第5章-2 丘の上で
「……山だね」
「ああ、山だ」
制服のまま、鞄も持たずに移動して、辿り着いたのは、ピラミッド型の丘だった。
「さっき言っていた『やまがっこう』ってやっぱり、山に行くってこと?」
「えっと、サボろうっていう意味で言ったんだけど、山登りも良いわね」
あんじぇらが山と言ったのは、高さ三十メートルくらいの、山と言うには小さ過ぎるものだった。丘の頂上からは、街を見渡すことができるという、知る人ぞ知るデートスポットだったりする。
「……登ろうか」
「うん」
土を固めて作られた階段を上る。
頂上にはすぐに着いた。
「キレイね」
「ああ」
冬の静かな街が、視界に広がっていた。
頂上に一本の樹があって、既に葉が落ちていた。他には二人が掛けられるほどのベンチが東西南北の四方に中央向きで配置されていた。俺とあんじぇらは、そのうちの一つに座った。
「あの女は、何て言ってた?」
もちろんあの女というのは時田まことのことだ。
「……彼女、おかしなことを言ったのよ」
「何て?」
「私が、消えるって」
「え?」
「今日、太陽が沈んだら、私はもう、消えるんだって」
「消える? 何で?」
「…………」
あんじぇらは黙って首を振った。わからない、という意味だろうか。
「どうして、私が消えるのかなぁ。わけわかんないよ」
「…………」
太陽の位置を確認しようと上を見上げると、青空を背景に、樹木の枝が稲妻のようにあるだけだった。太陽は既に西の遠いビル群へ降下を始めていた。
どうすればいいのか、わからなかった。何の言葉も出てこなかった。頭の悪い自分を恥じたい。
もしかしたら、俺が遅刻したせいで、あんじぇらまで消えるのか?
だって、あんじぇらは、時田まことに呼び出された。
ということは、やっぱり俺の遅刻と関係があるんじゃないのか?
そうだとしたら……そうだとしたら……俺は、どうするべきだ?
俺がどんな慰めの言葉をかけても、何の効果も無いんじゃないか?
俺がどんな言葉を発しても、意味も重みも無いんじゃないか?
俺は遅刻を重ねてきた。遅刻が嘘なのならば、俺はとんでもない嘘吐きだ。
嘘吐きの言葉に価値なんてあるはずがない。
求められているはずがない。
だから俺は、何の言葉を発することもできなかった。
「……………………」
「……何か、言ってよ」
「だ、大丈夫だよ。大丈夫」
何が大丈夫なのか、言っている俺自身さっぱりわからなかった。
「あんじぇらは、絶対に、消えない。考えてもみろよ、人が消えるなんてことがあるわけないだろう?」
「そう……だよね」
あんじぇらはそう言って笑ったが、不安そうな笑顔だった。
もう、太陽は沈もうとしていた。
「…………」
「…………」
太陽が、遠くビルの間に沈んだ。
「…………」
「…………」
「何も、起きないな」
「うん」
「やっぱり、時田まことの嘘だったんだよ。人が消えるなんて、絶対にあり得ないだろ。常識的に考えて」
「…………」
返事が無かった。
「あれ?」
振り返ると、あんじぇらの姿が無かった。
「あんじぇら?」
つい数秒前まで、隣にいて、気配もあったのに。
「え? 冗談だろ?」
あんじぇらが、消えた?
闇に溶けるように?
帰ったんじゃないのか?
「あんじぇら!」
名前を呼んだ。
「……」
返事がなかった。
地面にあんじぇらの着ていた制服が落ちていた。
暖かかった。
ついさっきまであんじぇらが着ていたのだから当然だ。
服を脱いであんじぇらは何処に行ったんだろうか。
いや、服を脱いだんじゃないだろう。
そんなことを、あんじぇらがするはずはない。
しかし、ならば、本当に……消えた?
「そんな……バカな」
ありえない、と思った。
「え? あれ?」
地に落ちたあんじぇらの制服を拾い上げる。
コトリ。
何かが落ちた。
……ライターだった。
あんじぇらが、父親からもらったもの。
街から離れた小高い丘、冬の静かな夜、柊あんじぇらは、消滅した。
「あんじぇらー!」
冬の静寂を切り裂こうと叫んだ。
あんじぇらが残したライターと制服を抱きしめて、泣いた。
涙を流しても、あんじぇらは戻らなかった。
どうして?
――やっぱり、俺のせい……なのかな…………。
視界には、今年の初雪。
痛みを感じる程に冷たくなった手に、自分の息を吹きかけた。