第六章 第一話 進む足は軽やかに
雛型実王、雛型実王。実は凄い男。もしかするかもしれない、男。私の世界を壊して、私を呪縛から解放した救世主。悪くない。きっと、これは悪くない。
レヴィはお気に入りの香水を体にさっとふりかけた。肌に優しく、気分を盛り上げる花の香り。ここ一番の勝負で必要になるとっておきのアイテム。
外でノックの音が聞こえる。きっと、レオンだ。飛行艇の準備ができたのだろう。
いざ行こう、勝負の地へ。
胸元に付いた大きなコサージュがとても可愛らしい短い丈のドレスをはためかせて、レヴィはドアへ向かった駆け出した。
※
イナンナとメルガルの命運を決める戦いから一週間後。各大陸の後片付けが終わり、落ち着いてからの正式な同盟締結の席を設けることになった。その会場とはあの日、宣戦布告をした学園長室。そこでレヴィとヒヨカが顔を合わせることになった。
同盟を行うための場には俺と空音、そしてレオンも居合わせることになる。空音と二人でメルガルからやってくるレヴィ達を部屋まで案内することになる。案内する道は、俺が初めて学園長室に向かった道で迷うことはなかった。だが……。
――久しぶりね、雛型実王。ふーん、へえ、はあ、ほお……。
などとレヴィに言われ、ジロジロと顔を舐めるように見られたのは非常に気になった。俺の顔など何度も見ているはずなのに、何故改めてここまで見られなければいけないのだろうか。レオンに助けを求めようと視線を向けるが、レオンにはあまり似合わない気を使うような笑みがそこにはあった。……レオンのことを知るには、まだまだ時間がかかりそうだ。
レヴィの視線を背中に受けながら、無事に学園長室に辿り着く。
ヒヨカは友人の顔を見て、嬉しそうにぴょこぴょこ飛び跳ねて喜び、レヴィに飛びついた。今か今かとヒヨカはメルガルからやってくるのを待っていたのだ。一瞬、レヴィは泣きそうになりながらもヒヨカを体から離す。
「改めて感謝するわ。ありがとう、ヒヨカ」
首を振るヒヨカ。
「いいえ、私は何もしていません。レヴィさんのお気持ちがあってこそ、このような結果になったんです。私もこの結果を望んだ一人として、とても嬉しく思います」
二人の巫女がお互いに微笑み合えば、二つある来客用のソファにお互い真正面になるように腰掛ける。向かい合うのは、レオンとレヴィ、ヒヨカと空音。友人モードから巫女モードに変わった二人は、スムーズに話をつけていく。それをサポートするようにヒヨカとレオンもところどころフォローを入れる。
ここで初めて、レオンもただ戦うだけではかったんだな、と驚きを感じた。ただ戦うということで物事を見出そうとしていた人間もこう見れば、立派なレヴィの補佐にしか見えない。
話は滞りなく進む。ヒヨカの中では、もともとこんな形にすれば両者に優劣をなくすことができるという固まった考えがあったため、それになぞるようにレヴィも話を合わせる。輸出輸入の話から、技術提供の話、今回の戦争での両国の人間へのケアもテキパキと一つの書類にまとまっていく。そして、完成した書類にレヴィが判子を押すことで、今回の戦争が正式に終わりを迎えた。
判子を押した二人は目の前に注がれたお茶を飲みながら、同い年の友人として歓談を始める。元気だったか、とか、最近はどこどこのお菓子がおいしい、とか、少し身長が伸びた……などなどの一人の少女としての雑談。そこには巫女としての威厳もなく、二人の少女がただ話をするだけの穏やかな時間だった。改めて、レオンに勝ててよかったと心から思える瞬間だった。
それは話が一段落ついた後のこと。
空になったティーカップを机の上に置くとレヴィは俺に挑発的な視線を送る。
「ねえ、雛型実王。アナタなかなか、凄い男じゃない」
立ったままで二人の様子を見ていた俺は、いきなりの褒め言葉で少しばかり上ずった声を上げる。
「え、あ、えと……俺は別に凄くなんてないですよ。バルムンクのおかげで勝てたようなもので……」
視線を泳がせつつ、俺はそう言う。レヴィはクスクスと口元に手を当て笑い声を上げる。
「いいえ、そんなことないわ。絶望的な状況から、強者であるレオンを倒し、アナタがこの戦争でイナンナを勝利に導いた。そして、両大陸に新たな道を作り出すことになった救世主とも呼べる存在だと私は思うの。どれだけ多くの勲章を貰っても足りないぐらいだわ。……ああ、話し方もかしこまらないで、そういうアンタは似合わないと思うし、砕けた口調で話をする方が私も助かるの」
随分と俺のことを買っているようだ。
内心、俺は驚きつつ、ヒヨカに普通に喋ってもいいのか、というアイコンタクトを送れば、ヒヨカもニコニコ笑顔で頷く。
「……じゃあお望み通り楽に話させてもらうよ。俺は、俺にとっても一番の選択をしたに過ぎない。俺は俺の持つ疑問を口にしただけで、ヒヨカはその中で必死にいろいろと考えてくれた。本当に凄い奴は俺じゃなくてヒヨカだよ」
レヴィは品定めるように俺を見れば、うんうんと深く頷く。
「そうね、もちろんヒヨカもよく頑張ってたし、救世主と呼べるわ。……だけど、この状況を生んだのは紛れもなく雛型実王、アナタよ」
そうゆっくりと言えば、再び俺の顔をジッと見つめる。レヴィのツリ目が少女の整った顔立ちを一層に際立たせていた。
「……ここはありがとうでいいのかな」
一応は同盟関係にある大陸のトップに位置する人間だ。無礼があっては、ヒヨカの顔に泥を塗ると思った俺は、失礼がないよう必要最低限の言葉数でこの場を乗り切ろうとしていた。早く終われ、頼むから……。
感じなくても良いはずのストレスを感じながら、この場が収集するのを待っていれば、レヴィは俺のストレスを加速させて胃に穴を空けるようなことを言い出した。
「ねえ、雛型実王。アナタ、恋人はいるの?」
空音のティーカップを持った手が止まり、ヒヨカはキラキラと星でも飛ばすような輝く瞳で実王を見つめ、そして全く関係ないはずの授業中のルカが背中に悪寒を感じていた頃。
なんだこの質問は。答えないという選択肢はないのだろうか。……きっとないのだろう。
俺は腹を決めて、返事をした。
「悪いが、そんな現実を充実させるような存在は、今まで居たことがない」
空音は何故かホッと息を吐き、口元に紅茶を運ぶ。ヒヨカは未だにキラキラとした視線を送っている。
レヴィはニンマリと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あらそう、ならちょうどいいわ。雛型実王……いえ、実王に朗報よ……」
はて、朗報とは。何の話だろ。
実に愉快そうに話すレヴィに向けて首を傾げると、レヴィは急に頬を染める。
「うーん、でも、やっぱり恥ずかしい部分もあるし。……ねえ、どうするべきかしら、レオン」
レオンは深くため息をつく。
「お前のやりたいようにやれ」
疲れたように言うレオンの声。何故だか、とても嫌な予感がする。
「やっぱりそう! 私も自分を信じるべきだと思っていたところなのよ。……あー、でもやっぱり……」
先ほどまでの雰囲気はどこへやら。急にもう一つの人格でも現れたみたいに、目の前の机を指でなぞる。そして、悶えるようにクネクネと体をくねらせる。その間も、うーん、とか、あーん、とか、やっぱりぃ、などと言うのだが……実にうざいのだ。
そのわけの分からない光景に我慢できなくなった俺は、ついに声を荒げた。
「なんなんだよ。何が言いたいか分からないけど、はっきりしろよ!」
あら、ごめんなさい。とレヴィは息を吹き返すように手を叩く。そして、大きく深呼吸をする。顔はまだ赤い。腰掛けていたソファからレヴィは腰をゆっくりと上げると、壁際に立っていた俺に真っ直ぐに向かってくる。
「よく聞いて、実王……」
妙に艶かしい声。と言っても顔は真っ赤なので色気は感じないが。
レヴィは右手を伸ばすと、その指が俺の顎を掴む。近づくレヴィの顔。
「ちょっと、レヴィ様……実王さん……」
背後で空音の鬼のように怒った顔が見える。
そんなに怒られてもこっちもこっちで困っているのだ。
そんな困っている状況でレヴィは、さらに困らせる発言をする。
「――雛型実王。アナタ、私の夫になりなさい」
その瞬間、イナンナの学園長室の壁掛け時計が壊れた。
「は?」
瞬時に漏れるのは俺の間抜けな声。
「へ?」
空音の声。額には青筋が浮かんでいる。
「俺の嫁?」
よく意味も分からないままで喋るヒヨカ。
すいませんが、しばらく黙っててください。
「はあ……。すまない」
レオンのため息と申し訳なさそうな声。今日ばかりは、お前が一番の常識人ナンバーワンだよ。
「落ち着け、雛型実王……。す、すまんが、レヴィ。もう一度言ってくれないか」
俺の震える声を聞いたレヴィはもう一歩近づく。もう吐息も感じられる距離。
「……聞こえてなかったの。実王、私と結婚しろって言ってんの」
恥ずかしげにレヴィは視線を逸らした。
ああ、かわいいな。と思いながら、俺は絶叫した。
「なんじゃそりゃあああ――!」
※
「嫌な予感がする……」
授業を受けていたルカは一人呟く。
先ほどとは比べ物にならない寒気。
風邪でも引いたのだろうか。ルカは小さく呟く。
「こんな気持ちはじめて……」
無性に実王さんを殴りたい。