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第16話「女が学ぶということ」

だいぶお待たせしました!


朝霧が庭を薄く覆っている。


結衣の前には粗末な机、紙、墨、そして篠田。


「今日は和暦から始める」


穏やかな声だった。


「今は天正十三年。だが年号だけ覚えても意味はない。どの戦の後か、誰が利を得たのか。そこまで結びつけて理解しなさい」


結衣は筆を走らせる。


天正十三年。

出来事を書き添えようとするが、頭の中でうまく繋がらない。


「混乱しているな」


「……はい」


「数字に引きずられるな。動いた人間を軸に考えろ」


播磨、美濃、尾張、近江。


篠田は石を置くように国名を並べる。


「戦は力だけで起こらぬ。利と恐れが動かす。どこが何を恐れているかを見なさい」


結衣は必死に書き留める。



その様子を、廊下の陰から見ている視線があった。


若い兵が一人、腕を組み、黙っている。


篠田の声。

机に向かう結衣。


その光景を、面白くなさそうに見つめる。


「女子に政とはな」


小さな声。


だがそこにあるのは軽蔑だけではない。


焦り。


自分も、あの席に座りたい。


その思いを、言葉にできずにいる。



結衣は気配を感じながらも、顔を上げなかった。


筆先が震え、墨がわずかに滲む。


「手が止まっている」


篠田は視線を上げない。


「……申し訳ありません」


「謝る暇があるなら考えろ」


声は静かだ。


庇わない。


気づいていないふりをしているのでもない。


ただ、続ける。



「石高が一万違えば、兵は何人動く」


「……三百ほど、でしょうか」


「概算としては悪くない。だが地形も考慮しろ」


評価も、修正も、同じ温度で与えられる。




午後。


若い兵がついに一歩、前に出た。


拳がわずかに強張っている。


「なぜ、あの者にそこまで教えるのです」


篠田は帳面を閉じる。


結衣を見ない。


兵だけを見る。


「お前は学びたいのか」


問いは短い。


兵は言葉を詰まらせる。


「……私は武士です」


「ならば武だけで生きよ」


穏やかな声。


だが揺れはない。


「学びたいのなら、理由を持って来い。立場ではなく、志で話せ」


兵の喉が動く。


何も言えないまま、視線を落とす。


篠田はそれ以上追わない。



「続ける」


何事もなかったように授業は再開する。


「近江が動けば、最も困るのはどこだ」


結衣は息を整える。


「……美濃です。挟まれます。補給路が脆くなる」


「そうだ」


わずかに頷く。


「よく見ている」


淡々としている。


だが、確かに信じている声だった。




夜。


結衣は帳面を抱えて縁側に座る。


昼のやり取りが胸に残っている。


——お前は学びたいのか。


その言葉は、兵だけでなく、自分にも向けられていた。


足音。


振り向くと、昼間の若い兵が柱の影に立っていた。


一瞬、目が合う。


兵は気まずそうに視線を逸らす。


だが、その目は帳面へ落ちた。


覗きたいのだ。


結衣は理解する。


あの人も、学びたい。


席は奪われたのではない。


まだ、取りに来ていないだけだ。



「まだ起きているのか」


篠田の声。


「はい。復習を」


篠田は隣に立ち、庭を見た。


「視線が重いか」


唐突な問い。


「……少しだけ」


篠田はうなずく。


「気にするなとは言わぬ」


静かな声。


「だが、学ぶと決めたのはお前だ」


結衣は顔を上げる。


「信じて任せている。だから手加減はしない」


胸の奥が、静かに定まる。


守られているのではない。


信じられている。


「……はい」


結衣は帳面を開く。



「では、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「今、一番危うい国はどこですか」


篠田の目が細まる。


「良い問いだ」


そして答える。


「力を持ちながら己を知らぬ国だ」


霧が流れる。



廊下の奥に一つの影。


官兵衛。


二人の声を聞きながら、何も言わない。


ただ一言。


「続けよ」


低い声が夜に落ちる。



結衣は筆を握る。


学ぶことは、孤独だ。


だが、その孤独は選んだもの。


もう、視線から逃げない。


筆先は、迷わず紙を走った。




次回は、火曜日更新予定です。

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