魔王ヴェルデは、二度目の春に目を細める
こちらも多少の設定ミスはお目こぼしください。
※本作には一部、残酷なシーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。
序章:継承の血、あるいは呪いの産声
空は、あの日からずっと煤けて見えた。
勇者と呼ばれた男、レオンが先代魔王の心臓を貫いた瞬間、世界は歓喜に沸いたはずだった。しかし、勇者の視界を埋め尽くしたのは、黄金の栄光ではなく、泥濘のような漆黒の魔力だった。
死にゆく先代魔王が浮かべた、あの嘲弄に満ちた笑みを、レオンは生涯忘れることはないだろう。
『おめでとう、勇者よ。次はお前が、この檻の番人だ』
先代の胸から噴き出したドス黒い瘴気が、レオンの指先から血管を伝い、魂の芯までを焼き尽くしていった。断罪の剣は砕け散り、彼の頭上には、忌まわしき二本の角が、肉を突き破って芽吹いた。
それが、「魔王ヴェルグ」の誕生だった。
それから、どれほどの月日が流れたのか、もはや数えることも止めた。
魔王とは、世界の魔力循環を司るためのシステムに過ぎない。溢れすぎる魔力を一箇所に留め、調整し、澱みを防ぐための生贄。
レオンは、魔族の領域である『深緑の森』の奥深く、朽ちかけた城に引きこもった。
彼は戦いもやめた。かつての仲間に剣を向けることも、人間を虐殺することもしなかった。
ただ、世界から隔絶されたかのようなこの森で、死んだように生きることを選んだのだ。
彼が何もしないことで、魔族の軍勢は統率を失い、人間との戦争は膠着状態に陥った。皮肉なことに、元勇者が魔王の座に就いたことで、世界には奇妙で空虚な「平和」がもたらされていたのである。
だが、その停滞は、ある春の日の朝、一人の少女によって破られることになる。
第一章:名もなき芽吹き
春の朝というには、その空気はあまりに湿り気を帯び、死の匂いが混じっていた。
城の境界、枯れ葉が積もった地面に、その「塊」は転がっていた。
「……まだ、生きておるのか。しぶとい生命力だ」
黒い外套をなびかせ、レオンはその塊を見下ろした。
それは、一人の少女だった。
ボロ布のような服を纏い、泥にまみれた手足は枯れ枝のように細い。ひどい栄養失調で、頬はこけ、開かれた瞳には焦点がなかった。
口減らし。
人間たちの社会では珍しくもない悲劇。余分な食い扶持を減らすため、親が子を「魔の森」へと捨てる。森の獣に食わせることで、自分たちの罪を自然の摂理へとすり替えるのだ。
「……殺しますか。王よ」
背後から、低く、硬質な声がした。
山のように巨大な灰色の狼で側近のハティである。巨躯を苛立たしげに震わせ、少女を汚物でも見るような目で見下ろしていた。ハティにとって人間とは、排除すべき外敵か、あるいは取るに足らない羽虫でしかなかった。
「……いや。勝手に死なれるのは、庭が汚れるようで気に入らん。連れて行け」
レオンの言葉は、慈悲というよりは、ただの「気まぐれ」だった。
ハティは不服そうに鼻を鳴らしたが、魔王の命は絶対だ。彼は少女の襟首を咥えると、乱暴に城へと運んでいった。
城の奥、冷たい石造りの部屋に寝かされた少女は、三日三晩、生死の境を彷徨った。
その間、彼女の面倒を見たのは、レオンが適当に呼び出した高位魔族だった。
「はいはーい! 水を持ってきましたよ! ほら、王様も見てないで手伝ってください。この子、本当に空っぽですよ。魂の器が、からんからんです」
場違いなほど明るい声の主は、半透明の揺らめく体を持つ、実体の定まらない魔族だった。彼女はまだ名を持たなかった。魔族にとって、名は強者が弱者を支配するための刻印であり、平時においてそれは不要なものだったからだ。
「……名無し、騒ぐな。お前が騒ぐと、空気が震えて耳障りだ」
レオンが不機嫌そうに、寝台の横で腕を組む。
その時だった。
少女の指先が、ぴくりと動いた。
焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりと天井をなぞり、最後に傍らに立つレオンを捉えた。
少女の唇が、かすかに震える。
「……ここは……どこ?」
「魔王の城だ。お前を捨てた親の手も届かない、地獄の入り口だ」
レオンの突き放すような言葉に、少女は怯えることさえしなかった。ただ、じっと、レオンの頭上にそびえる黒い角を見つめている。
「……おじさん、だれ?」
「おじ……」
レオンは絶句した。かつて英雄と呼ばれ、今は魔王として恐れられる自分が、この幼い子供にとっては単なる「おじさん」に見えるのか。
背後で、名無しの魔族が堪えきれずに「ぷふっ」と吹き出した。
「お名前、ないの? おじさん」
「……レオンだ。お前の名は?」
「……ない。捨てられたから。もう、いらないって言われたから」
少女の声には、悲しみさえなかった。それは、絶望が日常になってしまった者の、乾いた響きだった。
レオンは、少女の細い首筋に手を伸ばした。殺すのは容易い。だが、彼は指先で少女の頬に触れただけだった。その肌は驚くほど冷たく、けれど微かに、生きようとする拍動を伝えてきた。
「ならば、お前は今日から『フォレ』だ。この森で拾われた、俺の拾い物だ」
「フォレ……。わたしの、なまえ……」
少女――フォレは、その名を反芻するように呟いた。
その瞬間、彼女の空っぽだった瞳に、小さな、本当に小さな火が灯ったのを、レオンは見逃さなかった。
「あ! そうだ、ついでに私の名前も決めてくださいよ、フォレちゃん!」
名無しの魔族が、待ってましたとばかりに顔を出す。
「このおじさんに頼むと、『森』とか、そんな適当な名前になっちゃいますから。私にはもっと、こう、可愛い名前を……」
フォレは、揺らめく魔族をじっと見つめた。
彼女は、魔王の城に満ちる恐怖や瘴気を知らない。ただ、目の前の存在が、自分を看病してくれた温かな何かであることだけを理解していた。
「……ぷるぷるしてる」
「えっ?」
「ぷる子。……だめ?」
一瞬の静寂。奥の廊下でハティの吹きだす声が響き、レオンは片手で顔を覆った。
「……ぷ、ぷる子。……ぷる子ですか……。あの、私、これでも魔族の序列ではかなり上位の、形なき暗殺者として……」
「ぷる子。かわいいよ」
フォレが、初めて小さな、本当に小さな微笑みを浮かべた。
その笑顔に、ぷる子はそれ以上何も言えなくなった。彼女の半透明の体が、照れ隠しか、あるいは喜びか、桜色に微かに色づく。
「……ぷる子、かわいいらしいじゃないか。くっくっ」
レオンはこみ上げる笑いが抑えきれず、そそくさと部屋を去った。
だが、彼の足取りは、先ほどよりもわずかに軽かった。
魔王ヴェルグの城に少女が滞在することとなった。
それは、世界を維持するための巨大な歯車が、一ミリだけ、本来の軌道から外れ始めた瞬間でもあった。
第二章:スープの温度、あるいは幸福の重さ
フォレが城に来てから、数ヶ月が経過した。
魔王の城の日常は、奇妙な変質を遂げていた。
かつては冷酷な命令と服従だけが支配していた空間に、不釣り合いな「生活」の音が混じり始めたのだ。
「王様! また焦がしましたね! 火加減が強すぎるんですよ!」
厨房から、ぷる子の怒鳴り声が響く。
「……うるさい。魔力で加熱すれば、均一に熱が通るはずだろう」
「料理は魔力じゃありません、愛です! 心です! ほら、フォレちゃんがお腹を空かせて待ってるんですから!」
レオンはエプロンこそつけていないが、手には不恰好な木匙を握り、大きな鍋と格闘していた。
彼はいつの間にか、フォレの食事を自ら作るようになっていた。
魔族の食事は、魔力を摂取すれば事足りる。だが、フォレは人間だ。温かくて、柔らかくて、栄養のあるものを食べなければ、すぐに死んでしまう。
元勇者である彼は、かつて旅の途中で覚えた質素な野営料理を思い出しながら、森で採れた野菜と、ハティが渋々狩ってきた魔獣の肉を煮込んでいた。
「レオン、できた?」
厨房の入り口から、フォレが顔を出す。
かつてのガリガリだった体には少しずつ肉が付き、髪もぷる子が毎日梳かしているおかげで、栗色の艶を取り戻していた。
「ああ。座っていろ」
食堂の古びた円卓に、二人と二匹(?)が集まる。
ハティは当初、同じ食卓につくことを拒んでいたが、レオンの「命令だ」という一言で、今では最端の席に仏頂面で座るのが定位置になっていた。
「いただきます」
フォレが木匙でスープを掬い、ふーふーと息を吹きかけてから口に運ぶ。
レオンは、自分の心臓の音が聞こえるほど、緊張して彼女の反応を待った。
「……おいしい。レオン、まえより上手になった」
「……当然だ。俺を誰だと思っている」
レオンはそっぽを向いたが、その耳の端がわずかに赤いことを、ぷる子は見逃さなかった。
ハティもまた、出されたスープを無言で啜る。彼は人間を嫌っていたが、王が自ら作ったこの「愚かなほど人間臭い料理」の中に、かつての英雄としての誇りとは別の感情が宿っていることを感じ取っていた。
「ねえ、レオン。こんどの春になったら、お外に行ける?」
フォレの不意の問いに、スープを飲む音が止まった。
「……外か」
「ぷる子がね、森の向こうには、もっといっぱいお花が咲いてる場所があるって言ってた。そこには、悪い獣もいなくて、みんなが笑ってる場所があるって」
レオンは、ぷる子を鋭く睨みつけた。
ぷる子は「やばっ」という顔をして、スライム状の体を縮める。
「……フォレ。外の世界は、お前が思うほど美しくはない」
レオンの声が、低く沈んだ。
「そこには、お前を捨てた者たちがいる。お前を『不要』だと断じた者たちが、平然と笑って暮らしている。……そんな場所を見て、何になる」
フォレは、木匙を置いて、まっすぐにレオンを見つめた。
「でも、レオンが守ってくれるんでしょ?」
その無垢な信頼が、レオンの胸を深く抉った。
守る。
かつて勇者だった時、彼はその言葉を簡単に口にしていた。だが、魔王となった今、彼が何かを守るということは、世界の理に背くということと同義だった。
「……俺は、魔王だ。お前の言う『みんな』にとっては、恐怖の対象でしかない。俺が外に出れば、それだけで戦争が始まる」
「じゃあ、ずっとここでいい。レオンと、ぷる子と、ハティがいれば、ここがわたしの世界」
フォレは、レオンの手の上に、自分の小さな手を重ねた。
「レオン、あったかいよ。おじさんじゃない。わたしの優しいレオン」
その瞬間、レオンの中で何かが音を立てて崩れた。
魔王ヴェルグという厚い殻の下で、ずっと眠っていた「レオン」という名の人間が、産声を上げたような錯覚。
窓の外では、雪が解け、二度目の春が近づいていた。
だが、その春は、彼らが望んだような穏やかなものではなかった。
人間たちの住む世界では、魔王の城に人間の少女が捕らえられているという噂が、最悪の形で広まり始めていたのだ。
「……ハティ」
食後、レオンは側近をテラスへ呼び出した。
「はっ」
「境界の警戒を強めろ。人間どもが動いている」
「……すでに、いくつかの調査隊を処分しました。彼らは、あの子を『魔王に奪われた聖女』として祭り上げようとしています。あの子を助けるという大義名分で、この森に攻め込む口実を探しているのです」
ハティの声には、隠しきれない殺気が混じっていた。
「王よ。いっそのこと、あの娘を……」
「……それ以上は言うな。あいつに指一本でも触れてみろ。俺がお前を、この世界から消去する」
レオンの瞳に、魔王としての禍々しい光が宿る。
ハティは、恐怖ではなく、深い絶望と共に頭を垂れた。
王は変わってしまった。
世界を維持するための調整役が、一人の少女という「個人的な愛」のために、世界の均衡を天秤にかけようとしている。
それが、どれほど凄惨な結末を招くか、ハティには容易に想像ができた。
「……御心のままに。我が王よ」
影に溶けるように、ハティは姿を消した。
レオンは一人、空を見上げた。
彼の手にはまだ、フォレが触れた瞬間の、小さな温もりが残っていた。
第三章:陽だまりの終わり、痛みの雨
その日は、驚くほど静かな朝だった。
二度目の春が本格的に訪れ、森の木々は芽吹き、レオンの耕した畑には小さな苗が並んでいた。
フォレは庭で、ぷる子と一緒にハーブを摘んでいた。レオンが最近好んでいる、少し苦味のあるお茶の葉だ。
「フォレちゃん、上手になりましたねぇ。私なんて、触手で摘もうとするとすぐ潰しちゃうのに」
「ぷる子は、いっしょうけんめいだから。だいじょうぶ」
フォレがふふっ、と笑う。かつて感情の枯れ果てていた少女の頬には、今や健康的な赤みが差し、その瞳は春の陽光を反射してキラキラと輝いていた。
その光景を、城のテラスからレオンは眺めていた。手には、読みかけの古い書物。平和とは、退屈のことだ。そして彼は今、その退屈を心から愛していた。
だが、その平穏を切り裂いたのは、一本の矢だった。
シュッ、という乾いた風切り音。
直後、フォレの小さな肩が大きく跳ねた。
「……あ?」
フォレの手から、ハーブの詰まった籠がこぼれ落ちる。
彼女の白い服に、鮮やかな、あまりに鮮やかな赤が滲んでいく。
遅れて、森の境界線から急報を知らせる音が響き渡った。
「見つけたぞ! 魔王の弱点だ! あの小娘を確保しろ、できねば殺せ! 魔王を誘い出すのだ!」
森を揺らすのは、獣の咆哮ではない。それは、聖教国の名を掲げた「聖騎士団」の兵たちの叫びだった。彼らは「魔王に拐われた聖女を救う」という大義名分を盾に、実際には魔王という強者を狩るためにやってきた。
「フォレちゃん!!」
ぷる子が叫び、自身の体を盾にしてフォレを覆う。だが、聖騎士たちが放つ矢は、魔族に特化した呪詛の術式が刻まれていた。
「ぎゃああああ!?」
触れるだけで体が焼けるような痛みに、ぷる子がのたうち回る。
レオンはテラスから飛び降りた。地面が爆ぜるほどの衝撃と共に着地し、瞬時に数人の騎士を視線だけで圧殺する。
「貴様ら……何をしたか、わかっているのか」
レオンの声は、地底から響く地鳴りのようだった。
だが、騎士団の数はあまりに多い。そして、彼らは最初から捨て身だった。魔王を殺せなくとも、魔王が大切にしているものを壊せば、それは人間側の「勝利」になると信じていたのだ。
「遅いのだよ、バケモノめ!」
影から放たれた二の矢が、ぷる子の隙間を縫って、フォレの胸に深く突き刺さった。
第四章:さよなら、レオン。やさしい魔王
世界から音が消えた。
レオンが駆け寄り、崩れ落ちるフォレを抱きとめた。
「フォレ……フォレ!!」
魔王の強大な魔力を、レオンは惜しみなく彼女に流し込もうとした。傷口を塞ぎ、失われた血を補い、無理やりにでも命を繋ぎ止めようとした。
だが、聖騎士の矢に刻まれていたのは、回復魔法そのものを腐敗させる『不治の呪い』だった。レオンが魔力を送れば送るほど、それはフォレの小さな体を内側から焼く炎へと変わってしまう。
「……ぁ……」
フォレが、弱々しく目を開いた。
彼女の視界はすでに霞んでいたが、必死に自分を呼ぶレオンの、絶望に歪んだ顔だけは見えていた。
「レオン……ないて、る?」
「泣いていない。大丈夫だ、すぐに治る。お前が明日の朝に飲むスープを、俺がまた作るんだ。だから……」
フォレは、血のついた指先で、レオンの頬に触れた。
彼女は怖がっていなかった。自分を刺した騎士たちへの憎しみも、死への恐怖も、その瞳には一滴もなかった。
あるのは、ただ一つの、深い「心配」だけ。
「レオン……いつも、こわい顔して、お仕事してたから……。わたしが、いなくなったら……また、ひとりぼっちに、なっちゃう……」
「喋るな! 何も言うな!」
「レオン……おなか、すかないようにね……。ぷる子……ハティ……。みんなで、なかよく……スープ、のんで……」
フォレの呼吸が、浅くなっていく。
彼女は最期に、優しい満ち足りた微笑みを浮かべた。
「レオンは……やさしい、よ……。わたしの……だいすきな……」
指先から力が抜け、レオンの頬を滑り落ちた。
フォレの時が、止まった。
「ああ……ああああああああああああああああああああああああ!!!」
魔王の城が、震えた。いや、世界そのものが悲鳴を上げた。
レオンの咆哮は、空を真っ黒に染め上げ、太陽の光を完全に遮断した。
かつて勇者として世界を救った男は、今、その手の中に残った一人の少女の亡骸のために、世界を呪う決意を固めた。
第五章:俺はもう、何も止めない
城の周囲は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
生き残った聖騎士たちは、自分たちが成し遂げた「偉業」を報告するために本国へと引き揚げていったが、彼らが本国に辿り着くことはなかった。
玉座の間。
レオンは、冷たくなったフォレを、自分の足元に静かに横たえていた。
その前には、ハティとぷる子が跪いている。
「王よ。ご命令を」
ハティの声は、怒りで割れていた。彼の武人としての誇りは、ズタズタになっていた。
「この地に足を踏み入れたすべての人間を、その血の最後の一滴まで根絶やしにする許可を!」
「王様……」
ぷる子は、形を保つのもやっとというほどに透明になり、声を殺して泣いていた。
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、かつての勇者の知性も、魔王の威厳もなかった。
ただ、底の見えない、冷たい「虚無」だけがそこにあった。
「……ハティ。ぷる子」
レオンは、玉座の手すりを握りつぶした。
「俺は、疲れた。世界を維持することも、魔族を抑えることも。……人間たちが、これほどまでに『滅び』を望んでいるのなら、俺がそれを止める理由など、もうどこにもない」
「王……?」
「俺がこれまで無意識に行ってきた『魔力循環の調整』を、今この瞬間、すべて破棄する」
ハティが息を呑んだ。それが何を意味するか、高位魔族である彼には理解できた。
魔王という蓋が外れれば、世界には制御不能な魔力が溢れ出す。それは、魔法の恩恵を受けてきた人間社会の基盤そのものを焼き切る、暴力的なまでのエネルギーの奔流だ。
「そして――。人間どもには、俺の『呪詛』をくれてやる。武器を取る必要はない。戦う必要もない。……奴らが抱える、魔族への、あるいは自分自身への『醜い恐怖』を、そのまま形にして返してやる」
レオンは、静かに宣告した。
「好きにしろ。殺したければ殺し、奪いたければ奪え。……俺は、もう何も止めない」
その瞬間、世界から「光」が消えた。
大気は鉛のように重く沈み、空からは真っ黒な雪のような灰が降り注いだ。
魔力濃度が限界まで上昇したことで、各地の農作物は一夜にして枯死した。聖域の結界は粉々に砕け散り、魔族たちは野に放たれた。
だが、何よりも凄惨だったのは、人間たちの内側に起きた変化だった。
レオンの呪詛は、人々の精神に直接作用した。
彼らは、鏡に映る自分を化け物だと思い込み、愛する家族を魔族の残党だと思い込んだ。
「魔族を殺さねばならない」という強い強迫観念が、そのまま「自分たちが最も恐れる幻覚」となって襲いかかったのだ。
レオンは、指一本動かさなかった。
ただ、これまで支えてきた「世界の蓋」を開けただけ。
それだけで、世界は人間の醜い恐怖によって、自発的に、そして確実に崩壊へと向かっていった。
第六章:霧散する愛、石化する忠誠
城もまた、終わりの時を迎えていた。
世界の魔力循環が狂ったことで、魔王の側近たちもまた、存在の維持ができなくなっていた。
「……あはは。王様、本当に、極端なんだから……」
ぷる子が、床に溶け落ちるように座り込んでいた。
彼女の半透明の体は、すでに胸から下が光の粒となって、開かれた窓の外へと流れていっている。
「ぷる子。すまない」
「いいんです。私、フォレちゃんに名前をつけてもらった時から、覚悟してました。……名もない魔族だった私が、最後に『ぷる子』として消えられた。……それだけで、もう、十分すぎるくらい幸せです」
彼女は、フォレがいつも座っていた椅子を愛おしそうに撫でた。
「王様……。フォレちゃん、きっと、怒ってますよ。……みんなでスープを飲んでって言ったのに、一人で絶望しちゃうなんて。……だから、いつか、また会えたら……謝ってくださいね……」
ぷる子は、最後の一粒の光まで笑みを絶やさぬまま、春の嵐に巻かれるようにして霧散した。
「…………」
レオンは、言葉を返せなかった。
傍らに立つハティに目を向けると、彼はすでに、その足元から灰色の石へと変わり始めていた。
「……ハティ」
「王よ。……私は……最後まで、貴方の忠実な牙でありたかった。……ですが……貴方が『魔王』であることをやめ、『人間』に戻るというのなら……私は、ここで止まりましょう」
ハティの声は、岩が擦れ合うような重い響きだった。
「……貴方が次に目覚める時、そこが……フォレの願った『春』であることを……祈って……」
ハティは、最後にレオンへ向けて臣下の礼を捧げたまま、一つの動かぬ石像となった。
城の中に、風の音だけが響く。
レオンは、玉座に座り、冷たくなったフォレの手を握りしめた。
「……みんな、いなくなったぞ。フォレ。……これで、よかったのか」
返事はない。
レオンは、己の頭上に残った二本の角を、自らの手で折った。
凄まじい激痛と共に、魔王ヴェルグの全魔力が世界へと還っていく。
魔王は死んだ。
そこには、ただ一人の、大切な人を守れなかった「レオン」という名の男だけが、暗闇の中で眠りについた。
終章:二度目の春に、目を細める
それから、どれほどの歳月が流れたのか。
魔力という神秘が消え去った世界は、ひどく不便で、けれどどこか穏やかな場所へと再生していた。
人々は魔法に頼ることを忘れ、自らの足で歩き、自らの手で土を耕し、太陽の動きに従って生きるようになっていた。
かつての「魔王」の記憶は、長い歴史の波に洗われ、もはや誰の心にも残っていない。
小さな、平和な村の端。
古い平屋で、一人の老人が畑を耕していた。
彼はひどく寡黙で、村の祭りに顔を出すこともなかったが、子供たちが怪我をすれば、どこからともなく現れて不器用に手当てをしてやるような、不思議な老人だった。
ある春の昼下がり。
老いたレオンは、腰を休めるために、庭に置かれた古びた椅子の背を預けた。
「……おじいさん、お疲れ様」
不意に、鈴を転がすような声がした。
レオンが目を開けると、そこには一人の少女が立っていた。
栗色の髪、新緑のような瞳。
どこにでもいる、けれどレオンにとっては「世界のすべて」だった面影を持つ少女。
彼女には、前世の記憶はないだろう。
魔王の城でスープを飲んだことも、ぷる子と笑い転げたことも、呪詛に満ちた世界で息を引き取ったことも。
だが、少女はレオンを見つめ、ふふっ、と、かつてのフォレと同じように笑った。
「おなか、すいてませんか? さっき、お家でお粥を作ったの。まだ温かいから、一緒に食べましょう?」
差し出されたのは、質素な木の器に入った、湯気の立つお粥。
レオンは、震える手でそれを受け取った。
木匙を握り、一口、口に運ぶ。
「…………あ……」
熱い。
そして、驚くほど、優しい味がした。
何百年もの間、魔力を食らい、感情を押し殺して生きてきたレオンの目から、初めて「人間としての涙」がこぼれ落ちた。
「……おじいさん、どうしたの? 熱すぎた?」
心配そうに顔を覗き込む少女――フォレに、レオンは首を振った。
「……いや。……ただ、少し、眩しいだけだ」
レオンは、少女を見つめ、静かに目を細めた。
空はどこまでも青く。
庭には、フォレが摘もうとしていた、あの苦いハーブの香りが風に乗って漂っている。
ぷる子が、霧の向こうで笑っている気がした。
ハティが、石の身体を震わせて、安堵している気がした。
それが、最後の魔王がようやく手に入れた、本当の「二度目の春」だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。いつもと違うテイストにチャレンジしてみましたが、いかがでしたでしょうか。




