第6章-3 ありがとう 【最終話】
大きな荷物を背負い、ぜえぜえと息を吐きながら、あたしは、ある公園の駐輪場に自転車を停めた。
光は、その場所で途切れていた。
太陽はとっくに沈んでいて、深夜だった。
少し歩くと、広場があって、ベンチがあった。
青白い外灯の薄暗い光の中に、人影を見つけた。
うずくまって呻いていた。
姿は似ても似つかない。
だけど確信があった。
この人が、秋川だ、と。
「秋川」
話しかける。
「…………」
返事が無い。でも、この人は間違いなく秋川だ。
「秋川ァ!」
夜中だけど、大声を出す。
「え……?」
秋川は、体を起こし、あたしを見た。
蹴ろうと思った。殴ろうと思った。
――壊れそうでできない。
痩せ細った体。抱きしめた。ちょっとくさい。
お風呂入っていない系のにおいがした。
「江夏……何で……」
「何で……ですって? 心配して、追いかけて来たんじゃない」
追いつくまでに、随分時間が掛かってしまったけど……。
「俺のことが、見えるのか?」
「当り前でしょ。バカ。あんな、時田まことなんて嘘吐き女に騙されて。バカ」
「……どうして、江夏がこの世界に居るんだ。こっち側に来ちゃいけないのに……」
「何言ってるのよ。最初から秋川が居る世界は一つでしょう? 勝手に世界創ってんじゃないわよ。あんたは神様じゃなくて、普通の人間でしょう? 少し遅刻が多くて、でも心は優しくて、卓球部のくせに卓球が下手な、あたしの好きな、大好きな、秋川あきひとでしょう?」
「……好き? でも、蹴られたりしたし……」
「好きよ。大好き。あたし、好きじゃない人を蹴ったりしないもん!」
「それに……江夏には、大学生の彼氏が……」
「大学生ってのは、あたしの家庭教師してた人でしょう? 勝手に勘違いしないでよ。あたしが好きなのは、ずっとずっと、秋川だけだったよ!」
「え……」
「あんじぇらから聞いたんじゃないの? あたしが秋川のこと好きだってこと」
あたしが忘れていた記憶。
高校二年の冬、あたしは、あんじぇらと、体育館裏で話をしたんだ。
あんじぇらが秋川のこと好きだというのは見ていてわかったから、あたしも彼女に自分の素直な気持ちを話した。
あたしは「フェアな勝負をしよう」と言った。
秋川がどちらを選んだとしても、お互いに恨むことないように、と。
その数日後に、柊あんじぇらが「なっちゃんが秋川くんのこと好きなこと、彼に話しちゃった。ごめん」と言って頭を下げた。
あたしの記憶が偽りでないなら、秋川は、あたしの気持ちを知っているはずなんだ。
「ああ……そういえば……そうだ」
やっぱり。秋川は、あたしの気持ちを知っていたらしい。
「…………」
しばらく沈黙したかと思ったら、急に秋川は目の色を変えて、
「え……江夏! あんじぇらのこと、憶えているのか!」
「当り前でしょう」
あんじぇらあんじぇらって、そればかり。
あたしのことは気にしてくれてもいなかったのかな。
悔しくて悲しかった。
だから、あたしは……。
「え、江夏、あんじぇらは――」
「あーだこーだうるさい!」
秋川の耳元で、またしても大声を出して秋川の言葉を遮った。
「あたしはてんびん座、あんたはいて座。あんたのしょぼい矢じゃ、あたしを射ち抜けるわけないでしょう? あたしは、あんた程度の矢じゃ壊れない! あたしの天秤は、ずっと傾きっぱなしなのよ。ちょうど秋川の分の重みを欲しがってるんだから、さっさと、乗ってよ!」
嫌だなんて言わせない。
言い方悪いけど、首にヒモをつけてでも連れて帰る。
あたしは、秋川が隣に居てくれなきゃ嫌なんだ。すぐ遅刻するような秋川の「嫌」よりも、大荷物を持って追いかけて来た情熱的な、このあたしの「嫌」の方が絶対に大きいんだ。
「俺……一人じゃ……ないんだ」
かすれた声で、秋川は言った。
あたしは、秋川から離れて、再び彼と目を合わせる。
「まずは、キレイになろうね」
子供に言うみたいに、そう言った。
彼はこくりと頷いた。
泣いていた。
「江夏。一つだけ教えて欲しい。あんじぇらは……今……どうしてる……?」
「彼女ね、海外に留学したのよ。ニューヨーク州のテキサスにね。だから、もう会うのは難しくなっちゃった」
あたしは俯いてそう言った。
「そう……か」
「そうよ」
――嘘を、吐いた。
簡単で、大きな嘘を。
秋川が、求めているのは、優しい嘘だと思った。
……ううん、違う。あたしが怖がって嘘を吐いたんだ。
あんじぇらは本当に消えたんだと思う。
嘘だ嘘だって言ってきたけれど、時田まことが、嘘を吐いているとは思えなかった。
だけど、そのことを秋川に伝えたら、秋川が崩れてしまうんじゃないかって、怖かったんだ。
「とにかく、帰ろうよ!」
「ああ……」
あたしは秋川の手を握り、自転車まで走る。
「運転は、秋川がしてね。あたしは、後ろに乗るから」
「わかった」
秋川が自転車に跨って、あたしは後ろに立ち乗りして、彼の肩に手を置く。
自転車が、走り出した。
「江夏」
「……何?」
「…………ありがとう」
どういたしまして、とは言えなかった。だって、あたしには、秋川のことを忘却してしまっていた時間が、確かにあったのだから。
「…………」
でも、何も言わないかわりに、秋川を絶対に幸せにしてあげようと思った。
あたしの思い描く未来図には、秋川が居るんだ。
「秋川、運命って、信じる?」
「……少しだけ」
二人乗り、未来行きの自転車は、暗闇を進む。
呪いなんて信じない。
もしあったとしても、あたしが打ち破ってやる。
未来に「絶対」は無いのだから。
「うーん……」
「どうしたの? 秋川」
「サドル低いな。この自転車」
「そりゃね。あたしのだからね」
でも、あたしたちがこれから歩む人生のハードルは、きっと高いな。
――目を瞑ると、春の匂いがした。
あたしたちの、長いであろう人生。
その序章が、ようやく終わり、今、再スタートする。
閉じていた目蓋を開く。
「秋川、帰り道、わかる?」
「さあ……忘れてしまったな」
――じゃあ、あたしが、導くわ!
視界には、雪みたいなものが舞っていた。
【遅刻者根絶計画 おわり】