第4章-3 時田まことをさがして
放課後になると、何もすることのない俺は掃除当番が延々と掃除しているのを教室の隅で眺めながら時間が過ぎていくのを待った。
目的もなくただ待った。
先週の今頃は春木や江夏と卓球をしていた記憶があるが、今となっては、この学校に卓球台と卓球部が存在せず、春木との関係も崩壊してしまったので、何もすることがない。
卓球部を潰したのもこの俺で、春木を怒らせたのも俺だ。
なのに今日も遅刻してしまって反省の色すら見せられなかった。
どうして、目覚まし時計の故障に気付けなかったのだろう。
どうして、車と接触なんてしてしまったのだろう。
理由を考えても、遅刻してしまったという「罪」は消せない。
《二年一組、秋川あきひと。進路指導室に来なさい》
突然、校内放送があった。
その声に聞き覚えがあった。
「時田まこと」
俺はぼそりと呟いて、進路指導室に向かって歩き出す。
ついに、これからの人生が不幸になることを宣告される時が来てしまったらしい。
「秋川あきひとさん。あなたにとっての幸せとは、何ですか?」
進路指導室に足を踏み入れた俺が最初に聞いたのは、そんな言葉だった。
「…………」
答えられなかった。答えたくなかった。
心の中では、あんじぇらが昨日見せた笑顔が思い描かれていて、それがとても悲しかった。
「無言……ね。あなたが幸せを感じることは、無いの?」
「あったって……なくなっちまうんだろう?」
「ええ、あなたはもう、幸せにはなれません。それは確定してしまいました」
「そうか」
この世界に、運命というものが存在するのだろうか。
何か神のようなものが人の一生を操ることがあるのだろうか。
そんなことがあって良いのだろうか。
俺は、中学の時に「そんな運命に負けたりしない」なんて思っていた。
中学生らしく、そんなことを……。
「今のあなたが思い描く幸せな未来は、絶対に訪れないわ」
「……ぎゃふん」
これが、ギャフンの正しい使い方だろうか。運命に敗北を宣言した瞬間だった。
ん? 運命?
何考えてるんだろうね、俺は。
全部、全部、俺の失策じゃないか。
「うはは」
よくわからない笑いがこぼれた。
「話はそれだけです。もう帰って結構ですよ」
「はい」
俺は外に出て、ぴったりと扉を閉じた。
「――あっ」
進路指導室を出た時、目の前に居たのは江夏なつみだった。
「え、江夏?」
「何だって? 呼び出し……」
気にしてくれているらしい。
「いや、別に……」
言葉を濁した。
「部長……や、もう部長じゃないな。えっと、春木くんはともかく……あたしは、気にしてないよ。大丈夫だから。秋川のこと、責めたりしないから」
むしろ責められたい。
「そうか」
「まったく、春木くんも心が狭いわよね。顧問の佐藤先生が退職したから卓球部が無くなっただけの話であって、全然秋川のせいじゃないのにね」
江夏は、裏側の事情の半分も知らないらしかった。
そんな江夏の慰めの言葉が、辛かった。
「…………」
それでも、江夏にまで嫌われてしまったら俺はどうしたら良いのかわからなくて、何も言えずに、代わりの言葉を探した。
「…………」
見つからなかった。
「別にいきなり退学とかってわけじゃないんでしょ? だったら大丈夫だよ。人生も長いし、高校生活だって、長いんだからさ」
人生が長い?
幸せになれない人生が長い?
そんなの、苦痛以外の何でもないじゃないか。
「ははは」
俺は乾いた失笑をしてしまった。
「あたしは、信じているから。何があっても、秋川のこと見捨てたりしないから」
「……なんでだよ」
「え?」
「…………」
「…………」
「何で俺みたいな人間信じるんだよ! 信じるなよ!」
叫んだ。
爆発した。
「え? え?」
見捨てられたかった。
存在を否定されたかった。
最低の評価を下されたかった。
江夏は俺を庇うべきじゃないんだ。
だって俺は本当の本当に最低なのだから。
「俺は、最低の男なんだよ……」
「どうしたの? 秋川……もしかして、停学とか……」
俺はぶんぶんと首を振る。ブレーキが効かない。
「遅刻は嘘なんだよ! 嘘吐きは最低なんだよ! 俺は最低なんだよ! 俺みたいな人間を信じたら、お前まで巻き込んでしまうかも知れないだろ! 一人にしてくれよ! どうせ不幸になるなら! 俺一人で不幸になるんだよ!」
思ったことを吐き出していた。
「なにそれ」
江夏は首を傾げていた。
「どうして、秋川が不幸になるのよ。たかが遅刻くらいで」
「そう言われたんだよ! 絶対に不幸になるって!」
「誰によ? そんなの暴言じゃん。何にも言い返さなかったの? 誰に言われたの? あたしそんなこと言う人、間違ってると思う。文句言ってきてやるわ。生徒指導室に居るのよね?」
江夏なつみはそう言うと、閉じられていた生徒指導室の扉を勢い良く開けた。
俺が外に出てから、生徒指導室の扉は開いていないはずで、そこには当然、時田まことが居るはずだったのだが……。
「はれ?」
江夏が激しい口調から一転、マヌケな声を出した。
「どうした?」
「誰も……いないよ?」
そんな、バカな。
「時田まことっていう、小さな女がいるはずなのに……」
「溶きタマゴ?」
幻覚?
いや、そんなはずはない。あんじぇらも時田まことちゃんのことを知っていたし、俺が放送で呼び出されたのも事実だ。そうでなかったなら江夏がここに居る理由が無い。
「誰もいないわね」
出入り口は、江夏が開けた扉のみで、その扉はずっと俺の視界にあった。いくらまことちゃんがとても小さな体だからと言っても、扉を開けずに外に出るなんて不可能なはずだ。何だこれは。ミステリーだ。解けない密室トリックだ。
「おかしい」
「うん。溶きタマゴなんて、どこにもいないわよ? それっぽいものもないし……」
茶色いテーブル、黒いソファに白い壁。灰色絨毯。
その他には、落ち着いた色調の小さな絵画くらいしか無かった。
「…………」
狐や狸に化かされるというのは、こういう感覚なのだろうか。
しかし、俺には時田まことは絶対に存在したという確信があった。
「もしかして、この青っぽい絵のこと?」
「違う、違う。ちゃんと人間で、小学生みたいな背格好の女の子で、江夏よりも小さくて……」
「だ、大丈夫。あたしは、秋川のこと、信じるよ。タマゴちゃんだっけ?」
「まことちゃん……だよ」
「まことちゃんだね。うん。わかった。そのまことちゃんを探して、叱りつけてやるんだから」
「…………」
「秋川、行こう?」
江夏はそう言って、俺の腕を掴んで歩き出した。
「どこに行くんだ?」
「職員室」
「え」
「何か文句ある?」
「だ、だって、俺、遅刻魔の問題児だぞ? 職員室には行きにくいって」
嘘だった。今更職員室に行くのなんて気にならないほど、俺は遅刻のエキスパートだ。問題なのは、俺が担任教師を解雇させるほどに遅刻したということだ。担任の佐藤先生は同僚の先生方からの評判も良かったと聞く。そんな先生を辞めさせてしまって、どんな顔して職員室に顔を出せば良いのかわからないのだ。
「今更、何言ってるのよ。慣れてるでしょ」
嘘が見破られていた。
あっと言う間に職員室の前に辿り着き、江夏の右手が扉をノックした。
「失礼しまーす」
江夏は、俺の手を掴んだまま職員室内に入ると、部屋の中央にまで進んだ。
職員室には、先生が一人いるだけだった。
「鈴木先生」
硬そうな椅子に座っていたのは、俺のクラスの担任教師の鈴木だった。
「お、どうした、江夏と秋川。何か授業の質問か?」
「いいえ、違います。ある生徒を探しているんです」
「ん? どういうことだ?」
「時田まこと、という生徒のこと、何か知りませんか?」
「ああ、時田? 三年の特待生だ」
「特待生?」
「ああ、成績優秀スポーツ万能の完璧少女。あえて欠点を上げるとするなら、時々言葉遣いがおかしいことくらいか……」
「どこのクラスですか?」
「……江夏、何でそんなこと訊くんだ?」
「興味があるからです」
「とは言ってもな……俺もそれほどあの子のことを知っているわけでもないし……」
「クラスさえわかれば良いんです!」
「ええと、クラスは……三年二組だったと思うが」
「三年二組ですね。わかりました! ありがとうございました! 失礼します!」
江夏は勢いよく頭を垂れる。
「あ、ああ」
鈴木先生はそう言った。
俺は結局職員室に入ってから一言も声を発することなく、外に出た。
で、
「え、江夏」
「何よ」
「何処に行こうとしているんだ?」
俺の腕を引っ張りながら廊下を早歩きする江夏に訊ねると、
「三年二組よ。時田まことって人のクラス」
「上級生じゃないか」
「そんなこと気にしてる場合? 秋川は、侮辱されたんだよ? 絶対に不幸になるなんて言われて良い気分はしなかったでしょう? 文句言うだけの理由があるでしょう? そして時田って人に文句言うためには、まずその人を探さないといけないでしょう? 違う?」
「違わないが……」
「じゃあ行くよ!」
「しかし……」
俺が煮え切らないでいると、前を歩いていた江夏は振り返り……、
ドスン。
俺の脇腹に蹴りを入れた。
「おふ!」
やられ声。
「いってぇ……」
「まったく、しっかりしなさい! このダメ人間!」
痛がる俺の腕を引っ張り、ずんずんと進む江夏は、あっという間に三年二組の教室の前に立った。
扉を開けて、中を窺う江夏。
「あっ」
何かを見つけた声を出した後、教室内に俺を引っ張りながら進んだ。
「あら、なつみじゃない」
女の人の声がした。
「嶋先輩!」
「どうしたの? こんな所で……」
「実は、人を探してて、このクラスに居るって聞いて来たんです」
「ふーん……。そっちの彼は?」
「あたしの奴隷です」
おい、何だそれは。
「そうなんだ」
そしてこの人も反応薄いなオイ!
「……それで、誰を探しているの?」
「時田まことっていう人なんだけど」
「時田……まこと……?」
嶋先輩という人の表情は一変した。
それまでの柔らかい表情から一気に険しい表情に変化し、教室内に居る他の生徒たちも急に静かになって俯いた。
「…………」
「…………」
静寂。
「……あの、それで、時田まことは――」
あまりの重苦しい雰囲気に耐え切れず、俺が口を開くと、
「知らないわ」
嶋先輩は遮るように、それ以上の詮索を拒むように、厳しい口調で言った。
張りつめた空気。
「そ、そうですか。知らないならそれでいいんです。失礼します」
江夏は早口に言うと、また俺の腕を引っ張って三年二組の教室を後にした。