第二十八章 第一話 彼の守る未来と男の壊す創造
最初、男には名前があった。
学生時代を謳歌し、恋をして、叶えたい夢があった。そして、男は夢に手が届いた。
世界平和、ありえもしないと笑われた理想を追い続けた。逆境を乗り越えた先の結果だった。だが、男の与えた夢はその世界では受け止めることのできないほどに強大過ぎる夢だった。
彼が夢を追いかければ追いかけるほどに、世界はその反対を進んで行った。結果、彼の前には果てしない虚無が残った。
取り残された彼は、心を失いながらも世界再生に努めた。
死ぬことのない彼は、食事もせず睡眠も行わずに研究を重ねた。眠るように死に、目が覚めるように不死の彼は生き返った。死ぬことのない体は、彼の心に業のように圧し掛かり、罪を拭おうとすればするほどに、精神が崩壊していく。男の人格は死に、ただただ生命を追いかけることに没頭していくこと千年以上。
シクスピースを作り上げ、再生を繰り返す世界を完成させた。
無くした心は、世界の誕生とともに再び目を覚ます。しかし、その時に目覚めた彼の心は、最初の男のものとは違う。生まれたのは、新たな世界を征服しようとするハジマリという男。
長い、長い、長い、永遠にも感じる時間の中で、人が経験するには多過ぎる死を体験した男の心はとっくの昔に消滅し、生まれたのは己を創造の王と名乗る災厄の神。
体は千年の記憶を持っているかもしれないが、ハジマリという存在の記憶は数十年のものしかない。
あの日、人の幸せを祈った男はいない。今、別世界を目指す男は、ただの災いだった。
ニーベルハイムを操縦するハジマリは、空に刀を向けた。
空中に浮かぶのは、六体の竜機神。今まさに、ハジマリは雛型実王の住んでいた世界へと穴を開けようとしていた。
『このような形での旅立ちというのは、非情に残念だ。まだ他に、心残りがあるとすれば、望んでいた戦力とは程遠いものになってしまったことか。まあ良い、私は行こう』
刀の先へと力を込めれば、その刃の先から電流のように迸る魔法の光を放つ。電流の行き先は、何もないはずの空間。それだけで終わるわけでなく、魔法の流れが大きな広がりを見せれば、空にぽっかりと黒い穴を作り上げた。
淀みきった深い暗黒が広がる穴は、まるでもう一つの世界がハジマリが強引に来ようとしているのを拒んでいるようだった。
『数度のループを経て、ピースがやっとここまで成長し、巫女ヒヨカと雛型実王の両親の影響で段階を進めることができた。ある意味では、一番の功労者といえるか』
ハジマリの頭の中には、既にもう一つの世界への思いしかない。まずは、どこを攻めるか。先に重要拠点を中心に、次は敵対脅威の排除、あちらの世界の住人達にピースを注入させ、思いのままに操る。雛型実王の両親が多少の障害になるかもしれないが、その程度の抵抗は微々たるものだと予測できる。
それで、あの世界は私のものだ。……あの世界を手に入れた後、私は……どうするのだ。ずっと追い求めていたあの世界。しかし、私はその後を考えていなかった。あの世界のその後の私は――。
『――あぁ』
背後から何かが近づいてくる。いや、今さら何かなんて言えない。この状況で、自分の後ろから接近してくる存在なんて、ただ一つしかありえない。
遥か彼方から、こちらまで距離を詰める――バルムンク・リヒト。
『やはり来たか。……エツェル』
宙を漂っていたエツェルの名前を呼べば、その手に持っていた巨大な弓を構えた。狙いをバルムンクに定めれば、手の中に出現した黒き矢を掴み、限界まで引っ張る。そして、凝縮された黒き魔法の力と共にその矢を放つ。
迫り来るバルムンクは、その矢に気づく。
『――魔人化!』
そう叫べば、バルムンクの色は全身を白に変える。手に持っている刀に魔法の輝きを宿らせれば、エツェルの矢を受け止める。
矢と刃、押し合う二つの力が弾け合う。その力の強大さを見せつけるように、魔法の光が火を噴き上げるように迸る。
『どけぇ!』
エツェルの矢を力いっぱい振り切ることで強く撥ね退けた。
翼を大きく羽ばたかせて、一直線に六体の竜機神の元へと向かっていく。ぐんぐんと速度は上がり、みるみるうちに距離が縮んでいく。
『お前を倒さなければ、私は私の理想に到達できないようだ』
ハジマリの敵意に反応して、ニーベルハイムの周りを囲んでいた五体の竜機神が輪のように広がると、五本の光の筋となりバルムンクへ向かう。
『お前の思い通りになんか、させるかよッ!』
目の前に現れたのは、黒いグングニル。瞬間移動、そう間違えてしまいそうになるほどの動きで俺の前に出現した。
振り落とされる鉤爪の一撃を刀で受け流す。
『安心するな、こちらは六体だ』
受け流して、グングニルの頭を飛び越える。しかし、グングニルの頭に立つのはバルムンクだけではない。こちらと向かい合うのは、ブルドガング。
大きな右腕を振りかぶれば、その逆刃はバルムンクの首元へと走り出す。
『――言われなくても、分かってるよ!』
バルムンクは体をエビ反りにさせれば、逆刃は首元ギリギリを流れていく。反った機体を戻して、ブルドガングの体を足蹴にすれば、先程よりも近づいたニーベルハイムへと飛翔する。
――実王さん、下です!
ウルドの言葉に反応して、急ブレーキ。前方を下降から上昇した物体が通り過ぎていく。
数十もののクロウだ。そのどれもが魔法で黒く染まり、攻撃性も上がっている。まともに今の数を受けていたなら、瞬く間に粉々にされていただろう。
高く昇るクロウは宙でぐるりと反転すれば、海を泳ぐ魚の群れのようにバルムンクへと向かう。
『ぶちかますぞ、ウルド!』
――でっかいの行きますよー!
バルムンクが刀を持ち上げれば、その刃に集うのは魔法の粒子。
十分な輝きを手に入れた刀を抱え、接近しようとするクロウ達を引っ張るように輝く刃と共に刀を振るう。
刀で作り上げた軌跡は、実体を持つ光り輝く刃となりクロウへと伸びていく。クロウを引き寄せることはないが、その刃の先から放たれる魔法の刃はバルムンクの壁となるクロウを粉砕する。
放たれた光の刃はザイフリートまで勢いが衰えることもなく、突き進む。
操縦席のハジマリは僅かに不満そうな顔を浮かべ、ニーベルハイムの刀を抜けば、軽く受けて弾いた。
『小ざかしい。……雛型実王、気味の悪い男だ。他人のために命を賭け、誰かの盾となり傷つき、自分は弱いという自覚を持ちながらも戦う気か。お前は、非効率的な存在だ』
光の刃が打ち消されると同時に出現した黒いザイフリートの大剣をバルムンクは右手で握った刀で受け止め、左手を叩き込む。雛型実王とウルド、限界まで魔法の力を解放しているバルムンクの拳を受け、ザイフリートは実王の視界から米粒ほどに小さくなるまで機体は吹き飛ばされる。
『俺のことなんて、どうでもいい! お前に語られるのも腹立つよ!』
前方にいたブリュンヒルダのクロウを右左に往復して回避し、ブリュンヒルダの細身の胴を渾身の斬撃で胴体と脚部で半分に切り裂いた。
仲間の竜機神の機体を手にかけるという嫌悪感に表情を曇らせながらも、バルムンクを走らせる。
ニーベルハイムまでの空がクリアになる。
『人は常に損得を考えるものだと記憶している。これから向かうお前の世界は、お前のような奴ばかりなのか』
ハジマリは、実王から実王の住んでいた世界の情報を知ろうとしていた。単なる好奇心によるものだった。戦闘以外のことを考えるほどに、ハジマリは実王のことを格下に見ている。
相手の余裕に気づき、実王は舌打ちをする。
『目の前で誰かが傷つこうとしているのに、効率なんて考えられるかよ! 後な、お前の疑問も知らねえよ! 損得も考えて、効率も考えないのも人だからな!』
『理解不能だ。じゃあ、人とは何だ』
実王は口元に薄く笑みを浮かばせた。
『分かってるじゃねえか! 理解不能なものが、人間だよッ』
バルムンクは刀を振り落とし、ニーベルハイムはその刀を己の刀で受け止めた。
二機の竜機神が起こした刃と刃の衝撃波、周囲にのん気に浮かんでいた雲達は、この世界に残された逃げ場を探すように雲は散っていく。
『私が渇望した者はお前のような奴なのか、雛型実王。……いや、お前は私の創造する未来にはいない』
ハジマリは分からなくなっていた。己が、何故新たな世界を望んでいたのか。
心が消える前の彼には、確かにその思いがあった。
――また人に会いたい。
ただそれだけの願いで始まった再生と崩壊の世界。しかし、長い年月はその願いを邪悪なものに変えてしまった。ハジマリは願うということが、どれだけ純粋で最も悪に染まりやすいということを知らなかった。
――雛型実王の世界を我が物に。
滑稽に歪んでしまったハジマリの願いは、間違った方向へと固まりつつあった。例え、その願いが叶ったとしても、ハジマリにとっては歪んだ願いを叶えることしか知らない。叶った後の世界は、既に彼にとって無意味なものになりつつあった。
それでも、彼の純粋過ぎる悪に対抗する、ある意味人らしく人であるために抗う存在もいる。
『そいつは残念だったな。きっと、あっちの世界には、俺なんかよりも諦めの悪い奴が、もっと、もっと、もっと! たくさんいるんだよ!』
人として戦う雛型実王は知っていた。自分の住む世界が、どれだけ脆く、どれだけ強い世界かということを。
黒と白、二つの竜機神は、何度も刃を交えながら空へ昇る。
※
「雛型実王……。行ったか……」
カイムは飛行船にまで届く二機の轟音と衝撃波を感じつつ、実王の残した魔法の粒子を見つめていた。数秒で魔法の粒子は消えた。
雛型実王の言葉を何度も思い出していた。
――この世界で罪を償え!
「罪、か……」
だがしかし、雛型実王の出した提案は罪を償うというには、あまりに優しいものだった。
もう一度、誰かの優しさを信じるというのか。
カイムは繋ごうとしていた手を開いては閉じ、開いては閉じる。そして、また開く。
自分はこの手の中に、何を掴もうとしていたのか。何と繋ごうとしていたのか。
カイムは、自分が無駄な思考をしていることに気づき、小さく笑った。
「いや、私が一度でもあの男を頼った時点で、私のすることなんて……もう決まっている」
ハジマリと立ち向かう雛型実王に対して、確かに全身全霊で祈った。もうそれだけで、奴と私は互いに罪を背負う存在になったと言えるのではないだろうか。
開いていた手を強く握り締めた。
「いいだろう、私はお前の命を預かる。そして、お前には私の運命を預けよう。そのためには、まず私にはやることがある。いや、私達にはやることがある」
そう言い、カイムはその場から背中を向けて歩き出す。
カイムは瞳に強い意志を宿し、大きな一歩を踏み出した。
「……しかし、ウルドにはもったいないぐらいの、いい男じゃないか」
少しだけ初めて巫女になった時の少女のような顔つきでカイムは呟けば、小さくほくそ笑んだ。