出立
例えば、こうただ座っているときに違和感を感じること。
例えば、こうただ目の前にある現実が認識できないこと。
例えばの話、ただそれだけの話なのだが、
私の目の前にあること、これ自体は現実か否か。
きっかけは一通のてがみ。
『拝啓 吉田 育夫 様
私のような愚劣なものがあなたに筆を取ることをお許しください。
しかし、このようなことを思っていてもどうしても書かずにはいられないのです。』
このような文章から始まるこの手紙によって私は揺さぶられた。
とてもうまいとはいえないし、正直稚拙な文章であるが
なんともいえない必死さがあるではないか。
ともかく私はこの人物の必死さに(軽く嘲笑の対象でもあったのだが)
興味を引かれた。
そしてそんな時私の仕事は比較的自由の利く仕事であるので
後のことを任せる人物に任せ、この、手紙の主に会ってみようとしたわけである。
「さて、そういうわけで行ってくる」
「お早いお帰りを
仕事は待ってくれませんよ」
兵藤君。
彼は私の秘書のような仕事をしてくれている。
私のスケジュールからなにから彼にすべて一任している。
「だから君に任せるのだろう
よろしく頼むよ」
「それは構いませんがね
私の一存では決められないこともありますから
お早いお帰りを、と申し上げておるのです」
「それは承知しているよ
まぁ謂わば私の個人的な趣味みたいなものだからね」
「それだけ承知してくだされば結構です
気をつけて行ってらっしゃいませ」
このとき本当に私はただ、普通の言葉だと思っていたが
これはすでに彼の何かが私に注意をしていてくれたのかもしれない。
ともかく私は、うかつであった。
「うん、じゃあ行ってくるよ」
『例えば、こうただ座っているときに違和感を感じること。
例えば、こうただ目の前にある現実が認識できないこと。
そんなことはございませんか。
私はあるのです。自分に違和感を感じるのです。
今私のこの状況を認識することができません。
自分自身が他人であるかのような、というものではないのです。
他人が自分自身であるという確信なのです。 』
「しかしまぁなんとも奇妙な手紙ではないかね、ええ?おい」
新宿歌舞伎町。倭の国でも有数の繁華街であり、奇妙な街でもある。
私の事務所からは汽車を使うほど遠い場所ではないのだが、歩いていくには少し面倒な距離ではあるので馬車を使うことにした。
その馬車の中でひとりごちる。
なんとも不可解な手紙であるから。
差出人に覚えもなければ内容も要領を得ない。
私には何を言いたいのかまるでわからないのだ。
ただ、ただ、必死に何かを訴えていることはわかる。
そこになんとなく興味を惹かれた。ただそれだけで仕事を放り出してこんなところに来ようという私も大概おかしいのだろう。
自営で探偵の真似事をしている私はそれなりに時間に自由が効く。そしてなにより、あまり嬉しいことではないが、幸い、私はさほど忙しくなかった。
安い賃金で献身的に働いてくれる兵藤くんには頭が下がる思いだ。
「これも経験、将来の役に立つと思って!」
とニコニコ話す兵藤くん。歌舞伎町まできたのだ。帰りには彼にお土産でも買って帰ろう、そう思っていたところに目的の場所についた。