第1章-3 柊あんじぇらと江夏なつみ
さて、俺は遅刻はするが決して不真面目だというわけではない。
遅刻を常習している時点で嘘になりそうな気もするが、授業態度は真面目そのもので、成績だって真ん中くらいだ。
まあ、これで成績も悪かったらとっくに退学処分になっているだろう。実際、何度か職員会議にかけられて、停学になりそうになったことがあると担任が言っていた。本当かどうかは知らないが、教師という名の聖職者が嘘を吐くはずはないので、本当のことだろう。
授業が終了し、放課後になった。所属する部活である、やる気の無い卓球部の部室へと向かう。男子部員が五人で、女子部員が二人。至って普通な部活動である。先程話した春木すばるは、この卓球部の部長である。
ちなみに女子部員のうちの一人は、俺が以前好きだったてんびん座の女の子だったが、年上の男性と付き合っているらしいので諦めた。勝ち目の無い戦いだと思ったからだ。正直に告白すれば、その好きな女の子とお近づきになりたいから卓球部に入った俺である。動機が不純すぎる。あの頃の俺は思春期だったので仕方ない。
「さて、ランニングにでも行ってくるか」
制服から体育着への着替えを済ませて、誰に言うでもなく呟いた。
基本的にランニングというものは練習メニューに組み込まれていないのだが、自主的に行っている。他の皆は基本的にやる気というものが欠けているので走ったりしない。
だが俺がランニングする理由は、大好きなあの子を一目見るためである。とことん不純である。俺は、はやる気持ちを抑えきれず、ダッシュ。そして、いつもと同じ場所でジョギングへとペースダウンする。一階にある家庭科室の窓の向こうに、みずがめ座のあの娘が見えた。俺の今の好きな人。目が合った。手を振ってくれた。
やばぁい、可愛いっ。
手を振り返すと、微笑んでくれた。最高だ。
彼女の名前は、柊あんじぇら。
変な名前だが本名だ。
将来は秋川あんじぇらになる予定だ。未だに思春期な俺はそんなことを本気で考えてしまい、その後そんな自分に気付いて少し落ち込んだりするのだった。
柊あんじぇらは、同じクラスの女子で、最近少し話をするようになった。だから、ジョギング中の俺に手を振ってくれたわけだ。
一言で言うと、彼女は良い子だ。
品行方正優等生。手芸や調理を中心に活動する家庭科部の部長で、俺にとっては高嶺の花かもしれない。
体育館の周りを一周した。
もう一周しよう。
そしてもう一度手を振るんだ。
俺は、再びダッシュし、家庭科室の近くでスピードを落とした。
先程と同じように窓の中を眺めたが、柊の姿は見えなかった。
「秋川くん」
しかし、柊は目の前に居た。
「ぎょ!」
驚いて、そんな声が出た。
「おつかれさま」
「あ……ああ……」
俺は立ち止まり、荒い呼吸と、激しいドキドキを抑えようと努力する。
呼吸はおさまったが、ドキドキがおさまらない。
「何してるの?」
「何って……見ればわかるだろ。部活だよ。卓球部」
「ああ、卓球部……。私は家庭科部」
うん知ってる。
「……あのさ、秋川くん」
「何?」
「今日これからクッキー焼くんだけど、味見、してくれないかな」
どういうことだ。柊が俺にクッキーをくれる理由を考えろ。
俺に毒を盛ろうとしているのか、とか一瞬頭をよぎったことを恥じたい。
「部活があるけど……」
「じゃあ、後で体育館に持って行けばいいよね。約束だよ」
「え、ああ」
「また後でね!」
早口でそう言って、柊あんじぇらは腕を大きく振りながら走り去った。
可愛い。好きだ。可愛い。
しかし、俺はまだ味見するとか言っていなかったんだが……。だがそれが可愛い。
可愛い以外の言葉が思いつかないくらい可愛い。
と、その時、背後に嫌な気配を感じた俺は、勢いよく振り返った。
「…………」
腕組をした女子がいた。
「何サボってんの? 秋川」
それは、隣のクラスで卓球部の女子、江夏なつみだった。
「いや、部活の前にランニングをだな……」
「ふぅん」
眩しそうに目を細めながらそう言った江夏。
彼女こそが、俺が昔好きだった子。
つまり、てんびん座の女だ。
聡明でイケメンな大学院生と付き合っているという噂があり、そんな男に俺ごときが敵うはずがないという理由で、彼女への恋愛感情を無かったことにしたという経緯がある。要するに俺はへタレているのだ。
「江夏は、何してるんだ、ここ体育館裏だぞ? 上級生にでも呼び出されたか?」
「今日は違うわよ。秋川を探しに来たの」
「何で」
「もう部活始まってるのよ? 部長が呼んでる」
「春木が? 何で」
「何でって、だから、もう部活が始まってるからよ。サボってんじゃないわよ。遅刻よ遅刻」
「ああ、そっか」
「さっさと行くわよ」
腕を掴まれ、引っ張られる。
ふと家庭科室の中を見ると、柊がいて、俺を見ていて、さっきと同じような微笑で手を振っていた。
可愛い。
空いている手で手を振り返した。