第2話「時の狭間で出会う、智将の眼差し」
息を整えようと深く吸い込む空気は、冷たく湿っていた。現代のコンクリートや排気ガスの匂いとは全く違う――土と木と鉄、そして人の体温が混ざり合った匂い。胸の奥がざわつく。目の前に立つのは、まぎれもなく戦国の世界だった。
竹で組まれた小屋の中。壁の隙間から射す光は、午前の柔らかい日差しなのに、鋭く現実感を突きつける。私は腰を抜かしたように座り込み、手で顔を覆う。頭の中は混乱の渦。
「落ち着け、落ち着け…」
心の中で自分に言い聞かせる。しかし、汗ばむ掌と鼓動は収まらない。
そのとき、先ほどの黒衣の男――黒田官兵衛――が一歩前に出る。鋭い目が私を追い、鋭角に光る視線は、心の奥を見抜くようだ。
「おぬし、異界から来た者と見えるな」
言葉は低く、冷たく響くが、同時に不思議な確信がある。異界……その言葉に、私は小さく息を飲む。自分の言葉を失った喉が、ひどく乾いていた。
「異界……?」
声は震え、かろうじて漏れる。
「そうだ、しかし心配することはない。我がもとにいる限り、命は保障する」
官兵衛の声は力強く、言葉一つで空気まで変わる。部屋の空気が、急に穏やかになったように感じられた。
「な、なんで私のことを……」
言葉が続かない。現代で押し殺してきた理不尽な日々、夫の冷淡さ、仕事の疲労――それらが、一気に胸に押し寄せる。官兵衛の眼差しは、それを否定も肯定もしない。ただ、私をじっと見つめるだけだ。
「戦場に立つ者は、心得違いでは生き残れぬ。おぬしの目には、恐怖しか映っておらぬな」
鋭く指摘され、私は小さくうなだれる。恐怖しか見えない――確かに、その通りだった。現代での生活でも、私はただ耐え、押し殺してきた。だがここでは、恐怖を押し隠すだけでは、命は守れない。
「では問う。おぬし、何を為すためにここに来たのだ?」
官兵衛の問いかけに、私は咄嗟に答えられない。心の奥底で、まだ答えを見つけられないまま、震えが体を走る。
「……わ、わからない…」
吐き出した言葉に、現代の無力さが重なる。しかし官兵衛は、眉をひそめるでもなく、首をかしげるでもなく、ただ静かに私を見つめる。
「そうか……ならば教えよう。ここで生きる術を。心せよ、戦国の世は、人の情も理も、歯車のひとつでしか動かぬ世界ぞ」
その言葉に、私の胸が少しずつ引き締まる。恐怖が残る中で、理屈ではない、生きる知恵の匂いを感じた。
「私が、教えてもらえるんですか……?」
「望むならばな。我が目に、嘘は通じぬ」
官兵衛の眼差しは、厳しさの中に温かさを含む。威圧でも脅迫でもない。信頼――まだ見ぬ戦国の世界で、初めて誰かが私を見つめ、そして受け入れてくれた感覚だった。
その時、遠くで馬の蹄音と兵士の号令が響く。木々の間から、甲冑の影がちらりと見える。ここが戦国であることを、身体の奥が再び突きつける。
「準備せよ。今日より、おぬしもこの地に生きる者として、歩むのだ」
官兵衛は私の肩に軽く手を置く。小さな力強さが伝わり、心の奥で緊張と安堵が同時に交錯する。
──現代では誰にも理解されなかった私の疲れ、孤独、葛藤。
──しかしここでは、恐怖も焦燥も、意味を持つものになる。
「わかりました……」
私は小さく頷き、震える手を握りしめる。まだ恐怖は消えない。しかし、初めて自分が行動する意思を持てることを、心の奥で感じた。
官兵衛の鋭い眼差しは、私の不安も希望も、すべて受け止めている。未知の世界の、最初の一歩を共に歩むことを、静かに示していた。
──あの日、現代で押し殺した感情が、戦国の風に乗って、初めて自由に息を吹き返す。
そして私は知った――ここで生き抜くことは、誰かのためではなく、まず自分のためなのだと。
✜この物語はフィクションであり、実際の歴史•政治•人物•世俗•習俗•人物•宗教•国•文化•医療•経済等とは一切関係ありません。




