第10話「報告と静かな共鳴」
夜明けの空は淡く、冷たい光を帯びていた。北の村の煙が遠ざかる。結衣は振り返り、焚き火のあった場所を目で追った。あの小さな灯が、まだ村を照らしているように思えた。
「行くぞ。」
篠田の短い声にうなずき、手綱を握る。馬の足音が霜を踏みしめ、静かな道を行く。
村人たちは道の端に並び、深々と頭を下げていた。母親が少女の手を引きながら泣き笑いの顔で声をかける。
「ありがとうございました……どうか、お身体をお大事に!」
結衣は馬上から、静かに微笑んだ。
「……こちらこそ、ありがとうございます。布を忘れずにね。」
白い息が冬の朝に溶けていく。篠田が横目で結衣を見る。
「……ようやったな。恐れず、よく動いた。」
「怖かったです。でも……怖いからこそ、できることを探したんです。」
その答えに、篠田は小さく笑った。
「理屈のようで、理屈ではないな。おぬしの言葉は。」
「ええ。たぶん、“信じたいこと”を言っているだけです。」
「信じたいこと、か。」
篠田は視線を前に向け、低くつぶやく。
「……悪くない。」
その声音には、わずかな温もりが宿っていた。
やがて邸が視界に入る。
だが結衣は、安堵する前に目を細める。
「村での病を、ここに持ち込むわけにはいきません。」
馬を降りると、すぐに用意された大きな桶と温かい湯のもとへ向かう兵士たち。
結衣も手早く服を脱ぎ、肩から足先まで湯に浸かる。血の巡りとともに、緊張と疲れも洗い流される。
兵士たちも順番を守り、静かに体を清める。篠田が声をかけた。
「これで官兵衛様や邸の者にうつすことはない。安心して報告できる。」
結衣は湯を浴びながら、静かに心を落ち着けた。村で見た恐怖や死の影を、少しでも邸に持ち込まぬために。
全員が湯浴みを終え、衣服を清めて身を整えると、邸に入る。空気は冷たいが、胸には小さな達成感が残った。
黒田の陣屋に戻ると、官兵衛がすでに待っていた。机の上には報告書と地図。結衣の姿を見るなり、彼は視線を上げる。
「ご苦労であった。……状況を聞かせよ。」
結衣は深く頭を下げ、落ち着いた声で報告を始める。病の発生源、村人の状態、予防のための措置、そして経過。
官兵衛は一言も遮らず、指先で机を叩きながら聞いていた。
「咳や唾が病を運ぶ、という考えは、どこから得た。」
「確かな証はありません。ですが、人が多く集まるほど病が広がるのを見て……“人から人へ移る”のではないかと思いました。」
「理にかなうな。」
官兵衛は薄く笑みを浮かべた。
「“理をもって恐れを鎮める”。見事な策じゃ。」
「策というほどでは……。ただ、守れる命を守りたかっただけです。」
「それで十分だ。理も策も、人を活かすためにある。」
結衣が少し顔を上げ、官兵衛の目を見つめる。
「村では、布の着用や手洗い、葛湯で体を温めることを徹底しました。兵や村人が協力してくれたおかげで、多くの命を守れたと思います。」
官兵衛は机に手をつき、静かに頷く。
「……ふむ、よくやった。小さな手で、大きな流れを制したのだな。」
「……でも、まだ村の全ての人が完全に安心できるわけではありません。」
「恐れることはない。おぬしが動いた、その事実が村の心を守ったのだ。」
短いやり取りの後、官兵衛は帳面を閉じた。
「篠田。結衣を休ませよ。しばらく静養を命ずる。」
「はっ。」
結衣は深く頭を下げ、部屋を辞した。官兵衛は静かに呟く。
「――“知の任務”か。面白い娘だ。」
夕刻、屋敷の裏庭で結衣はひとり空を見上げる。冬の風が頬を撫で、遠くの木々がざわめく。篠田の足音が近づいた。
「官兵衛様への報告、ご苦労だったな。」
「篠田さんも……お疲れさまでした。」
「ふむ、戦場の疲れよりも、あの村の静けさの方が堪えるな。」
「……わかります。」
二人は少しの間、無言で立ち尽くす。
日が傾き、淡い橙が雪に映える。
「結衣。」
「はい。」
「おぬしのやり方は、戦とはまるで違う。だが――確かに、戦を終わらせる力を持っている。」
結衣は息をのむ。篠田の声は穏やかで、これまでよりもずっと柔らかい。
「戦を終わらせる、力……?」
「恐れを鎮め、人を動かした。あれが“戦”を超える術でなくて何だ。」
結衣はそっと目を伏せ、冬の空気を吸い込む。胸の奥に、あの村の焚き火の灯が浮かぶようだった。
「……私は、ただ、生きてほしいと願っただけです。」
「それで十分だ。」
篠田はそう言って背を向ける。
その背中を見送り、結衣は胸の奥が静かに温まるのを感じた。
夜の帳が降りる。灯籠の火が風に揺れる。
――恐怖の中で見つけたものは、ただの勇気ではなかった。
それは、人を思う温度。
そして、誰かと共に在るという確かな光だった。




