第八章 第一話 共に歩むということ
実王が悲しみの海に沈んでいる頃。ヒヨカはメルガルの現状を知る。学園長室で悔しげに、机を叩くヒヨカ。その姿を暗い表情の空音は部屋の隅で見つめる。
「レヴィから話は聞いていたのに! 私は甘く考えすぎてた……」
事前にレヴィから活発になっている過激派のことは聞いていた。それでも、レヴィのことは信頼していた。レオンもいる。レオンなら大丈夫だと。だが、信頼することと用心することは違う。
現在もメルガルは突然起きたクーデター騒ぎの収拾がつかないことが現状。レヴィ、実王は行方不明。都市内の竜機人の乗り手は全て拘束され、都市外に出ていたレオンやその他の乗り手達は現在も過激派と交戦中。全てが事前に計画されていたことだ。事前に調査の一つでも送っていれば、結果も違っていたかもしれない。私の怠慢が招いた結果だ。
今からイナンナに部隊を編成して送るか。いや、到着する頃には全てが終わる。良い結果に転べば良いが、悪い結果に転ぶようならば敵地に味方を放り込むようなものだ。……私は何を考えているんだ。友人の危機に、全てを投げ打ってでも助けるのが普通じゃないのか。それを私は……。理屈でしか動こうとしないなんて。
情報だけを知らせる書類の一枚を忌々しく握りつぶす。
「ヒヨカ様、少しお話があります」
横に立つのは空音。私は、視線を向ける。
「……なんですか」
「私に考えがあります。メルガルに私単独なら送ることが可能な方法があります」
ここに居るもう一人の友人は、気づいてしまった。私もその方法は知っている。しかし、それは危険を伴う方法。
「ダメです、空音」
「ダメじゃありません。遺跡の力とヒヨカ様の力、そして私の魔法があればメル
ガルに私を送ることも可能なはずです。それが今一番の解決策です」
「ここでの解決という言葉は、希望的観測です」
空音を強く睨む。
ヒヨカの滅多にしない攻撃的な視線を空音は冷ややかに受け止める。
「そうかもしれません。ですが、今私達の希望が助けを求めています。新たな架け橋を作った実王が、新たな道の為に共に手を繋ごうと言ってくれたレヴィ様が。ここで動かないなら希望も何もありません。……きっと、実王がこの場所に居たら同じ事を言うと思います」
一度視線を落として、再び空音の顔を窺う。
その表情は冷静そのものだったが、瞳の奥には熱く揺れることのない強い意思を感じさせた。
「……空音、私は心配なんです」
強く応答できるならそうしたい。それでも、私の口からこぼれるのは弱々しい声。その時、空音は私の肩に優しく手を置いた。
「私は大丈夫です、ヒヨカ様。必ず実王を連れ帰ってきます」
そう言って優しく微笑む空音は、私以上に巫女に相応しく思った。
※
あの日、実王と出会ってからもう一ヶ月以上も過ぎたのか。私は感慨深げに初めて実王とこの世界に戻ってきた日を思い出していた。
いや、嫌でも思い出してしまう。ここは、バルムンクと一緒に降り立った遺跡の円盤型の石柱の上。そこに並んで立つのは私とヒヨカ様。
この遺跡はイナンナの巫女の力を高めることがきできる。それは今の私達に希望をくれる。
「空音、本当に準備はよろしいですか」
「ええ、いつでもどうぞ」
ヒヨカは私から距離を開けると、私に向けて両手を突き出す。私はその流れ出る力を受け入れやすくするために、全てを受け入れるように両手を広げる。
周囲に光が満ちていくのが分かる。それはヒヨカから送り込まれる魔力、とても優しく包み込むような魔力。その魔の力に包まれるだけでも、心が満たされる。ヒヨカ様のこの力の波に包まれるだけでも、この人が巫女という存在で良かったと心から思う。
流れ込む魔力を血液のように体に馴染ませる。ヒヨカの魔の力が私を媒体として活発化して、それを力の使い方の慣れた私が増幅させる。
メルガルに私を送り込むのだ。イナンナから離れるとなると完璧な空間移動はできない。それでも、すぐにメルガルに行く方法は一つだ。例え、実王の居る場所から離れていたとしても、ノートゥングですぐにアイツのところに向かう。
空気に意識が溶ける感覚。しばらくすれば、少しずつ体が薄くなる。
「空音、私は……」
悲しげな声のヒヨカ。
彼女は葛藤しているのだろう。実王を心配すると同時に、私のことも心配しているのだ。ヒヨカはそういう子だ。しかし、今この状況で改めて口にすることが無意味なことだと知っている。
私はなるべく優しい口調でヒヨカに声をかける。
「……必ず、実王を連れ帰ります。必ず」
涙目のヒヨカは首を振る。
「――二人で帰って来て下さい! イナンナからも至急部隊を送ります! だから!」
私は優しく頷く。
「はい、承りました。約束します」
その言葉を最後に意識は光の中に消える。視覚らしい視覚もなく、聴覚も触覚の意味のなくなった世界で温かな気持ちになる。
ヒヨカの口は最後に、約束、と言ってくれた。約束しよう。この幸せな空間に帰って来るのだ。アイツと二人で。
そのために強く祈ろう。少しの時間も無駄には出来ない。確実にアイツのところに向かうのだ。イナンナの魔法よ、共に歩くことになったメルガルよ。私を導いてくれ。一秒よりも早く、コンマよりも早く。行こう、飛ぼう、そこに立とう。
雛型実王、君の元へ。だから探そう。きっと実王はまた困っているんだ。私は分かる。優しい彼のことだ。物事をきっと素直に受け止めすぎているのだろう。人間の生の感情がむき出しになっている場所で、まともに立っていられるほどに厚い面の皮の人間ではない。もっと身近な救世主だ。
――たすけてくれ。
ほら、ちょっと探せば聞こえてきた。届け、どこにいる。私は手を伸ばす。苦しげに体を小さくさせる彼の姿を思い浮かべる。私はその声へ向かって、真っ直ぐに手を伸ばした。
最初は実王に嫉妬を抱いていた。自分が救世主としてイナンナを救うはずだったのだが、自分では無理なのだと知ったが、それでもと努力を続けた。しかし、調べれば調べるほど可能性を探すほどに、伝説の二人の子供である雛型実王しかありえないのだと知った。ヒヨカ様の魔法を使って調べても、学園の秀才達を集めた調査でも、私の魔法をあの世界で使ったとしても……イナンナは雛型実王を望んでいたのだ。
どこかいい加減な実王の姿に怒りを抱き、私の世界が危機だというのに、それよりも自分の両親の幸せが大事だと叫び、強く反発したかと思えば自分の弱さを受け入れて強くなろうと前進する。そして、当たり前に悪意を憎み善意を好む。
雛型実王、彼の印象は最初に比べると違うものになっている。最近は、少しかっこいいのかもしれないとすら思える。……普通の少女のようにそう考える私は何かおかしい。こんなにも不安定な世界じゃないのなら、私は腹を抱えて笑っているのかもしれない。
彼のことを考えていたのが影響したかもしれない。うずくまる彼の姿が見えた。私は手を伸ばす。届けよ、と。この巫女にも救世主にもなれなかった半端者の私でもできることがある。私はイナンナの救世主にはなれない。……それでも、彼を雛型実王を心の底から救いたいと思った。
救世主の救世主というのも悪くない、そう思う自分がいる。
気づくと、私はメルガルの地面に足が触れていた。
※
どれくらい時間が経ったのだろうか。少しずつ歩いてみたつもりだったのだが、鼻を刺激する異臭を感じる。それはきっと、俺が先ほど吐き出した物の臭い。背後に視線を向ければ、引きずるように歩いた足跡が残るのみ。それもほんの五メートルほどの距離。
「俺は……どうしてこんな所に来てしまったのだろうか」
俺が望んでいた世界なのだろう。しばらく過ごしてみたが、この世界に生きることに違和感を感じられない。あの世界では得られなかった存在することへの意義、今まで違う道を歩いていたのを正しい道へと強引に方向転換させられた。その強引さすらも俺は心地良く受け入れることができた。しかし、ここに来てこの世界の強烈な違和感。
俺は戦争をするために来たんだ。俺の世界にも戦争がある。少なくとも俺の住んでいた日本で戦争をすることはない。人が殺されることはあっても、それはいずれ法によって裁かれる。だが、これは不条理に命を奪い合う戦い。俺はそれに加担している。
人を殺した。殺しをしたのだ。甘く見ていた。戦うことを。自分がしていることをただのスポーツのように感じていた部分もある。レオンが人を殺したと聞いても、それはそういうものだと割り切っていたつもりだった。……そのつもりのはずだった。
俺はこの世界で戦い続ける限り、また人を殺すかどうかの選択をしないといけないかもしれない。今の状況もその選択の中にいる。ここから脱出できたとしても、俺はその選択の中からは逃げられない。全ての決着が着くまで、この戦争は終わらない。
逃げる? どこへ逃げるんだ。イナンナもヒヨカも空音もルカも全てを見捨てて、元の世界に帰るのか。帰れば、きっと両親達も温かく迎えてくるのだろうか。あの温かな世界へ。もし帰るなら、俺は進路希望も真面目に書こう。そうして両親を喜ばせよう。もう他の世界を夢見る子供のような真似はやめよう。俺は、逃げよう。そして、元の世界へ――。
「――顔を上げなさい。実王」
聞き覚えのある声。俺は首を上に向けた。
パンッ。頬に走る痛み。泣きすぎたせいで感覚も鈍くなっているが、その激しい痛みだけははっきりと感じられた。
「お前、どうしてこんなところにいるんだ……」
俺は震える声で目の前に突然現れた人物に声をかける。
ふん、とその人物は鼻を鳴らす。
「実王が泣き言を言ったら、力いっぱいビンタするって約束したでしょ」
俺は口元から乾いた笑い声が漏れる。
「……覚えていたのか」
「ええ、情けなくピーピー喚く救世主様を激励しに来たわ」
涙が流れた。理由は分からない。今までの感情をぶつけられないことへの悔しさの涙ではない。空っぽの心に響く涙。
長い黒髪をさっと風に靡かせ、その赤い目で俺をしっかりと見据える。その瞳に迷いはなく、全てを見透かすよう。
ああ、そういえば、コイツはこういう奴だったな。そう思いながら、俺はその視線を受け止める。頼もしくも厳しいソイツは……篝火空音、その人だった。