第3話「未知の生活、智将の傍らで」
土間の冷たい床に座り込み、しばらく身動きできなかった。
現代の柔らかい布団や温かいシャワー、慣れた薬局――すべてが夢のように遠く、指先に触れられない記憶の中にある。
ここは異なる時間、異なる世界。身体は目覚めていても、心はまだ現代に囚われていた。
「おぬし、目を覚ませ」
低く落ち着いた声。
振り返ると、官兵衛が立っていた。
昨夜よりもさらに鋭く、厳格な印象だ。鎧の光が朝日に反射し、鋭角な影を落とす。
傍らに整列する兵士たちは、沈黙のまま結依を観察していた。
(本当に……歴史で何度も見たあの黒田官兵衛が、ここに――)
胸の奥で、尊敬と畏怖、そしてどこか大河ドラマを眺めるような現実感の薄さが混ざる。
彼の存在は大きく、圧倒的だ。しかし、あまりに近すぎると目も合わせられない。
「朝餉だ。食べて、今日に備えよ」
差し出されたのは、粗末だが温かい粥と漬物。
木の器に触れる手が少し震える。現代の陶器やステンレスに慣れた指先には冷たく感じられるが、ひとくち口に運ぶと身体の奥にじんわり温かさが広がった。
その時、側近の一人が静かに近づいてきた。
若干年上で、落ち着いた顔立ち。結依の目をまっすぐに見つめながら、柔らかい声で言った。
「恐れるな。最初は誰もが同じ。官兵衛様は、年頃が近いそなたに、私をつけた。そなたの気が休まるようにと」
その言葉で、結依の胸の緊張が少しだけ和らぐ。
官兵衛は畏怖すべき存在だが、この側近を通して見る世界は少しだけ人間味を帯びる。呼吸がしやすくなる――直感的に感じた。
「ありがとうございます。私、結依といいます」
「結依、か」
側近は小さくうなずき、空を見上げるように言葉を紡いだ。
「結ぶに、依る――人をつなぐ名だな。良き名だ」
「……そう、です」
その一言に、胸の奥がほんのり熱くなった。
*
午前中、結依は竹林の縁で兵士たちの手伝いをしながら、現代の知識を少しずつ応用する。
傷の手当てでは、まず手をよく洗うことを徹底する。
「患者が変わるごとに手を洗うこと……自分や腕に切り傷がある人は、他人の怪我を触ってはいけない」
心の中で確認しながら、結依は布で傷を拭き、必要な部分だけ薬草を当てた。
血液からの感染は、糞尿よりも危険なこともある――基本だが見落とされやすい大事なことだった。
薬草の処理も工夫する。
熱湯で長時間煮てしまうと、薬効が落ちてしまうものもある。
だから表面の汚れをさっと湯にくぐらせるか、流水で洗うだけにとどめる。
そして、傷口に貼る前に、布や手を清潔に保ち、雑菌が入らないように慎重に扱う。
包帯も、巻きすぎず、血流を妨げないように注意する。
ちょっとした手順の違いで、傷の治り方や痛みが変わる――結依は現代で学んだ基本を思い出し、ひとつひとつ丁寧に実践した。
兵士たちは最初、戸惑いながら見守る。
だが、結依の手が傷をきれいに処置し、痛みが少しずつ和らぐ様子を見て、驚きと感謝の表情を浮かべた。
「……手際が良いな……」
小さな声が漏れる。
結依自身も、手を動かすごとに自信が少しずつ芽生えていく。
(現代では抑え込まれていたけれど……ここでは自分にできることがたくさんある……生きてる実感がある……)
昼過ぎ、側近がそっと言った。
「そなたの手は、人を癒やす手。官兵衛様も、認めておる」
胸の奥がじんわり温かくなる。
官兵衛には遠く畏敬を抱く――でも、側近を通して、少しずつ信頼の糸が結ばれていく。
夕暮れ、竹林越しに赤い空を見上げる。身体は疲労で重い。
しかし胸の奥で小さな灯火が灯った――現代では押さえ込んでいた、自分の意志で動ける感覚だ。
官兵衛は遠くから静かに見守る。
その鋭い眼差しは畏怖を呼ぶが、どこか未来を見通す智将の匂いを纏っている。
結依は心の中でそっとつぶやく。
「……この世界で、やっていけるかもしれない」
未知の生活、初めての挑戦、そして新たな自分。
現代では耐えるだけだった日々が、ここでは学びと成長の糧に変わる。
官兵衛の偉大さに圧倒されつつも、側近の温かさを通じて、結依は現実味を帯びた戦国の世界で自分を動かし始めていた。
✜この物語はフィクションであり、実際の歴史•政治•人物•世俗•習俗•人物•宗教•国•文化•医療•経済等とは一切関係ありません。




