第4章-1 まだだ……諦めるな……
絶対に遅刻してはいけない。
それだけを意識して眠った。
目を閉じた俺の頭には、公園でのあんじぇらの言葉の数々があんじぇらの声で何度も繰り返された。その夜は、良い夢を見た。柊あんじぇらとイチャイチャする夢だった。
すっきりとした目覚めの直後、いつものように時計を確認する。時計の針は、五時半。普段起きる時間よりも三十分前を指していた。
「よし」
目覚まし時計の音なしで目覚めるのは久しぶりのことに思えた。今の俺には嬉しいことだ。なぜなら普段より早く起きたのなら、遅刻する可能性も減るのだ。なんとも清々しい月曜の朝だろうか。
「絶対に、遅刻しないぜ」
呟き、寝巻き姿のままリビングでテレビの電源を入れた。
《続いては、今日の占いでーす》
テレビからはそんな声。実は平日ニュースの占いというのは、朝早く起きれば何回も見ることができるのだ。六時になる直前、七時になる直前、八時になる直前の三回放送される。普段学校へ行く時の合図にしているのが八時直前の占いだ。起きた時間が五時半だったので、これは六時直前の占いだろう。
《今日の一位は、おめでとうございまーす。てんびん座のアナタです。自分の信じた道を進むのが吉。今は認められずに落ち込んでも、後になって必ずアナタの正義が認められる時が来ます》
てんびん座は、江夏の星座だ。
《十位、いて座。あなたの矢では貫けないものがあることを思い知らされそう。冷静になって周りを見て》
俺は十位か。あんまり幸運じゃないらしい。
《ごめんなさい、最下位は、みずがめ座のあなたです。大事な人の裏切りに遭遇しそう。フラフラしないでどっしりと構えていれば突破口があるかも? ラッキーアイテムのアップルティで気分を落ち着けて》
なんということだ。あんじぇらのみずがめ座が最下位か。ラッキーアイテムのアップルティでもプレゼントしようかなと考えたが、自分の家にはそれが無いことに気付いて断念した。何で朝の占いというものは、時々マイナーな商品をラッキーアイテムとして推してくるのだろうか。不思議だ。
《それでは、行ってらっしゃい》
美人女子アナの声と共に番組は終了した。時刻は……。
「げ!」
目を疑った!
《ポ、ポ、ポ、ポーン》
八時を告げる時報だった。
今の俺が置かれている状況は、限りないピンチというやつだ。
ゲームだったら緊迫感のある音楽が流れて右下あたりに残り時間とかがカウントダウンされている画面だ。
時間が高速で流れてしまったのだろうか。あるいは、目覚まし時計が壊れたか電池切れになっていたのだろうか。とにかく、
「ヤバイ」
既に家を出なければならない時間なのに服も着替えず朝食も済んでない!
俺は焦るあまり、ただ着替えるだけなのに普段以上にもたもたした。
そして、外に出て、これもまたもたついてなんとか施錠。
こんな自分を恥じたい。
家の鍵をポケットに入れたとき、ポケットの中に別の鍵が触れた。
自転車の鍵だった。
――閃いた。
自転車なら……間に合うじゃないか。
俺は心の中で呟き、門の中、家の敷地内に置かれていたママチャリの鍵を解いた。跨った。
ペダルを踏んで、進み出す。
何故俺がこんなに急いでいるのか、一瞬わからなくなった。
しかし、すぐに思い出す。
あんじぇらが父親の遅刻に憤っていたこと。それから俺が時田まことから最後のチャンスを与えられていて、あと一回でも遅刻したら「幸福になれない呪い」を掛けられてしまうこと。何よりも、俺自身が、変わるために、遅刻をしないことから始めようと思ったんだ。その気付きが、人生を良い方向に変える瞬間だと思ったんだ。昨日の事だ。なのに、昨日の今日でこんな状況か。自分の意思の豆腐ぶりには呆れさせられる。
ふと再びあんじぇらのことを思い出した。
自転車に乗って登校するというのは、校則違反だからだ。「生徒手帳見たの? 自転車で学校来ちゃいけないって書いてなかった?」とか言われそうだなと考えて、そんなことを考えている暇があったら、もっと必死にペダルを漕げ。その通りだな、悪かった。そんな風に自問自答して、力いっぱいペダルを蹴った。
時速六十キロは出す気でいた。
今までこんなに一生懸命に間に合わせようとしたことがあっただろうか。
この「遅刻をしない」という心意気だけで十分だと自分を納得させようとする悪魔のような心の動きが生まれていた。
――違う、絶対に間に合わせるんだ!
心の中で否定を叫んで、更にスピードを上げた。
後輪を引きずりながら、曲がり角を直角に近い軌道で曲がる。すぐに加速して細道を猛進する。少しでも動かす足を緩めたら、遅刻が確定するような気がした。だから、ペダルが可哀想になるくらいに思いっきり蹴る。踏む。
やばい、やばい。これは、やばい。
近道をしよう。
そう思って、俺は更に細い道へと入っていった。
もちろんスピードは緩めない。
冬だというのに汗だくで、体が熱い。
もう少しだ。もう目的地は見えている。
あとは二車線道路との交差点を通り過ぎて、緩やかな上り坂を駆け上がれば学校だ。
自転車はどうしよう。どこに停めよう――。
キキィ!
突然車のブレーキ音。
視界には、ねずみ色の乗用車と、運転席の若い男の驚いた顔。
時間が、ゆっくり流れているように感じた。
やば――。
衝撃が襲った。
何が起きたのか、わからなかった。
数秒して、自分が事故を起こしたのだと理解した。痛みはなかった。
冬の冷たく張りつめた空気と冷たい地面が、妙に恐ろしかった。
何が起きたのか、考えてみることにした。
……まず、自転車に乗り猛スピードで飛び出した俺は、左側からやってくる車を確認した。しかし、ブレーキしても止まれないと思ったのか、そのまま車にぶつかった。どの部分でぶつかっただろうか。左足の感覚が、麻痺しているから、左足だろうか。
しかし俺の自転車を見ると、自転車の前に付いている籠がぐにゃりとなっていた。
自動車と接触した時、自転車の後輪が滑り、黒い地面に、更に黒いスリップ痕が付いていた。自転車の車輪のゴムがアスファルトに弧を描いたのだろう。
停まった車から、男が出てきた。車は尻のランプをチカチカと点滅させていて、それも恐ろしかった。
「大丈夫?」
優しそうな男だった。
俺は立ち上がろうとする。
しかしふらついて、男に支えられる形になった。
限りなく情けない。
男の体には、何だか煙草のにおいが染み付いていた。
足に痛みは無かったが感覚が無く、満足に歩けないので、その場に再び座り込んでしまった。
「折れてない?」
触ってみた。
「折れてはいないみたいです……すみません」
謝った。
軽率にも猛スピードで車道に飛び出してしまったので、この事故は俺の責任だと思った。
そしてすぐに、遅刻しそうなことを思い出して立ち上がった。
「行かなくちゃ」
俺はそう言って、学校に行こうとするが、
「あ、待って」
男が俺を引き止めた。
「すみません、急いでるんです」
「しかし……」
俺は、学校へ続く緩やかな坂道を登り出す。
急がなくちゃ。こんな所でタイムロスしている場合じゃない。心の中で唱えた言葉。
籠のひしゃげた自転車を放置して、男も無視して歩き出す。
考えている余裕はなかった。
頭の中は、遅刻をしないという誓いだけ。
少しずつ感覚が戻り始めた左足を引きずりながら、光を目指してひたすら昇り続ける虫けらのように進む。
「あ、オイ、君ィ」
俺を呼び止めようとする男の声がしたかと思ったら、次の瞬間、腕を掴まれた。
「何ですか。放して下さい。遅刻が、遅刻に……」
遅刻さえしなければいいんだ。すぐに早退してしまっても良い。時間内に教室へ。出席簿に遅刻マークが刻まれた瞬間に、俺は一生幸せになれない運命に縛られるんだ。それが嫌なんだ。だから、俺は、男の腕を振り払おうとした。
「……もし、怪我していて病院に行く必要があったり、自転車を修理する必要があれば、こちらに連絡を下さい」
男は名刺を無理矢理に手渡した。
立ち止まって読み上げてみる。
「株式会社ホニャララ薬品……楓……これ、何て読むんですか?」
俺は『楓 紅蓮』という文字が読めなかった。名刺なので、車を運転していたこの男の名前であるのは確実だ。少し時間があれば何と読むのか正解を搾り出すこともできるだろうが、今はその時間が惜しい。
「ぐれん。かえでぐれんと読む」
楓紅蓮という男はそう言うと、名刺をもう一枚取り出して差し出した。
「?」
俺は首を傾げた。
「連絡先をここに書いてくれないか。できれば、お父さんかお母さんに繋がる電話番号を――」
俺は男が言い終わる前に、自宅の電話番号を書き込み、手渡した。
「それじゃあ、俺は、これで」
言い残して駆け出す。もう目的地である学校は見えているんだ。
残り時間は、あと何分だろうか。
事故によって大幅に時間を消費してしまった。
周囲に登校する生徒が見えないことから考えるに、のんびりとしてはいられないだろう。
何も無い地面につまづいて、俺は前のめりに転倒してしまった。
手の平に擦り傷ができた。急いで立ち上がり、坂道を登る。
いつもは緩やかに感じる上り坂が、急勾配に感じられた。
左足を引きずって走りながら、門を抜けて、高校の敷地内。
まだチャイムは鳴っていないが、門は既に一人分が通れるほどを開けるのみ、つまり、ほとんど閉まっていた。
――もう少しなんだ、まだ鳴るなよ、チャイム。
しかし、校庭に入って、五歩ほど走った時、
キンコンカンコン。チャイムが鳴った。
――まだだ。諦めるな。このチャイムは、四回鳴るんだ。まだチャイムは鳴り終わっていない。
キンコンカンコン。
――二回目。あと二回だ。まだだ。人間追い詰められれば何でもできる。
キンコンカンコン。
――空を飛んで行きたい。そんなことを考えている暇があったら走れ。走れない。
キンコンカンコーン。
「…………」
チャイムが鳴り終えて、静寂が訪れた。
俺は……校庭の真ん中で、立ち止まってしまった。
今度こそ本当に、人生終了のお知らせ。
「まだだ……諦めるな……」
呟いて、もう一度歩き出す。
足は痛くなかったが、どこにもぶつけていないはずの胸が、ひどく痛んだ。