第8話「小さな戦いと成長」
屋敷の朝は静かだった。
土間の冷たさがまだ残る時間、私は一人、昨夜までの出来事をゆっくりと思い返していた。
初めて見る“戦”という現実。
血の色、息遣い、叫び声。そして、確かにあった人の温度。
怖かった。けれど――
それを越えたあとに残ったのは、驚くほど澄んだ心地よさだった。
「結依殿、起きよ」
篠田の穏やかな声に顔を上げる。
彼の表情はいつものように柔らかく、その優しさに胸がほぐれていく。
外では、すでに兵たちが訓練を始めていた。
槍の打ち合う音や、掛け声が朝の空気を震わせる。
「戦で傷を負った人たち……大丈夫でしたか?」
私の問いに、篠田はふっと目を細めた。
「おぬしの処置が的確でな。皆、もう立派に訓練に加わっておる」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
私の知識が、この世界でも誰かを助けることができた――。
その事実が、昨日の恐怖を静かに変えていった。
*
午前は、屋敷の衛生管理と薬草の仕分けを任された。
私は現代で身につけた知識を総動員する。
布を煮沸し、薬草を仕分け、手の触れる場所を熱湯で洗い流す。
兵士たちには「手を洗う」意識がほとんどなく、最初は不思議そうに見られたが、説明すると納得してくれた。
「ふむ……確かに、汚れが残ると膿んだりするからな」
「そうなんです。だから、できるだけ清潔にしておくと……」
篠田は感心したように腕を組んだ。
「結依殿、そなたの知識は屋敷の宝だな」
照れくさくて視線を落としたが、その言葉は何より嬉しかった。
*
薬草の整理が終わったころ、離れの方からあの“パチンパチン”という音が聞こえた。
そろばんの音だ。
昨日、書役に誘われて久しぶりに弾いたそろばん。
今日は、書役が逆に困り顔で机に向かっていた。
「どうかしたのですか?」
「いや、帳簿の一部が乱れてしまってな。物資の数と合わぬのだ」
帳簿を覗くと、確かに計算が複雑で、数字が入り乱れている。
「もしよければ……見てもいいですか?」
書役は驚いたように目を瞬かせたが、そっと帳簿を差し出した。
私はそろばんを借り、珠を弾く。
カタ、カタ……指が自然に動き、数字が組み上がっていく。
「……速い」
書役が息を呑んだ。
大きな間違いは一つだけで、他は整合性が取れていた。
「ここの計算がずれてます。これを直せば……ほら」
書役は目を丸くし、やがて深く頷いた。
「助かった。これは官兵衛様もお喜びになろう」
胸が少し熱くなる。
私の世界で覚えたものが、ここでもほんの少し役に立つなんて。
*
昼過ぎ、馬小屋に行くと、馬の世話を任されている兵士が困っていた。
「この馬、今朝から落ち着かぬのだ」
様子を見ると、毛並みが乱れ、呼吸も早い。
「昨日の戦で興奮が続いているのかもしれません。まず落ち着かせて……」
私は優しく首筋を撫で、低い声で話しかけた。
馬の耳が少しずつ後ろから前へ、安心の方向へ傾いていく。
「結依殿……馬の扱いにも長けているのだな」
篠田が感嘆したように言う。
私は小さく笑った。
「慣れてるだけです。でも……喜んでくれるのが嬉しいから」
その言葉を聞いてか、馬がそっと私の肩を鼻先でつついた。
胸がじんわり温かくなる。
*
夕暮れが近づいたころ、小さな問題が起こった。
「結依殿! 包帯が足りぬ!」
兵士が駆け込んでくる。
昨日の戦で思った以上に消耗していたようだ。
「代わりになる布を……あ、晒し布があります!」
厨房の隅に置かれていた晒し布を取り出し、私は湯で煮て消毒し、細く切りそろえた。
さらに、薬草の残りを使い、痛み止めと消毒の効果がある膏薬を即席で作る。
「本当にこれで大丈夫なのか?」
不安そうな兵士に、私は自ら腕に塗ってみせた。
「はい、大丈夫。効果はあります」
兵士も納得したように頷き、それを持って走っていった。
横で見ていた篠田が、静かに言った。
「結依殿……そなたは、もう“この屋敷の者”だな」
胸が熱くなる。
ただ生き延びるだけで精一杯だった私が、ほんの少しだけ、誰かの役に立てるようになっている。
この世界に来た理由はわからない。
だけど――ここでできることがあるなら、やりたい。
私は強く息を吸い込んだ。
「……私、もっとできるようになりたいです」
夕日が竹林を赤く染める中、篠田は静かに頷いた。
「その心意気があれば、大丈夫だ。官兵衛様も、きっとそう思われよう」
その言葉は、まるで見えない背中をそっと押してくれるようだった。
*
日が傾き、庭に長い影が落ちた頃。
ふと、気配を感じて振り向くと――官兵衛が立っていた。
「結衣、今日もよく働いたな」
鋭さと静けさを湛えた声なのに、不思議と温かい。
「ありがとうございます。少しずつですが、できることが……」
官兵衛はわずかに目を細める。
「人は己の力を知り、磨き続けてこそ強くなる。 ――明日、その強さを試す時が来るかもしれん」
「明日……?」
胸がどくりと跳ねる。
官兵衛は遠くの山を見やりながら続けた。
「近隣の村から、疫病の兆しがあるとの報せが届いた。 まだ確かではないが、放置はできぬ」
空気がひやりと冷える。
戦以上に恐ろしい“見えない敵”。
「結衣。そなたの知恵が必要になるやもしれぬ。 ……心しておけ」
官兵衛の瞳に宿るのは、厳しさだけではない。
確かな期待と、信頼。
私は深く、息を吸った。
「……はい。できる限り、尽くします」
官兵衛は満足そうにうなずき、静かに去っていく。
その背を見送りながら、胸の奥で小さな炎が静かに燃え上がっていくのを感じた。
――怖い。でも逃げない。
――明日は、また新しい“戦い”になる。
竹林を渡る風が、夜の気配を運んでくる。
その風の音が、私の心に静かな決意を刻んでいた。
✜この物語はフィクションであり、実際の歴史•政治•人物•世俗•習俗•人物•宗教•国•文化•医療•経済等とは一切関係ありません。




