第2章-5 電話
その夜、俺は自宅の黒い電話の前に立った。
「落ち着け、俺」
深呼吸して、受話器を耳に当てる。メモに書かれている電話番号を押すと、受話器からコール音が流れ出す。
通話。
《もしもし》
女の人の声がした。聞き覚えのある声。たぶん、あんじぇらの声だ。
「ごめん!」
《はい?》
「ごめん! 昨日電話するって言ってたのに!」
《えっと……もしかして、あんじぇらのお友達かな?》
「え?」
《私、あんじぇらの母です》
「あ……」
恥ずかしい。
「す、すみません。俺、秋川といいます。あんじぇらさんは……」
《居るわよ。ちょっと待って》
「…………」
コトン、という受話器を置いたような音がして、小さく声が聴こえてきた。あんじぇらと、母親との会話だ。聴くつもりはなかったが、聴こえてきてしまった。
《秋川くんって男の子から電話よ》
《え? 何で……》
《いきなり「ごめん」とか言われたけど……何かされたの?》
《う、ううん。何も。でも……居ないって言ってよ》
《ケンカでもしたの?》
《うるさいなぁ。放っておいてよ》
《もう、どうしたのよ、昨日から機嫌悪いわね》
《お母さんには関係ないよ》
《そう。でも、もう居るって言っちゃったから、出ないと……》
《何で勝手に居るなんて言うのよ!》
《どうして怒るの? 最近のあんじぇらちゃん、少し変よ?》
《……ごめん》
「…………」
そして、ガタタと受話器を持ち上げる音がして、
《もしもし》
怒ったような、あんじぇらの声がした。
「あ、あんじぇら?」
《どちら様? 家間違えてるんじゃないの?》
「ごめん」
《約束を破る人なんて嫌い》
「もう、絶対にあんじぇらとの約束を破ったりしない。他の誰との約束を破ってでも、あんじぇらとの約束だけは、守ると誓うから」
《…………本当?》
「本当だ。誓うよ」
《……そう。じゃあ、許してあげてもいいけど》
「本当か?」
《うん》
「よかったぁ」
心底安堵する俺。優しいあんじぇらに感動した。
「江夏に、何か変なこと言われなかったか?」
《江夏? んー……ああ、あの子ね。あの背の小さい女の子》
「ああ」
《一方的に色々言われただけだけど……》
「何て?」
《なんか、秋川と付き合ってるんでしょ、とか、あたしにはお見通しなんだからねっ、とか》
いかにも江夏が言いそうな台詞だな。
「それで、何て言ったんだ? あんじぇらは」
《別に、何も。黙ってたら、帰っちゃった》
「それはまた……江夏らしいな……」
《そうなの? おかしな子だなと思ったけど……》
「ああ、江夏はおかしいんだ」
それも長所だと思うけどな。
《でも……本当に良い子……》
「ああ」
その後も柊あんじぇらとの長電話が続いた。ほとんどが他愛の無い話だったが、彼女と話していると全てが楽しかった。
《あんじぇらちゃん。もう夜中よ。そろそろ電話を……》
受話器の向こうから、あんじぇらの母親の声が聴こえた。
《あ、うん。ごめん……秋川くん、もう切らなきゃ。明日、学校でね》
時計を見ると、午前二時になろうとしていた。楽しい時間というものはあっという間に過ぎていってしまう。不思議な現象である。
「ああ、また明日な」
《……もう、約束破らないって、約束して》
「ああ、約束する」
《うん……じゃあ、切るね》
「おう。おやすみ」
《…………》
「…………」
《…………》
俺は受話器を置いた。
その後自分の部屋のベッドの中、布団に包まったが興奮してなかなか眠れなかったのは言うまでもないだろう。