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第8話「小さな戦いと成長」


屋敷の朝は静かだった。

土間の冷たさがまだ残る時間、私は一人、昨夜までの出来事をゆっくりと思い返していた。


初めて見る“戦”という現実。

血の色、息遣い、叫び声。そして、確かにあった人の温度。


怖かった。けれど――

それを越えたあとに残ったのは、驚くほど澄んだ心地よさだった。


「結依殿、起きよ」


篠田の穏やかな声に顔を上げる。

彼の表情はいつものように柔らかく、その優しさに胸がほぐれていく。


外では、すでに兵たちが訓練を始めていた。

槍の打ち合う音や、掛け声が朝の空気を震わせる。


「戦で傷を負った人たち……大丈夫でしたか?」


私の問いに、篠田はふっと目を細めた。


「おぬしの処置が的確でな。皆、もう立派に訓練に加わっておる」


胸の奥が、じんわり温かくなる。

私の知識が、この世界でも誰かを助けることができた――。

その事実が、昨日の恐怖を静かに変えていった。





午前は、屋敷の衛生管理と薬草の仕分けを任された。

私は現代で身につけた知識を総動員する。


布を煮沸し、薬草を仕分け、手の触れる場所を熱湯で洗い流す。

兵士たちには「手を洗う」意識がほとんどなく、最初は不思議そうに見られたが、説明すると納得してくれた。


「ふむ……確かに、汚れが残ると膿んだりするからな」


「そうなんです。だから、できるだけ清潔にしておくと……」


篠田は感心したように腕を組んだ。


「結依殿、そなたの知識は屋敷の宝だな」


照れくさくて視線を落としたが、その言葉は何より嬉しかった。





薬草の整理が終わったころ、離れの方からあの“パチンパチン”という音が聞こえた。

そろばんの音だ。


昨日、書役に誘われて久しぶりに弾いたそろばん。

今日は、書役が逆に困り顔で机に向かっていた。


「どうかしたのですか?」


「いや、帳簿の一部が乱れてしまってな。物資の数と合わぬのだ」


帳簿を覗くと、確かに計算が複雑で、数字が入り乱れている。


「もしよければ……見てもいいですか?」


書役は驚いたように目を瞬かせたが、そっと帳簿を差し出した。

私はそろばんを借り、珠を弾く。

カタ、カタ……指が自然に動き、数字が組み上がっていく。


「……速い」


書役が息を呑んだ。

大きな間違いは一つだけで、他は整合性が取れていた。


「ここの計算がずれてます。これを直せば……ほら」


書役は目を丸くし、やがて深く頷いた。


「助かった。これは官兵衛様もお喜びになろう」


胸が少し熱くなる。

私の世界で覚えたものが、ここでもほんの少し役に立つなんて。




昼過ぎ、馬小屋に行くと、馬の世話を任されている兵士が困っていた。


「この馬、今朝から落ち着かぬのだ」


様子を見ると、毛並みが乱れ、呼吸も早い。


「昨日の戦で興奮が続いているのかもしれません。まず落ち着かせて……」


私は優しく首筋を撫で、低い声で話しかけた。

馬の耳が少しずつ後ろから前へ、安心の方向へ傾いていく。


「結依殿……馬の扱いにも長けているのだな」


篠田が感嘆したように言う。

私は小さく笑った。


「慣れてるだけです。でも……喜んでくれるのが嬉しいから」


その言葉を聞いてか、馬がそっと私の肩を鼻先でつついた。

胸がじんわり温かくなる。




夕暮れが近づいたころ、小さな問題が起こった。


「結依殿! 包帯が足りぬ!」


兵士が駆け込んでくる。

昨日の戦で思った以上に消耗していたようだ。


「代わりになる布を……あ、晒し布があります!」


厨房の隅に置かれていた晒し布を取り出し、私は湯で煮て消毒し、細く切りそろえた。


さらに、薬草の残りを使い、痛み止めと消毒の効果がある膏薬を即席で作る。


「本当にこれで大丈夫なのか?」


不安そうな兵士に、私は自ら腕に塗ってみせた。


「はい、大丈夫。効果はあります」


兵士も納得したように頷き、それを持って走っていった。


横で見ていた篠田が、静かに言った。


「結依殿……そなたは、もう“この屋敷の者”だな」


胸が熱くなる。

ただ生き延びるだけで精一杯だった私が、ほんの少しだけ、誰かの役に立てるようになっている。


この世界に来た理由はわからない。

だけど――ここでできることがあるなら、やりたい。


私は強く息を吸い込んだ。


「……私、もっとできるようになりたいです」


夕日が竹林を赤く染める中、篠田は静かに頷いた。


「その心意気があれば、大丈夫だ。官兵衛様も、きっとそう思われよう」


その言葉は、まるで見えない背中をそっと押してくれるようだった。




日が傾き、庭に長い影が落ちた頃。

ふと、気配を感じて振り向くと――官兵衛が立っていた。


「結衣、今日もよく働いたな」


鋭さと静けさを湛えた声なのに、不思議と温かい。


「ありがとうございます。少しずつですが、できることが……」


官兵衛はわずかに目を細める。


「人は己の力を知り、磨き続けてこそ強くなる。 ――明日、その強さを試す時が来るかもしれん」


「明日……?」


胸がどくりと跳ねる。


官兵衛は遠くの山を見やりながら続けた。


「近隣の村から、疫病の兆しがあるとの報せが届いた。 まだ確かではないが、放置はできぬ」


空気がひやりと冷える。

戦以上に恐ろしい“見えない敵”。


「結衣。そなたの知恵が必要になるやもしれぬ。 ……心しておけ」


官兵衛の瞳に宿るのは、厳しさだけではない。

確かな期待と、信頼。


私は深く、息を吸った。


「……はい。できる限り、尽くします」


官兵衛は満足そうにうなずき、静かに去っていく。


その背を見送りながら、胸の奥で小さな炎が静かに燃え上がっていくのを感じた。


――怖い。でも逃げない。

――明日は、また新しい“戦い”になる。


竹林を渡る風が、夜の気配を運んでくる。


その風の音が、私の心に静かな決意を刻んでいた。




✜この物語はフィクションであり、実際の歴史•政治•人物•世俗•習俗•人物•宗教•国•文化•医療•経済等とは一切関係ありません。


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