第十章 第一話 空虚な君 惑いの彼
それから数週間、俺の学園生活は順調に進んでいく。何度も勉強で頭を悩ませることもあったが、その度にこの世界で出来た多くの友人達が助けてくれた。その中でも、クルガは特に気の合う友人となり、基本的には二人で行動することも多くなっていった。新たにできた友人たちの協力もあり、忙しくも楽しい学園での日々は過ぎる。朝早くに筋トレ、日中は学園、夕方は空音との訓練、そして空音の時間に余裕があれば二人で買い物をして帰る。基本的に夕飯の買出しは俺一人で行くことが多いのだが、二人で献立の話をしながら買い物をする時間を楽しく思う自分もいた。
だからだろうか。
「なあ、お前と篝火さんて付き合ってるのか?」
珍しく空音の名前を噛まずにそう聞くクルガ。一緒に暮らして、一緒に登校までしていればこんなことも聞かれて当たり前なのだろう。ちなみに、少しずつ分かってきたのだが、クルガの中での空音への好意は恋愛感情というよりも憧れが強いようだ。時として、カリスマ性を発揮する空音をクルガは一人の人間として尊敬しているようだった。
「違うよ。気になるのか?」
「誰だって怪しんでいるよ。二人とも目立つんだから、いろいろと気をつけろよな」
クルガは単純に俺たちを心配しているようだった。そんな素直な気持ちを嬉しく思う。俺はクルガに短く、おう、と返事をした。
そんな話をしたホームルール、机の中に違和感。不思議に思い探って見れば、小さく折りたたまれた手紙が入っていた。――差出人は、ルカだった。
※
放課後。空音の仕事が忙しいこともあり、今日の訓練は中止となった。なんだか、最近はこういうことが多い。ヒヨカも前はよく晩御飯に顔を出していたが、ここしばらく顔も見ていない。空音も朝食は作るが、晩飯まで作る時間はなさそうで、今夜も俺が作ることになっている。たまに深夜、疲れて帰ってきて居間でうたた寝する空音を部屋まで連れて行くことも多くなった。……ルカの都合がいいなら、今日は一緒に晩飯にでも誘おうかな。寂しさから、そんなことを考えていると、ルカの待つ屋上へ辿り着いた。
「すいません、わざわざありがとうございます」
ルカは申し訳なさそうに笑う。
学園はいくつも屋上がある。その中でも今いる屋上は、技術系の学生が多くいる棟の屋上なので、放課後は殆どの生徒達が部室や研究室、整備室に缶詰となる。時間さえあれば、自分たちの研究に時間を割きたい人間ばかりだ。下手をすれば、今年初めて屋上を使ったのは自分たちかもしれない。それは、握ったドアノブに付着した大量の埃が教えてくれていた。
「いいよ、暇だったし、気にしないでくれ」
俺がそう笑いかければ、ルカは笑顔で返した。どこか寂しげに見える笑顔。それでいて、実年齢よりも大人びて見える。まるで初めてヒヨカを見た時のような不思議な感覚。そして、もじもじと手のひらを擦り合わせるルカ。
「お気遣いありがとうございます。……あの、実王さん。いきなりの質問で申し訳ないんですけど……実王さんは、空音さんとお付き合いしているんですか」
「――ブッ!」
突然の質問に俺は吹き出してしまう。クラスメイトからふざけて聞かれることは何度もあったが、こんなにかしこまったルカに聞かれるとは想像もしていなかった。
「ど、どうなんですか……?」
厚いレンズのめがねを整えながら、身を乗り出して俺に聞く。ぐいぐいと近づいてくるルカに苦笑い。
「誤解だよ、最近その噂が流行っているみたいだな。俺と空音はそういう関係じゃないよ、強いて言えば家族みたいなもんかな」
そう真面目に言う自分に気づく、誤魔化すように照れ笑いをする。
ルカは視線を落とせば、心底安心した小さな声で呟く。
「良かった。それなら――」
夕日が眩しい。照れて逸らしていた視線をルカに戻す。
「え」
そう声が漏れた。
「――私にもチャンスがあるってことでいいですか」
顔の前、息がかかる距離。そこにルカの顔があった。ルカの大きな目が、この夕闇の中で激しく主張している。
「ルカ……?」
シャンプーの香りだろうか、甘い匂い。それでもそこには、異性とここまで接近した緊張感はなく。背筋を流れる冷たい汗、悪寒。体の芯が深く冷えるような恐ろしさ。その恐ろしさを俺に与えるのが、妹のように可愛がっていた少女だ。
「実王さん……」
ルカの顔が近い。ルカは自分の顔に手を伸ばすとメガネをゆっくりと外す。その目は赤い。血のように赤い。レオンのゲイルリングが燃える信念を表すような赤。空音の目も赤色だが、それは全ての絶望と立ち向かう力を感じさせる赤。しかし、この赤は血や恐怖、地獄の底から覗く悪魔の瞳ような赤。人ではない赤。そんなおぞましい赤を目の前の少女は持っている。
怖い。怖いのに、俺はその目から顔を離すことができない。分からない、何でか分からないが……その目に吸い寄せられる。俺はルカに名前を呼ばれるままに顔を近づける。近づいていく距離、俺が顔を寄せるのはルカではない。……誰だ。
「――誰だ、お前は」
搾り出すように声が出る。俺は体に力を入れて、ルカから離れようとする。
「さすが実王さん、まだ動けるんですね。でも、あまり私の手を煩わせないでください」
赤い目が少しずつ近づく、俺は得体の知れない力に動くこともできずに、体をよじるばかり。息がかかる。少女の顔は既にそこまで近づいている。
「実王……!」
ルカの舌打ちが聞こえた。背後から聞こえるのは空音の声。空音の顔の前に出現するのは、円形の魔法陣。空中に浮かび上がったその円の中に、空音は手を伸ばす。
「実王から離れなさい!」
拳程度の大きさの炎の玉が、真っ直ぐにルカへと向かう。ルカは俺を突き放せば、なんなくその炎を避ける。俺は情けなく、地面に尻をつく。すぐに立ち上がろうとしても力が入らない。そんな俺に気づいているのだろうか、空音はゆっくりと後ろから近づけば、俺の隣に立つ。
「やだもう、せっかのいいところだったのに。空気、読んでくれませんか?」
小馬鹿にするようなルカの声。お菓子を作って持ってきてくれていたルカとは思えないその口ぶりに俺は驚きを隠すことができなかった。
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ。アナタ、最低に空気読めてないわよ」
睨みを利かせる空音。顔を覗き見れば、鋭い視線がルカを捉えて離さない。その威圧感に俺は、空音へかけようとした言葉を飲み込む。
そんな滾るような怒りを向ける空音とは反対にルカは涼しい顔をしている。
「一番の障害になるんじゃないかと思ってましたけど、本当にそうなりましたね」
淡々と話をするルカに空音の赤い目が怒りに揺れる。
「それが本当のアナタ?」
ルカは苦笑を浮かべた。
「少し正解ですよ、空音さん。半分、純粋無垢なルカ。残りは今の赤い目のルカ。実王さんを騙すためにルカの性質を半分ほど借りている状態なんです。私、本当はもっと喋らないんですよ。こういう状態を今日でおしまいにするために、もう一人のルカに気づかれてしまうという危険まで冒したのに……これじゃあ、台無しですよ」
欲しい玩具を買ってもらえない子供が拗ねるような声を出すようだった。ルカでありルカでないものが、そこにはいる。その時、俺は自分の体が動けるようになっていることに気づく、よろめく足で俺はそこから立ち上がる。
「……ルカ、お前はなんなんだ。俺の知っているルカとは違うのか」
俺の問いかけをしばらく聞いていたルカが、しばらくジッと俺の顔を見たかと思えば視線を落とした。そして、次の顔を上げたルカは、前から知っていたルカとも先程のルカとも違う、また別のルカだった。うなだれるように垂れる頭から、よどんだ視線がこちらを見る。
「今の状態の私が本当のルカだと思ってくれればいいですよ、実王さん。明るくもなく暗くもなく、かといっておどけるようなタイプでも弱気になるタイプでもない。ただの無個性の私がいるだけ。もっとも、何もない私が本物なんて、酷い皮肉ですよね」
口元を歪ませて笑う。それは自分の知る少女の出せる笑い声ではなかった。全てを諦めるような、自分のことを放棄した人間の出せる乾いた笑い声。
「ちょっと待ってくれ、どういうことなんだよ。本当のルカってどういうことなんだよ」
一歩足を踏み込む俺をルカは表情一つ変えず見つめる。そんな俺の歩みを止めるように、空音が行く手を阻むように俺の前に立つ。
「近づいてはダメよ。今のルカは実王の知っているルカじゃない」
その声は冗談を言っているようには聞こえなかった。俺はルカではなく、空音へと体の向きを変えた。
「何を言ってるんだ、空音。目の前にいるのは、どっからどう見てもルカじゃないか!」
「……ねえ、実王。本当にそう言えるの。さっきのルカは、本当に実王の知っているルカだった?」
空音の言葉が重たくのしかかる。さっきの口付けを迫ったルカは、俺の知っているルカではなかった。悪魔のような、吸血鬼のような、そんな人ではない何かを感じさせる存在にすら感じる。思い出すと背筋が冷たくなる。
俺は空音の言葉に言い返すこともできずに、ルカへと向かおうとしている足がその場から動くことができなくなる。空音は俺の動くが止まるのを見て、申し訳なさそうに眉を寄せた。
ルカの方を見れば、少し寂しげな表情をしていた。その顔に俺の鼓動が一度大きく跳ねるが、身勝手に突っ走るなと自分を戒めて、そこから先を飲み込んだ。
「実王なら、私の言葉を無視して突っ込むかもしれないって思ったけど……話を聞いてくれて、感謝するわ」
空音は心の底から嬉しそうに言うもルカから目を離さない。ルカは、俯いていた視線を空音へ向ける。虚ろなその目で。
「そんな悲しいこと言わないでよ、私と空音さんはせっかく仲良しになれたのに」
「馬鹿言わないで。臭いのよ、今のアナタ」
冷たく言い放つ空音におどけたように肩をすくめるルカ。
「酷いですね、花も恥らう乙女に向けて」
全く悲しくなさそうに言うルカ。空音は呆れたように言う。
「魔法臭いのよ、アナタ。鼻にこびりつくぐらいにね」
へえ、と関心したように声を出すルカ。
「驚きですね。空音さんも、そこまで……。いろいろ分かっているようですね、この私をどうしますか。先程の魔法で焼き殺しますか?」
殺し、その言葉をゲームでもするように話すルカに戦慄を感じる。
「下手な煽りは嫌いなの。――ねえ、アナタ。第五都市マルドックの人間なんでしょ。最近、おかしな気配を感じるからずっと調べていたんだけどね。まさか、アナタに行き着くとは思いもしなかったわよ。調べれば調べるほどに、叩けば叩くほどに、大きな埃が出てきたわ」
ルカは空音の言葉に、一瞬驚いたように目を見開く。
「よく調べたようですね。優等生の空音さんには、私からハナマルをあげます。……ええ、おっしゃる通りです。私は第五都市マルドックの人間。そして――」
ルカはその中指にはまった指輪を俺達へ向けて見せた。いつの間に、指輪をはめたのか分からない。だが、その手の中では怪しげな輝きの宝石が自己主張をしていた。
「――マルドックの竜機神の乗り手でもあるんですよ」
口元を歪めて笑う。ルカは、掲げた右手の親指と中指をくっつける。
「まさか、魔法……!? 実王――!」
空音は俺を守るように前に立つ。悲しげに微笑むと、ルカは指を鳴らす。そして、閃光。目がくらむほどの光を視界の中に感じ、俺は目を閉じた。
「じゃあね、実王さん」
そっと俺だけに聞こえる声で、誰かが横を通った。俺はチカチカと痛む目に歯を食い縛り、手を伸ばす。伸ばした手は何も掴むことはできずに、ただ虚空を彷徨う。
「ルカ……!」
どうしていいか分からない、そんな感情のままに名前を呼ぶ。強烈な光の中で、その名前の主の返事はなく、空しく響くだけ。
強烈な光に奪われていた視界が、元の光景を取り戻す。視界の中に飛び込んだのは、何もない空間に手を伸ばし続ける俺の間抜けな右手。
「大丈夫だった、実王!?」
俺を庇うように前に立っていた空音が、俺の側に早歩きで近づく。周囲をきょろきょろと見渡すところを見れば、どうやらルカを警戒しているようだ。そして、安全を確認したところで、空音は俺を見れば、ほっと息をついた。
「ああ、俺は大丈夫だよ。……俺は」
気持ちの悪い、モヤモヤと不安定な感情に吐き気を覚える。俺は伸ばした手を下ろし、ただ屋上の開け放たれたままの扉を見つめ続けた。