地獄の続きなのだと感じた。
なんでなのか、なんでだろうか、ねえ、実王。……なんで、私も連れて行ってくれなかったの。貴方のいない日々は、つらいよ。なんで、どこかに行ってしまたの。……答えてよ、実王。