疲弊
高橋真司が不思議な力に見舞われたのは、社会人になるよりも遥かに昔のことだった。
ある昼下がりの水泳教室での出来事だ。
その日高橋真司はいつものように25メートルのプールで練習し、ビート板を片付けて、濡れたプールサイドをかけっこする少年らの背中を目で追っていた。
「段々速くなっているね。来月の大会では入賞できるかも知れない」
当時の担任が、高橋真司の肩に手を置いて、そう励ましてくれた。
太陽は高くギラギラとしていて、プールの水面は白い光を乱反射させていた。
それはいつも通りの、何の変哲もない日常に過ぎなかった。
ただ一つのことを除いては。
放課後に下校のチャイムが鳴ったとき、高橋真司は違和感を覚えた。
耳に手を当てると、ゴロゴロとした響きが感じられた。
実は昼間に潜水をしているときから、その予兆がまるで鼓膜を何かで覆われているように感じていたが、やがて痛みとともに現れたのだった。
帰宅して親に連れられて、病院で診てもらうことにした。
医師は銀色に光る器具で、高橋真司の小さな耳を開いては、細いライトで暗闇を照らして様子を確かめているらしかった。
「これは中耳炎ですね」
「チュージエン?」
聞き馴染みのない病名を高橋真司は復唱することで、己の身体感覚と固有名詞を紐付けようとした。
医師の話では、切開するほど酷くはないけれど、しばらく水泳を控えるように指示された。
その夜のことだった。
大抵午後9時にはベッドに入って微睡むはずなのだが、太陽に晒された火照りか、あるいは医師に宣告された中耳炎という病気のせいなのか、高橋真司はなかなか落ち着くことができないでいた。
部屋の天井は淡くぼんやりと白んでいて、ずっと目を開けっ放しで眺めていると、昔のテレビの砂嵐みたいに白黒のノイズが現れては消えていった。
ふいに高橋真司は耳を澄ませた。
右耳から、何かを擦るような音がする。
手を当てると、思わず高橋真司は驚いて言葉を失った。
「ぬ、濡れている」
窓の月明かりに照らされた右の手のひらは、指先から垂れる粘性の高い透明な雫に覆われている。
痛みはおろか、痒みすらなかった。
ただ右耳の穴から、人肌の温もりを備えた液がゆっくりと滴り落ちているのであった。
鼓動が早まり、もしかして自分の身に何か危険が生じているのではないか、そしてその焦燥は高橋真司の息を荒くしパニックに陥らせた。
強いストレスがかかった高橋真司に、猛烈な眠気が襲い、そのまま崩れ落ちるように意識が途切れた。
翌朝には耳は乾いていた。
シーツも枕カバーも濡れておらず、高橋真司はただの夢だったに違いないと思った。
そしていつものように登校して、プールの練習は見学することを担任に伝えると、高橋真司の泳ぎに期待していた担任の顔は落胆の色に微かに染まった。
しかし高橋真司を不安にさせたのは、それだけではなかった。
「一体これは、どうしたんだ」
生徒のみならず、校舎から先生たちが次々と出てきて、階段を上がりプールサイドを取り囲む輪が、黒山の人だかりとなった。
そこには水がなくなっていた。
そして水どころか、プールは底が抜け落ちて、長方形の真っ暗な穴が、光の届かない深さまで大きな穴ができていた。
ガヤガヤと騒ぎ立てる群衆の喧騒に紛れて、そのとき高橋真司ははっきりと誰かの声を耳にした。
声は不思議と穴の奥から放たれているような気がしてならない。
何を言っているのかは判別がつかないのに、それが何を意味しているのかを理解することはできた。
高橋真司は呟いた。
「…レロ」
周りの生徒は青い顔をした高橋真司を意に介さず、おそるおそる底の抜けたプールに身を乗り出してはしゃいでいる。
「…ハナレロ」
生徒たちの背中を引っ張り制止していた教師のうちの何人かが、小刻みに肩を震わせて唇を噛む高橋真司の異様を察知したとき、高橋真司は今度は大声を振り絞っていた。
だが誰も高橋真司に耳を傾けるものはおらず、穴に小石を投げたり、走り回ったりして、その声はかき消されてしまうのだった。
「ここから離れろッ!」
そう叫んだのは高橋真司の担任だった。
ほとんど同じタイミングで、プールサイドには蜘蛛の巣のように亀裂が生じ始めて、慌てふためく生徒たちでプールの入り口はごった返した。
全員が避難したところで、プールの穴はさらに拡がり、大規模な地盤沈下となって、校庭や校舎の一部を巻き込む大事件となった。
※※※
3歳の息子を連れて帰宅した妻が、寝室から出てきた。
今日は帰りが早かった私は、夕飯の準備をして待っていた。
「ヒロト、調子が悪いみたい」
「だから病院に行ったの?」
「うん。頭が痛いらしくって」
机に出ていた診察券は、マンションの直ぐ側にあるかかりつけ医がいる病院のものだった。
疲れた様子の妻にお茶を勧めて、私はテーブルの椅子に腰掛けた。
温かいお茶を飲みながら妻は病院でのことを報告し始めた。
「そう言えばさ、最近地震が多くない?って看護婦さんたちが話してて、不安になっちゃっうよね」
「そんなに多いかな?ああ、でも昨日もあったみたいだね、気がつかなかったけど」
小さな地震があったと、ニュースで報道していたことを思い出した。
「それと、まだ治ってないんだね、その癖」
妻は私の耳元を指さした。
私は時々しきりに右耳を触りたい衝動を抑えきれないことがある。
「これは、なんていうか、おまじないみたいなものさ」
「おまじない?」
「地震って聞くと、胸がざわつくっていうか」
そのときギシギシと音がして、廊下をヒロトが歩いてリビングまでやって来た。
「あれ、寝かしつけたはずなのに」
椅子から立ち上がる妻を尻目に、真っ直ぐに私へ向かってきたヒロトを抱きしめる。
「どうしたヒロト、眠れないのか?」
虚ろな瞳のヒロトが私の首元に抱きついた瞬間に、私の背筋は凍りついた。
「…レロ」
私は目を疑った。
ヒロトの肩は濡れていて、両耳から垂れた液体がリビングの床に所々小さな水溜りを作っている。
そこで子どものころの記憶が一気に蘇ってくる。
私は左手にヒロトを抱えて、妻の手を取りマンションを飛び出す。
クルマに乗り込みエンジンをかける。
シートベルトをつけて、サイドブレーキに手をかけたとき、左手に違和感を覚えた。
サイドブレーキが濡れている。
ふと見ると助手席の妻の耳からも液体が滴っていて、車内のそこら中に染みていた。
ヒロトと妻はブツブツと同じ言葉を繰り返している。
「ハナレロ、ハナレロ…」
市街地を離れて山道にさしかかっても、いっこうに不穏な言葉はとどまることを知らない。
車の窓を開けると、田畑に囲まれた農道ではけたたましく蛙が鳴き声をあげている。
ハナレロ…
ハナレロ…
その響きもまた、早くその場所から逃れることを要求しているように聞こえた。
私は幼少期以来、こうして不思議な力に巻き込まれることがある。
それは決まって突然訪れ、危険を知らせてくれる。
高速に入って、どんどん車を追い越していく。
ヒロトと妻は相変わらず不気味な呪文を繰り返している。
私はこれからどこへ向かえば良いのだろうか。
どれだけ遠くへ離れれば助かるのか、分からないまま、ただただアクセルを踏み続けることしかできない。
暗い夜道はどこまでも単調で、まるで限りなんてないような気さえしてくるのであった。




