第十章 第三話 空虚な君 惑いの彼
公園を出た俺はどこか予感にも似た感覚で、ヒヨカのいる学園長室にやってきた。ドアをノックして、鍵も閉められていない学園長室に入る。
その視界にすぐに飛び込んできたのは忙しそうに、ドタバタと学園長室を動き回るヒヨカ。そして、電話でどこかに連絡を入れている空音。その声は、事務的ながらも焦りを感じさせた。
ヒヨカは俺に気づき、すぐに駆け寄ってくる。
「――実王さん! 大変です! マルドックがイナンナに攻め込んできました!」
予想通りの返事。短く、そうか。と俺はヒヨカに返す。そんな俺の顔を見たヒヨカは、不思議そうに首を傾げる。
「あまり、驚かないんですね……」
少しびっくりしたような声。一番、狼狽しそうな俺が、平然とその事実を聞いているのだ。だけど、俺は事前に最も聞きたくない人間の口から戦争の始まりを告げられていた。それは早いか遅いかの違い。しかし、心の隅ではどこかで戦わなくていい未来が待っているのではないかと密かに期待もしていた。それは甘いものなのだと、今更ながら実感する。
「いや、十分に驚いているさ。でも、こうなるんじゃないかと思っていたんだ。気持ちの準備ができていたというか。……ヒヨカ、それで今はどんな状況なんだ」
俺は気持ちを切り替えて、普段よりもトーンを高くしてヒヨカへと声をかけた。
ヒヨカもその言葉に背中でも叩かれたように、すぐにハキハキとした返事をする。
「あ、はい。今は東側の第一防衛ラインにマルドックが侵攻してきているところです。今のところ、お互いに戦力が均衡しています。戦力を集中させたいのはやまやまですが、他の方位を手薄にすることになります。……相手の次の手が見えないので、今のところどうしようもないですね」
深刻そうに話すヒヨカ、気づくと隣には電話を終えた空音が立つ。
「今までの状況が状況だったから話したことはなかったけど、私たちの住むイナンナには第一防衛ラインから第三防衛ラインまでが囲むように作られているの。口で言っても分からないかもしれないし、簡単に教えてあげるわね」
机の上の書類を一枚取れば、それをひっくり返す。そこに手に握っていたペンを走らせた。
書類の裏面に描かれるのは、都市を囲むように三つの円が並ぶ。一番大きな円が、第一防衛ライン、二番に大きな面が第二防衛ライン、三番目に大きな円が、第三防衛ライン。中心に置かれた小さな丸が学園都市と文字を書き込んでいく。
「第一防衛ラインは、東西南北に関所を設けて常に数十機のシグルズを待機させているわ。でも、実際のところこれだけ広いイナンナは穴だらけなの。まあ、それはどこの大陸も変わらないのかもしれないけど……。第一防衛ラインが突破されるのは仕方ないと思ってもらっても構わないわ。突破されるようなことがあれば、ヒヨカ様の巫女の力ですぐに察知できるから、それに合わせて部隊を向かわせることが可能なの」
空音は机の上の第二防衛ラインの円をペンで突く。
「ここからが防衛戦争の本番と言ってもいいわ。第二防衛ラインともなると、数時間もあれば、都市に辿り着く。大陸に散らばる竜機人をかき集めて、いろんな作戦をとることができる。でも、ここまで来た敵機の中に竜機神がいるようなら、ただ突破するだけなら容易いでしょうね」
悔しげにそう言う空音。その表情の意味を知る俺は、空音の説明に頷く。空音は、次に第三防衛ラインにペンをずらす。
「そして、第三防衛ライン。ここまで来たら、かなりまずいわね。なにがなんでも、ここで敵を止めないと都市に被害が出る。いえ、それどころか……人が死ぬことになるかもしれない。今みたいな毎日は送れなくなる。ここが、私たちの守りたい人達の幸せを保つための最終ラインよ。……都市に敵が入った後の説明はいる?」
そこまで説明した空音。その口調は少し荒っぽい。敵が自分たちの住む大陸に入ってきたという知らせに殺気立っているのだろう。俺は、強い意志を感じる空音の目を見て首を横に振る。
「必要ない。そんなところまで、敵を入らせない。俺が絶対に止めてみせる」
ヒヨカは心配そうに俺の服の裾を引っ張る。
「実王さん……。私が言えたことではないのは分かりますけど……。無理はしないでくださいね。今の実王さん、凄く怖い感じがします」
心配そうに俺の顔を覗き込むヒヨカの頭を撫でる。
「そう心配すんな。ヒヨカがイナンナの人が信じてくれた俺を信じてくれ。……まあ、もし本当にまずいことになるようなら、何が何でも戦場から逃げ出して、もう一度再戦する準備でもするさ」
そう言い、ヒヨカへ向けてニッコリとした笑顔を向ける。
「どうしたの、実王。なんだか……凄いやる気じゃない?」
次に心配そうに声をかけるのは空音。昨日の俺を知っているから、余計に心配するのだろう。大丈夫だ、そういう意味を混ぜて俺は大きく笑顔を見せて安心させようとする。
「ああ、やる気なんだよ。俺には、前以上に負けられない理由ができたんだ。……絶対に俺は負けられない。見ててくれよ、空音!」
親指を立ててみせるが、空音の表情は曇ったままだ。
「……本当に無茶しないでしょうね?」
念を押すように聞く空音。俺は、小さくため息をつく。
「ヒヨカといい空音といい、少し俺のことを心配し過ぎだぞ。そんなに、生き急いでいるように見えるか」
空音は小さな声で、何かを言った。
「何か言ったか。よく聞こえなかったが」
空音は複雑そうな表情から、訓練するときに見せる無表情。いうなれば、仕事用の真顔を俺に向けた。
「なんでもないわ。絶対に負けないでよ」
そう告げれば、空音は背中を向ける。そして、そのままどこかに電話をかけはじめた。
何で俺に対して、怒っているのか分からない空音に首をかしげて、ヒヨカに目線を送る。
「俺はその第一防衛ラインとやらに行った方がいいだろ。今、そこに敵が来ているのなら、まず俺はそこに向かうよ!」
意気揚々と俺は背中を向ければ、そのまま歩き出す。しかし、俺の足はそこから動こうとしない。何故、何故だ。ヒヨカが肩を叩く。振り返れば、苦笑いのヒヨカ。そうして、答えはすぐに出た。
「……どこへ行っていいかわからないですよね。急ぎすぎですよ、実王さん」
ヒヨカに向けていた背中を再び反転。ヒヨカの正面に向き直る。
「……すまん。どう行っていいか、教えてもらってもいいか」
ヒヨカは簡単に教えてくれると思っていた。しかし、ヒヨカはゆっくりと首を横に振る。
「ダメです、実王さんには教えません」
はっきりとそう告げるヒヨカ。
「なんでだよ! 今も誰か危ない目にあっているなら、助けないと!」
一歩、ヒヨカに迫る。しかし、退くどころかヒヨカは意思の強さを感じさせる大きな目で俺を見据える。
「今、実王さんが行けば手薄になった都市や他の防衛線、もしかすればイナンナに点在する他の町に被害が出る可能性があります。……それに、マルドックの乗り手も、この大陸内、もしかしたら都市内部に居るんですよね。そんな状況で実王さんが出て行けば、ここは未だかつてない危機に晒されます。どうか、堪えてください」
ヒヨカの言葉に、熱くなった気持ちが冷めていく。根っこの方で燃え上がる感情はそのままに、俺はその冷静な意見を聞き、一応の落ち着きを取り戻していくのが自分でも分かった。
それに、とヒヨカは言葉を続ける。俺へと内緒話をするように耳元に顔を近づける。気づいた俺は、膝を少し曲げて空音の顔へと頭を近づける。
「さっきは聞こえなかったみたいですけど、空音は実王さんに心配する声をかけていたんですよ。でも、実王さんが頑張って戦おうしているのを見て、はっきりとは言うことができなかったんです。――すぐに何かが起きるというわけじゃないので、今は大人しく空音の言葉を聞いてもらえませんか。この大陸の巫女としてではなく、二人の友人として……お願いします」
耳元に寄せていた顔を離せば、ヒヨカは小さく頭を下げた。
空音の優しさとヒヨカの気遣いに、先程とはまた違った落ち着きが戻ってくるのが分かる。小さくため息をつけば、ヒヨカへ向けて頷いた。
「ああ、分かったよ。俺が動かないことが守ることに繋がるんだよな。……分かった。今はみんなを信じて待っとくようにするよ。でも、本当に誰かの命が奪われるようなことがあるなら、俺は――」
「――行く必要ないわ」
その言葉を遮るように、そう強く言えば。電話を切る空音。
「俺はメルガルみたいなことは嫌なんだ、誰かのために誰かを見捨てるような真似はしたくない。まだどうなるか分からないかもしれないけど、それでも俺は……」
空音は深くため息をついた。疲れと安心が混じるようなため息。しかし、先程までの緊張感は感じられなかった。
一体どういうことなのだろう。と、空音の次の言葉を待つ。
「一人で突っ走らないでちょうだい。それは実王の良いところかもしれないけど、同時に悪いところでもあるの。……行く必要はないの、本当に。――さて、ある出来事で敵軍は撤退を余儀なくされました。ヒヨカ様、何か思い当たる所はありませんか」
空音はヒヨカへと視線を向ける。一瞬驚いたように目を見開けば、あ、と声を上げて思い出したように手を叩く。
「もしかして、レヴィの……」
「多分ヒヨカ様の考えた通りです。どういう理由でこうなったのかは知りませんが、メルガルからゲイルリングの部隊がやってきて加勢したようです。……結果として挟撃された形になったマルドックの侵攻部隊は撤退したようです。まだ他の場所から侵攻してくる可能性もありますが、とりあえずは危機を脱出したようですね」
危機を脱出した。その言葉に俺はホッとする。て、なんで俺はホッとしなきゃいけないんだよ。ルカを救うために戦うと決めたばかりじゃないか。まさか、俺はルカやマルドックの人間と戦わなかったことに安心しているのか。そんことはない、戦って戦って、竜機神から引きずり出してでもルカを助け出すんだ。
「実王さん?」
ヒヨカの声が聞こえた。どうやら、俺はぼんやりとしていたらしい。俺はすぐに返事をした。
「あ、ごめん。なんでもないさ、あっさりと終わったから少し驚いていたんだよ」
空音はテーブルの上の冷めたティーカップを口に運ぶ。小さく息を吐けば、俺のほうにじろりと視線を向ける。
「終わり? 安心したい気持ちも分かるけど、終わりじゃないわ。メルガルの時とは違う。お互いを削りあうような戦争が始まるのよ。今回、あっさり撤退したのは、きっと宣戦布告代わりの部分もあるのよ。ルカがどこにいるか分からない以上、実王を都市から離すことはできない。それが分かっているからこその余裕よ」
強い口調の空音。
とりあえず、空音はさっきそう言った。このとりあえずの戦争が、これから何度も続いていくのだろうか。その間、俺はずっとこの都市で動けないままなのか……。
俺は飾り物じゃない、動いて戦って誰かを救いに行きたい。まるで世の中の理不尽な出来事を見て憤るような気持ち。無力感を感じた俺は、強く拳を握る。
空音は視線を変え、ヒヨカへと向ける。
「ところで、ヒヨカ様。……どうして、急にメルガルの部隊が現れたのですか? 私にも教えてくださいませんか」
まるで仮面のような薄笑いを浮かべる空音。間違いなく、空音は怒っている。イレギュラーな状況に突然出現したメルガルの増援に、何も聞いていなかった空音は腹を立てているようで。
俺は慌てて、空音の肩に手を置く。
「ま、待てよ。そんなに怒らなくても――」
「――考えなしの直情バカは黙れ」
久しぶりの毒舌と冷たい笑顔に俺は、それ以上を喋ることはできずに後ずさり。
「実王さんの意気地なし!」
ヒヨカは俺に不服を漏らすが、心の中で謝るとさらに背後へ後退した。壁際まで逃げる俺を見てヒヨカは半泣き、空音は冷たい笑顔で満足そうに頷く。そして、空音はヒヨカへと詰め寄る。
「こ、怖いよー。空音ー」
顔色を青くするヒヨカ。
「怖がらないでください、ヒヨカ様。ただお聞きしたいことが……」
さらに詰め寄る空音。俺には黙ってその光景を見つめることしかできずに、二人の姿を遠巻きに見つめた。しかし、その空間を突然壊す存在が飛び込んでくる。
――バン! 音が響く。学園長室の扉の一つが勢いよく開かれた音。そこは、ヒヨカの私室への扉。そこから飛び出すのは見覚えのあるオレンジの髪。勢いよく揺れるそのツインテールはレヴィのものだった。
レヴィは空音とヒヨカの間に飛び込んだ。
「待ちなさい! 毒舌女! 私の友人を傷つけることはぶへぇ!」
「しまったつい……」
空音は勢いよく飛び出したレヴィに思いっきり手の甲で虫でも払うように顔面へと一発。あまりの驚きと、喋っている途中で手の甲の一撃を受けたことで舌を噛み、二重に強烈な痛みを受けたレヴィはそのまま卒倒してししまう。口からは微妙に泡を吹いている。よほど、打ち所が悪かったのだろう。
「なにしてんだ、お前ら……」
「いや、何しているて言っても……。ムカつくツインテールが見えたんで、つい」
俺と空音は泡を吹いて倒れているレヴィへと心の中で合掌をした。
レヴィよ、永遠に。
「――て、二人とも! レヴィ意識ないですよ! 早く……手当てを! レヴィ、イヤ――!」
レヴィを強く揺さぶりながらヒヨカ絶叫。俺と空音はとりあえず、しばらく呆然とその光景を眺め、ヒヨカに治癒魔法を使うことを提案するのはその五分後になる。