第二十七章 第二話 ディストピア
「滅んでいるとは……どういうことだ」
相手の心の内を必死に覗き込むようにカイムは、ハジマリの顔を見る。
「文字通りさ。……滅びる前の世界は、恐ろしく平和だった」
「平和を恐ろしいなんて、おかしなことを言う奴だな」
思春期の少年のように、相手の言うこと全てに敏感になる。ハジマリの口することに、俺は吐き捨てるように声を上げた。
ハジマリは俺に視線だけをくれると、言われたことなど無視をして再び口を開いた。
「平和だったんだよ。その世界はいくつものの小さな戦争が起きる世界だった。多くの犠牲と一握りの平和。そうした、屍ばかりを積み上げる世界に嫌気が差したある科学者が……ピースと呼ばれる細菌や細胞よりも小さな機械を開発する。体に注入すれば、病気も怪我もなく、老いもなければ、食事をする必要もなくなる。それでも、人は争いを続けた。だから、科学者はピースをさらに改良して、攻撃的な思考を抑制する効果を加えることに成功した。いくつもの小さな戦争はあっという間に終わりを迎えて、ピースは世界を大きく変化させていった」
カイムは小馬鹿にするように鼻で笑う。
「おいおい、神よ。神話の次は、空想科学の話かい?」
いやいや、とハジマリは薄く笑うと首を振る。
「やっと、平和が訪れた。科学者はそう考えた。……しかし、実際は違う。人から攻撃性を奪うことで、人が本来持つ欲すらも奪ってしまった。何もせずとも生きていける世界、既に弱りきっていた人の意思というものが、新たに改良されたピースの前で完全に死を迎えた。ピースは科学者の手を離れ、自立して成長していった。……長い進化の果て、ピースは人が生きることが、既に争いの種になることという結論に辿りついた。――息をするという行為が人には不要と判断し、全ての人間はピースの手によって息絶えることになった」
一文字一文字をまるで物語のページをめくるように、はっきりと語るハジマリ。しかし、この世界に人は生きている。彼の話には、矛盾が多過ぎるのだ。
「科学者は、己の保身を求め続けた結果が人が人の尊厳を捨てるという結果に絶望をした。世界でただ一人の存在になった時、死ぬこともできず老いることもできない科学者は、無心にピースの研究を続けた。というよりも、彼にはそれくらしかすることもなかった。度重なる実験の失敗で、気がおかしくなる手前、実験の弾みで世界を揺るがすほどの爆発が起こる。その時に、異世界への空間が出現した。……それが、君の住んでいた世界だよ」
ハジマリは俺の顔をジッと見る。その目の中には俺がいるものの、頭の中に描いているものは全く別のものだと気づく。
「……魅了された。一人になって何百年も経っていたから、僅か数秒の君の世界から目を逸らすことができなかたよ。命が溢れ、人が意思を持って生き、汚れていながらも、自由を謳歌する。私は、研究の失敗の上の中で見た君の世界に憧れ、渇望し、君の世界を欲した。……その時、君の世界を自分のものにしたいと思ったんだ」
神だ創造主だと思っていた存在。今の彼の思い焦がれる表情は、まぎれもなく欲を持つ一人の人。
俺が口にする前に、カイムは自分に言い聞かせるように小さな声で言う。
「……そして、その科学者はお前か」
ハジマリの威圧的な目が俺とカイムを見る。視線が、正解とそう答えているようだった。
ぞわぞわと肩を怪しく撫でられるような気持ちの悪さ。ハジマリは過去には人としての尊厳を失ってしまっていたかもしれないが、間違いなく今の彼はただの人だ。そして、そのただの人間が強大な力を手にしている。それは、とても恐ろしいことに思えた。
「再び世界の穴を空けることは、それほど難しいことではなかった。しかし、あちら側の世界を手にするためには、不老不死というだけでは困難に思えた。だからこそ、私はあちらの世界を征服するための軍勢を作ろうと思ったのさ。……その軍勢を作るために、一から世界を作り上げて、戦わせて、お互いを競い合わせて、最強の力を持つ集団を作る」
「ちょっと……待て……」
カイムは眩暈でもするのか、頭を抱えていた。
息は小刻みで、その肩は小さく震えていた。
「世界を作って……戦わせて……。はは……まるで……大陸間戦争と一緒じゃないか……」
震えるカイムの顔をハジマリはしばらく眺め、言い聞かせるように先程よりも少し大きな声を出した。
「そうだ、そのために君達巫女を戦わせてきたのだ。戦争に勝利した者を、最終的には私が操り、雛型実王の世界を滅ぼしにいく。つまり、この世界は戦争をするための訓練所というわけだ。この世界を今の状態に作り上げるために、千年は費やしたはずだ。大陸同士で戦い、勝利者を作り、その生き残った勝利者ただ一人のみがループを続ける。……このシクスピースを」
カイムは頭を強く搔けば、鋭い殺気と共にハジマリを睨む。
「――ふざけるな! 命を賭け、人が死に、命を奪い、それでも戦って……戦って……終わることがない戦いなんて!? おかしいだろ!? どうして、私は戦ってきたのだ! こんな、こんなことのために戦ってきたのか!? 私は! 私達は!?」
激昂するカイムを見て、ほぅと小さく声を上げる。飼い犬が急に吼えたことに驚くような、想定していた出来事の前で心を動かない驚きの声。
「君もそんな表情をするのだな。君の質問に対しての返答は、肯定だよ。大陸が滅ぶと巫女の記憶に刷り込ませ、それを神託と思うように心に刻んだ。戦いに勝利した巫女は、自然と魔法も強くなり、共に戦う竜機神も成長し、ループを重ねるごとにシクスピース全体の力の底上げが行われる。このシクスピースは、最強の軍勢を作り上げるための箱庭だったのさ。――しかし、異常が起きる」
異常、と口にすると、ハジマリの目は俺を捉えた。
「……なるほど、俺という異常が起きたから、今お前がこうして出てきているのか」
「そうだ、最初はあの世界から来たものだというので、しばらくは放置していた。だが、お前がシクスピースで動けば動くほどに、この世界の異常は大きくなる。ウルドという異常はお前と意思を通わせ、争うべき世界は争いを止めようとしている。巫女や乗り手からは、家族も奪い、全ての選ばれし人間達が争うように仕向けたはずだった」
耳に絶対に聞き逃してはいけない言葉が届いた。
俺を見つめるビー玉のような目のハジマリを睨む。
「……家族も奪い?」
「ああ、家族というものは、巫女や乗り手を産み落とす代わりに余計な価値観を与える。それならば、彼らには巫女しかない、戦いしかないと信念として刻むために、あらゆる理由で君達から家族を奪う必要がある」
――この人、許せません……!
ウルドの怒りの声が届く。ウルドには珍しいと思えるぐらい、強い憎しみの感情。
――そんなの……当たり前だ……。
地面に手をつき、激しい呼気を吐きながら、なんとか立ち上がろうとする。
「お前の勝手な理由で、この世界の人達は作られ……戦わされてきたのか……」
ハジマリは頷く。
「作り出したのは私だ。私が想像し、作り上げなければ、巫女や乗り手どころかシクスピースという世界は存在しない。私というこの世界の親とも創造主とも神とも呼べる存在の操り人形になることも、仕方がないだろう。全ては、雛型実王の世界を滅ぼすため。違和感を感じなかったか? その準備のために、このシクスピースは君の世界に近づけてきたのだ。そうやって、気づかぬ内に……私が満ち足りたと思うその時まで、君達は戦い続ける。その時こそ、雛型実王。君の世界は私のものになる」
だから、この世界は俺の住んでいた世界と似ていたのか。それは微妙に違う程度の、違和感。シクスピースで命令した人間で世界を滅ぼした後に、違和感なく俺の世界を受け入れさせる。このシクスピースは、何から何まで俺の世界を滅ぼすために準備を重ねてきたのだ。
ふらつく体で少しずつ、足腰に力を入れる。
腕は引きちぎれそうに重く、足は杭でも打ち込まれたことを錯覚しそうになるほど足を持ち上げることも困難で、肉体を刃物で引き裂かれるような痛みが走る。
立ち上がるだけでも全身の痛みで意識が飛びそうになり、歩こうと思うだけで卒倒してしまいそうなほどの眩暈が襲う。
――でも、ここで倒れるわけにはいかない。
すると、背後からカイムの声が聞こえた。
「雛型……実王……! どうして、私は……!」
カイムはハジマリの話を聞く体制から全く動こうともしない。いや、動けないのだ。俺と一緒で、カイムは体を動かすこともできない。しかし、彼女の怒りは伝わる。
カイムの口元からは怒りで噛んだ唇から血が流れ、苦しそうに歯を食いしばっていた。これほどまでに必死なカイムの姿は見たことがない。きっと、これが世界に抗おうとしていたカイムの本当の姿なのだろう。
ほぉ、と再びハジマリは言う。それは、感嘆の声。
「君がこの世界の人間じゃないからか、まさか、ここまで動けるとはな。……だがもういい、この世界は失敗だ。最初から君という異常を招く必要はなかった。またやり直すさ、この世界を一からやり直してさ」
ハジマリはその手を持ち上げ、前方へ向けた。
俺は激痛の伴う体を動かそうとしていた。
巫女達が魔法を使う時に、この動作をしているが、奴のしているものが、それとは比較にならないものだとすぐに判断できた。
「――急げ、雛型実王ぉ――!」
カイムが必死にできたことは、その喉から擦れた声を絞り出すこと。それでも、今の俺の気持ちを動かすには十分すぎるプラス要因となった。
「無駄だ、消えていく、消えていく。この世界は私の手の中だ。全てがなかったことになる、全て」
背後を振り返ることはしなかった。しかし、感じ取ることができた。自分の周囲が――消えていっていることを。後ろにあった様々な感触や空気、世界で感じとるこのできる生命の躍動感が消えていっている。
相変わらずの激痛と、どこかで悲鳴も上げずに消えた人。大切な人達が消えていく姿。
「お前は――」
揺らぐ視界はどこまで気色悪く、吐き気はとっくの前に過ぎ去り、ただ崩壊した世界が広がる。
世界は暗くなり、どこまでも暗黒に染まる。そして、俺の前でハジマリは顔を歪ませていた。
「――……何故だ」
その顔、ずっと見たかったぜ。
心には不思議な満足感。ハジマリは俺に向かって、何度も手を振り下ろす。
強くハジマリを睨めば、大きく一歩を踏み出した。
「神なんかじゃない――」
拳を強く握れば、それを後ろに引いた。
この世界に来て、大事なものは増えていくばかりだった。逃げ出すことも考えた。
俺は強くない、当たり前に弱く、簡単に足を止める。
弱いからこそ、大事なものを捨てられるほど――強くない。
「――お前がどうして……」
ハジマリは慄き、片足を引いた。
俺は踏み込んだ足に力を入れる。拳に足に、ただ一発を放つために全身をバネのように。
「ただのちっぽけな……人なんだよ――!」
限界まで引き伸ばしたバネを戻す。拳をハジマリへと一直線に伸ばす。
歪で、まるで届かないところに必死に手を伸ばそうとするような、ただただ真っ直ぐな右の拳。
「――どうして、消えないのだ!」
驚愕の声を上げた直後、ハジマリの顔に拳が触れた。
ハジマリの頭が大きく揺れた。