第十一章 第三話 君の名を呼ぶ
「ここは……」
私は瞼に当たる熱を感じ、重い意識をゆっくり覚醒する。体を起こせば、ここが自分の部屋だと気づく。見覚えのある本棚に机、可愛げのない白の壁紙は相変わらずでもあり、落ち着く空間といったところだ。今の自分の居場所は確認した。一度、よく考えてみる。
昨晩、ヒヨカ様の書類を確認したところまでは覚えている。その後、急な寒気や吐き気を感じ、意識は昏倒。……今のこの体のだるさから、私は自然とそうした結論へと導き出した。
「あの時、私は――」
当たり前のように、昨晩の記憶の蓋を開ける。少しずつ、本のページをめくるように記憶の中を探る。そして、それに気づく。私を混乱させたものの正体を。あの白いバルムンクは、まるで暴走をした時のノートゥングの姿のようだ。
次は、さらに深い記憶を掘り起こす。極限まで力を高めたノートゥングは、私の意思に反しまるで自我を持つように動き出した。あの日の弱い私は、操縦席の中で震え泣き叫び目の前で起きる悲劇から目を逸らすことができなかった。……あの日から、私は何一つ成長できていないということになるのだろうか。
「……私は弱い」
体を抱きしめるように両腕を掴む。
弱いからこそ、写真一枚で体が倒れるほどの生理的嫌悪感が出てきたのだろう。ふと頭二つ分ほど高い位置の壁掛け時計に目がいく。時間は昼をちょっと過ぎたぐらい。時間を確認したことで感覚が正常になってきたのか、小腹が空いている自分に気づく。
思ったよりも図太い神経をしているのかもしれない、などと思いながら、リビングの棚にお菓子があったのを思い出す。どうせ学園も休みだ。少し休んでから、ヒヨカ様や実王に連絡をとろう。そう思い、重たい気持ちに鞭を打ち、腰を浮かせた。ふと机の方に目が行く、何かが光っている。
「これ……。返ってきていたんだ」
それはノートゥングの指輪。ヒヨカが整備をすると言い、メルガルに渡っていたものだった。私はそれを何の気なしに手に取る。
その時、私は竜の声を聞いた。
「なんなのこれ……」
指輪が重い。いや、違和感と言っても良い。この中に眠るのはノートゥングであって、ノートゥングではないもの。手に力を入れてみる、眠るものの意識が頭の中に流れ込んでくる。――間違いない、これは竜機神だ。
ごく自然に理解した。ヒヨカはメルガルの技術力を使い、神化計画を裏で進行していたのだ。そして、今ここに多くの死を乗り越えた研究成果である竜機神が存在する。他の大陸の侵攻から守るために目指した力が、戦うはずの大陸の協力で完成した。二つの大陸が一つになった平和の証、それが竜機神ノートゥング。
頬を汗が流れる。それを見つめたままで五分はそのままでいただろうか。もしかすると、それ以上かもしれない。初めて、汗の流れる音が聞こえたような気がした。
怖い。私に、この指輪は重すぎる。私は生唾を飲み込めば、眩暈のする視界で机の上に指輪を戻す。そして、よろよろとベッドに腰を落とす。
何故、ヒヨカ様はこれを私に渡したのだろうか。足元に何か紙が落ちた。それは見覚えのある文字、実王の文字だった。指輪を持てないその手は救いを求めるように、その文字に目を走らせた。
マルドックが侵攻してきたこと、実王がそこに向かうこと、そして――。
――準備ができた。それは、ヒヨカ様からの伝言だった。
実王は今危険の中にいる。早く助けに行こう、きっとこのノートゥングなら彼の助けになるはずだ。……そのはずなのだが、私の足には力が入らない。気持ちが拒んでいるわけではない、記憶が体が動くことを拒否している。この竜機神の力を使うことを嫌がっているのだ。
「ヒヨカ……私に、どうしろていうのよ……」
私は頭を抱えると、強く目を閉じる。
怖い、力を持つことが怖い。実王に戦えと言ったのは私なのだ。それなのに、私は自分が戦うことを恐れている。どれだけ綺麗な言葉で着飾っていても、目の前にそれがあるなら、私はなす術もなく尻込みしてしまうのだ。望んだ力が目の前にある……。しかし、あの日から私は力が――。
――怖いのだ。
※
バルムンクはブリュンヒルダへと真っ直ぐに空を昇る。両腕を飛ぶように広げるブリュンヒルダは、その腕の関節部分から無数のクロウを射出する。
何かが動いた、そう感じた。しかし、そのナニカを知るまでにはいかない。バルムンクに突き刺さる衝撃で、ナニカが敵の攻撃だということを知る。機体全身が脈打つように大きな衝撃が襲う。
先程と同じように一つ一つは大したダメージはない。しかし、ある意味それも可能性の話。
頭上から響くルカの声。
『まるで、鉛筆削りね。……私のところに到達する頃には、芯だけになっているんじゃないかしら。どうかしら、この冗談て面白いと思う?』
一度宙に浮いたはずの足は、再び地面に足をつける。
ルカの言う通りだ。近づけば近づくほどに機体が削がれていく、少しずつ装甲が薄くなっていく。こんな冗談を面白いとは思わないが、それでもその通りなのだと納得できてしまう説得力がある。
「……ルカ、お前はどうしてこんなことしてるんだよ。お前も他の大陸の乗り手と一緒で、この大陸を守るために戦っているのか! 別の人格を用意して、町や村をこんな風にしてまで……!」
単なる時間稼ぎかもしれない。それでも、俺はそう言葉を投げかけた。
『守る? 違うわ、私にその感情は理解できるものじゃない。私は最初から巫女バイルの盾であり剣。最強の乗り手になるための生活、余計な感情を持たせないための教育と隔離。――どうせなら、私をマルドックの兵器と呼んでもいいわ。いいえ、竜機神の部品と呼んでもいいかもしれない。そんな私には、己の持つ戦う理由なんてない。……もし戦うことに理由を求めるなら、それは義務と呼べるものよ』
「義務……。お前はそんな理由で戦うのか」
その時、僅かにルカの声が怒るように高くなる。
『そんな理由……。私にとっては、それが全て。それを否定するということは、私の人格や生き方を否定するのと一緒。……貴方に、こんなことを話しても仕方がないわね』
空中に遊ぶように浮かんでいたナイフが、バルムンクの足元に突き刺さる。それは牽制であり警告。ここから先に行くようなら、容赦はしないという表れ。
どうやら、怒らせてしまったようだ。しかし、それはある意味、自分の中では好都合な展開だ。ルカの人格も機械じゃない、怒る一人の人間だ。それが分かった以上は、どこかに勝機があるかもしれない。今のルカは機械的で、攻撃も正確無比。今機体を動かそうとするならば、容赦のない攻撃を放つだろう。
一か八かの賭け。そんな言葉を頭に思い浮かべつつ、煽るように声を上げた。
「……お前、矛盾してるぜ」
バルムンクの頬を一筋のナイフが横切る。傷跡を残すも、それは単なる威圧に過ぎない。
『おかしなことを、口走らなかったかしら』
関節から射出された一本のナイフがを作為的な重さを持ちながら、高速で落ちる。それは肩をかすめて地面に落ちる。
今度は少し見えた。相手の射出される瞬間も機体を傷つけるその時も。
「矛盾しているんだよ、お前……。自分のことを部品だなんだて言いながら、自分の人格を否定することを嫌がるなんて。ルカ、どう考えてもそれは兵器にはできないことだ。それにな、生き方なんて言っている時点でお前はちゃんとした人間なんだよ。……そうだよな、人間じゃないことにしておけば――ルカ、お前の犯した罪から逃げられると思うよな」
そう、人間じゃないなら。犯した罪から逃げられると勘違いをする。俺が全てを捨ててしまおうと思ったようにルカも捨ててしまおうとしたんだ。人間という現実を。
ブリュンヒルダは無数のナイフを射出すると、空中にプカプカと無造作に刃を浮かせた。
『私はマルドックの兵器であり機械だ。無駄話が過ぎたようだ。――失せろ』
空にキラキラと舞う刃たちは、重力の流れを受けるようにいくつものナイフがバルムンクに降り注ぐ。
バルムンクをすぐさま後退させる。大きなバックステップ。ナイフは地面に突き刺さるどころか、刺さる直前で方向転換をしてバルムンクを追いかける。右手の刀を横に一閃。刃を弾き飛ばす。全てを弾くことはできない、そのまま空へとバルムンクを走らせた。それを、弾き飛ばすことのできなかった数十ものナイフが追う。
追うナイフと逃げるバルムンク。情けない構図だが、今一番の最良の回避方法だ。ある程度まで昇ると、向きを変える。方向を変える際のナイフの僅かな時間でまた刀で叩き落す。回避のために空を飛び、向きを変えては再び叩き落す。それを繰り返し、最小限のダメージに押さえ込んだ。それでも、最小限という話であって無傷ではない。
竜機神は一応機械なので肩で息をするようなことはないが、それでもバルムンクの状態は肩で息をするようなものだった。
『あれだけ大口を叩いたんだ。どれだけのものを見せてもらえるかと思っていたが、この程度か』
確かに、それはルカの言うとおりだろう。ルカを助ける以前に、俺の実力ではルカに勝てるように思えない。……そう今の俺では。
空中で視線を正しながら、対峙するブリュンヒルダ。
「そうだな、俺の力ではお前を倒せないだろう。お前を煽れば、もしかしたらどこかにチャンスができるだろう……て軽く考えたけど、それも難しそうだな」
既に足元の町は炎に包まれ、もうそこに人が住んでいた形跡すらも分からなくなっていた。
『まだ、お前は東堂ルカを救うつもりか?』
ブリュンヒルダは宙に浮かんだナイフを一本手に取る。それを遊ぶように手の中で回す。
「――違う」
ここはイエスを選ぶところではない。奴の言葉は否定で返す。違うのだ。俺の中には、その選択肢だけが浮かぶ。
『やっぱりな。雛型実王、お前は自分が思っている以上に己のことが大事で、自分という存在の前では他人の存在など霞むような弱い人間なのだ。救世主の椅子はさぞ気持ちよかっただろう。……口先だけの阿呆はこの戦場から去れ。命は見逃してやろう。そして、さようなら――バルムンク』
ブリュンヒルダはその手に持つナイフをバルムンクへと投じる。それが吸い込まれるような的確な狙い超速で、バルムンクへと向かう。狙いは顔。この一撃を受け、それからトドメの攻撃に入るのだろう。そのあえて投げられた一本のナイフは、ルカの始まりでもあり東堂ルカの終わりともいえる一撃。――しかし、俺はその一撃を良しとしない。
「――違う、そうじゃない。俺は……お前も救って東堂ルカも救う」
ナイフはバルムンクまで届くことはなかった。バルムンクは投げられたナイフを左手でがっしりと掴んでいた。
ルカはその言葉に、僅かに驚きの色を混ぜる声を漏らす。
『なにを、世迷言を』
俺は知っている。壊すことが救うことよりも簡単なことを。俺はそういう選択をすればいいのかもしれない。それでも、俺はもうそんな選択はしたくはなかった。
自分を機械と呼び、罪を正当化しようとするルカ。その姿は、メルガルでのクーデターの日、罪を背負ってしまったことを知りつつも、全てから目を逸らして逃げ出した俺と重なる。あの時の俺は、空音が助けてくれた。しかし、今のルカは一人でもがいているようにも見えた。だから俺は……そんな、ルカを放っておくことはしたくないと強く思う。
「ルカ、お前も一人の人間だ。最初は、お前をルカの姿をした悪魔か何かと思った。でも、違うよな。お前だって、自分を馬鹿にされたと思ったら怒る一人の人間なんだよな」
『馬鹿なことを言うな。私は、人間ではない。単なる兵器としての存在だ。存在意義など、ただ巫女の指示に従い、目の前の敵を壊すのみ』
ルカが動揺しているのが分かる。先程までのルカなら、今のうちに攻撃を続行しているはずだ。
「そんなことはない! お前がどれだけ自分を否定しても、俺はお前が人間だということを信じる。信用できないなら証明してみせる」
『証明、だと。今のお前の力では、そんなことは不可能だ』
言い切るルカ。
俺は額に流れる汗を手の甲で拭けば、大きく吸った息を深く吐き出した。
どう抗っても勝てない敵が目の前に居る。俺の持てる手段も時間も限られる。無い知恵を使って出る答えは、無理をすることだ。人間、それなりに無理をしたら、届かないと思っていたものも届く時がくる。だから、俺は知恵がないなりに、その無理を形にするための記憶という手段を使う。
それはとても危険な方法で、取扱説明書など存在しない。それでも、それは今一番の最良の方法で。屋上で伸ばしても届かなかった手が、もう少し伸びそうなやり方。
俺は息を吐くように声を出す。
「不可能じゃない。俺は、目の前で助けられる命は助けることにしているんだ。……お前を救うことを諦めたりはしない。――制限解除」
それは俺が自由に使える魔法の呪文。
バルムンクが眩いばかりの光を発した。
光を発するときに、ルカの驚きの声が聞こえた。それを聞いて、ますます俺は、このルカも救おうと心に決めた。