第十一章 第一話 君の名を呼ぶ
第五都市マルドック。工業中心のメルガルとは違い、過去の時代を尊重することに趣きを置き、レンガ作りに統一された赤い屋根など芸術や歴史を感じさせる建造物が多く見られる。無論、現代的な部分もあるが、そうした過去から残る物を大事にする風習の強い大陸だった。
巨大な学園、無数にあるその屋上一つで夜空を見上げる女が一人。彼女こそ、マルドックの頂点に立つ巫女と呼ばれる存在。
年齢は、十七。黒い短髪。ボーイッシュと言うものも多いかもしれないが、見る人が見ればその短髪は、同年代よりも大人びた大人の色気を感じさせるものだった。女の目は赤い、それはルカと同じく瞳の奥に怪しい輝きを感じさせた。その瞳はつまらなそうに空に浮かぶ月を見つめる。
「――戻って来ていたか」
手すりに手を置いたままで、一言も声を上げず背後に立つ人物へと声をかける。
「はい、バイル」
そう返事をするのは、ルカ。マルドックの制服を着るでもなく、黒いパーカーのフードを深くかぶっている。
視線だけは背中のルカに向ける巫女バイル。
「なんで、ここにいるのかしら。指輪を渡した理由、分からなかった?」
その言葉は冷たい。ヒヨカなら労いの言葉の一つでもかけるのだろうが、バイルはそれを良しとしない。ただ、失敗を糾弾するように。
「私に返す言葉はない。すまない」
非難を素直に受け取るルカ。表情のないままに、形だけの謝罪をする。
顔を向けずにバイルは舌打ちをする。
「ルカ、自分の中で飼っている子猫ちゃんの世話もできないのかしら」
バイルの声の感情は苛立ち。今度は実に分かりやすく、その声は明らかに腹が立っていることが伝わる。
ルカは自分の失敗が知られていたことに眉を動かし、不満そうな表情をする。
「……選んだサンプルが悪かったのよ。私は悪くないわ」
ルカの不満そうな声を聞いたバイルは、笑い声を上げた。楽しげな声だったが、この雰囲気ではそのまま受け入れることはできない。バイルの狡猾さを知っているルカは、その笑いが落ち着くのを黙って見ていた。
「久しぶりに、こんなに笑ったわ! ……ねえ、ルカ。アンタって自分のサンプルに影響を受けていることを気づいていないようね」
ルカは不満そうに眉を顰める。
「私が影響を受けてる……。そんなこと、ありえない。私の油断が彼女の出現を許したかもしれないけど、それは偶然の産物と変わらない。慣れないイナンナの土地で魔法を使ったことで、気持ちが緩んだだけよ」
「……あらそう、気持ちが緩んだのね」
口元を歪ませてバイルは笑う。こちらを窺うその目は全てを見透かすように、ルカの心に波紋を呼ぶ。
ルカは腹が立つままに、それ以上の言葉は喋ることはなく背中を向けた。
「私がサンプル程度の人格に影響を受けることはない。――証明してみせる。明朝、仕掛けるわ。……行ってきます、姉さん」
ルカはそのまま屋上の扉を開ければ、階段を下りていく。その背中へと体を反転させる。既にルカの姿は見えない。
「互いに滑稽ね。アナタにそう言われるまで、姉妹ということを忘れていたわ」
ルカがいなくなった後も屋上で、バイルは怪しく笑い続けた。
※
レヴィを送り届け、ヒヨカと一緒に学園長室に戻ってくれば、苦しそうに倒れている空音を発見した。慌てた俺達は返事もできない空音にヒヨカの様々な魔法をかけてもらったが、改善する様子もない。この大陸に魔法以上の特効薬がないことを知っている俺達は、空音を抱えて自室に戻ってきた。
空音の部屋は、畳に勉強机とピンク色のベッド、本棚もあるにはあるが参考書が大きな割合を占めている。女の子らしい物といえば、ベッドの枕元にある小さな犬のぬいぐるみぐらいだろう。
「空音、一体どうしちまったんだよ……」
自室のベッドの上で苦しそうに目を閉じる空音。その隣に座るのは、ヒヨカと俺。小さくて聞き取れないが何かうわ言を言う空音の姿に俺は胸が苦しくなる。今、この立場を変われるなら変わってやりたいと心の底から思う。
「空音……」
心配そうにヒヨカは膝を曲げると空音の手を握る。握ったその手は小さく震え、今までに見たことのない弱りきったその姿は俺の考えている空音のイメージとは大きくかけ離れたものだった。
強くいつも真っ直ぐしていて、俺が弱い時は背中を押し、弱さを見せることはあってもそれは強さからくるもの。今起きている何が彼女をそうさせているのか、どういう理由で彼女がこういう状態なのか……。俺には分からなかった。唇の色は青く、白い肌はまた違った病的な白さを感じさせた。
空音が何を言っているのか、それを聞こうとするヒヨカは口元に顔を寄せる。そして、その声を聞いたヒヨカは表情を曇らせる。
「……そう、そうなんですね。ごめんなさい、私の責任です」
ヒヨカはそう言えば、ゆっくりと腰を上げた。
「実王さん、お願いがあります」
ヒヨカが俺へと振り返る。その表情はとても必死だった。
「なんだ。俺にできることなら、なんでもするよ」
俺の正直な言葉に、ヒヨカは強く大きく頷く。
「ありがとうございます。お疲れのところ申し訳ないんですけど……。空音が落ち着くまでの間、彼女の側に居てもらっても構いませんか。こういうことを頼めるのは、実王さんだけなんです。どうか、お願いします……」
その言葉に今度は俺が大きく頷く。
「ああ。俺なんかで力になるのなら、むしろ願ったり叶ったりだよ」
ヒヨカは優しく目を細めると、懐から指輪を取り出した。それがノートゥングの指輪だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
「重ね重ね申し訳ないのですが、空音が目覚めたら、コレを渡しといてもらってもいいですか。レヴィに預けていたものなのですが……。一言、準備ができた。そうお伝えください」
俺はノートゥングの指輪を受け取る。
満足そうにヒヨカは俺を見れば、空音の部屋を出て行った。
残された俺は、苦しそうに顔を歪ませる空音の横に座り、自分の手元に残された指輪を指の中で転がす。ヒヨカの言葉にどういう意味があるのか分からない。しかし、きっと何か重要なことなのだ。今このタイミングで俺に託す意味を考えつつ、苦悶の表情の空音の手を握る。
細く、白く、仄かに温かい。目の前で苦しんでいる少女の手を握ることしかできない、そんな弱い自分を思い知りながら、ただただその手を握り続けた。
※
夜が終わり、太陽の光が大陸を照らしていく。
第一防衛ライン南の国境、交代の時間が来たことでブルドガングを退避させる一機。その直後、空中で光が弾けた。
決して油断していたわけではない。昨日の今日なので、緊張感もかなり高まっていた。そのはずだが、一瞬にして目の前を炎に変えた。
イナンナとメルガルの混成部隊がざわめく。一つ、二つ、三つ。次々に花火のように光が弾ける。その数はさらに増え、周囲の空を爆発の光で満たしていく。
二十機以上落とされた後、やっとそれの姿を確認する。
空中に浮かぶのは例えるなら一本の十字架。色は濃い紫、長い手足は真っ直ぐにピンと伸びる。魔女の帽子のように長い頭部、左側に三、右側に三。目は六つもあり、その目はただ周囲の光景を捉えるのみ。――その名は、ブリュンヒルダ。
――マルドックの竜機神だー!
誰かが叫んだ。一斉に竜機人達はブリュンヒルダへと機体を走らせる。
勝てない、負ける。各々の気持ちの中には絶望感が支配していた。それでも立ち向かうのは、脱出装置を頼りにしている部分も大きい。しかし、それ以上に愛している大陸を守るという行為は恐怖すらも乗り越えることができた。
それはメルガルも一緒で、レヴィからイナンナの乗り手が命を懸けてメルガルの命を救おうとしたことを聞いていた。イナンナから受けた恩のため。そして、雛型実王の行いは、メルガルとイナンナを繋ぐ架け橋になっていた。そのメルガルの部隊の中には、実王が救ったクーデターに関係している一人もいた。――しかし、常に想いと現状は違ったものになる。
何か陽の光を照らす粒達が、竜機人達の周囲を飛び回った。光の粒達が機体の横を掠めて行く。直後、竜機人がバラバラに弾け飛び爆発。操縦者達は何も分からないままに、その光の粒が竜機人を弾け飛ばす。一瞬にして、周囲を爆発の花火が上がる。
ブリュンヒルダの乗り手、ルカがつまらなそうに息を吐く。
「今から、イナンナへの侵攻を開始する」
ルカの声が戦場に響く。ブリュンヒルダの背後から、百機近くの竜機人が出現する。
骸骨にも似た非常にシャープな姿。ブリュンヒルダの濃い紫とは違い淡い薄紫色。右手に持つのは片刃がギラリと光る曲刀、サーベル。その骸骨型の竜機人の名前はクリイムヒルト。クリイムヒルトの顔は人の顔の骨のようでそうではない。人の顔の骨に目を二つ入れるためのくぼみがあるなら、この竜機人の目は四つもある。竜機人と呼ばれながらも、人とはかぎりなく遠く限りなく近い、そんな兵士だった。
絶望を運ぶ軍勢は、暁の空で蜘蛛のように揺らし、イナンナの地へと降り立った。――この一時間後、南の関所は陥落した。
※
熱い……。カーテンの隙間から太陽の光を感じる。その太陽の熱に顔が熱くなり、自然と脳が覚醒していく。
「そうか、昨日はあのまま……」
手の中に感覚。俺はその触感のままに顔を向ければ、自分の手の中には温かな熱。太陽の光のような遠慮のない高温とは違う。それは人が生きているという熱。空音のベッドに顔を押し付けるように眠っていた俺は、そっと顔を上げる。
――おはよう、実王。
そう言ってくれることを期待していた。しかし、空音はただ目閉じるばかり。だが、その寝顔は昨晩とは違い、穏やかなものに変化をしていた。小さく寝息を立てるその顔に安心しつつ、ぼんやりとその顔を眺める。
「心配させんなよ」
いろいろ言いたいことは浮かんだが、そのどれも寝ている人間が言うには恥ずかしいものだと思い、いつもの軽口でそう言えば穏やかな顔で寝息を立てる空音へと手を伸ばす。ほんのりと赤い頬にかかる髪をそっと払う。
こんな風に近くで空音の顔を見ることなんてなかったな。と今更ながら思う。改めて見ると綺麗な顔をしている。寝ているだけなら、綺麗な人形みたいだ。もしくは、どこぞの眠り姫のようだ。それと同時にメルガルのクーデターを経験した日にお互いで抱きしめあった時のことを思い出した。そこまで考えて、自分がどれだけ恥ずかしいことを考えているのか気づく。
「俺は、何を考えているんだ……」
ため息をついて頭を振る。顔でも洗ってこよう、そう思いつき立ち上がった。
――実王さん! 起きていますか!
つい最近聞いたような逼迫した声。極力、魔法を使うことを嫌うヒヨカがこんな朝早くからテレパシー。嫌な予感がする。
――ああ、起きているよ。
心で念じてみる。
――朝早くからすいません、緊急の用件があるんです。
良かった、どうやら俺の言葉は通じていたようだ。早口のヒヨカは、そのまま言葉を続けた。
――……実王さん、力を貸してください。マルドックの竜機神が第二防衛ラインまで侵攻しました。
思ったよりも早く、ルカと刃を迎える時が来たようだ。俺は深く深呼吸をする。
――ああ、すぐに行く。
俺はなるべく頼もしい声を出したつもりだった。
――実王さん、ご苦労をおかけします……。あの、その……。
俺の何倍も疲れた声のヒヨカは何か言いにくそうにしている。それは少し考えれば分かることだった。
――空音は大丈夫だよ。今は落ち着いている。
ヒヨカの心配事と言えばこれだろう。大陸と同じぐらい心配なはずだ。しかし、俺に戦いのことや空音のことを押し付けたという責任を感じて聞き辛かったのだろう。ヒヨカの居る大陸の乗り手でよかったと感謝しながら、俺は扉に手をかけた。
――ありがとうございます、実王さん! とにかく、学園長室までお願いします。これからのことについては、移動しながらお話させていただきますね。
空音のことを聞いて安心した声を出すヒヨカ。その声に、俺も嬉しくなる。さあ、出て行こうとしたところで俺はあることを思い出す。
「あ、おっと……。忘れるところだったな」
そう言えば、空音の机の上からノートを一つ取る。一ページを切り取れば、走り書きでメモとノートゥングの指輪を机の上に残す。
「行ってきます、空音」
空音の部屋の扉をゆっくりと閉めて、俺は玄関へ向けて駆け出した。