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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

根切りの宿

【根切りの宿】


[時代設定]江戸時代


[ジャンル]時代小説


[その概念]悪女もの


[登場人物]


《盗賊一家》…善壱一味


六太(ろくた)…六番目の拾い子。本編の主人公。


善壱(ぜんいつ)…一味の頭領。拾い子たちの父。


銀次(ぎんじ)…一味の次席。元任侠者。


○お(まん)…一味の母親役。悪女。


余七(よひち)…七番目の拾い子。鍵と成る者のひとり。


《御用商》…鶴屋


旦那(だんな)…お節の父。鶴屋の当主。


○お(せつ)…鶴屋のひとり娘。


《神社》


禰宜(ねぎ)… 宮司の次席。


●禰宜の跡取り…権禰宜(ごんねぎ)。禰宜の息子。


《火盗改方》


神楽坂兵蔵(かぐらざかへいぞう)…火盗の元締。


鳥居左門(とりいさもん)…火盗の筆頭与力。


《幕閣》


松平某(まつだいらなにがし)…時の老中。


[過去]


上方(かみがた)


助清(すけきよ)…任侠一家の一粒種。


○お(きぬ)…助清の産みの親。亡くなる。

【根切りの宿・本編】



あるところに六太というケチな盗賊がいた。


その名の通り、彼は貧しい百姓の六男で、当然の事ながら食い扶持を減らすために赤子の頃に山に捨てられる。


親の顔も知らず、打ち捨てられた彼は、そのまま死ぬ運めだった。誰にも見つけられる事なく、容赦無く時だけは過ぎて行く。


時折、当たる雨粒が彼にとっての唯一の恵みだった。本来なら体温も下がり、赤子など直ぐに死んでしまうだろう。


虫の息になった彼が、それでも急に泣き叫んだのは正に、本能ともいうべきものだった。赤子なりの生への執着だったに違いない。


そして偶然とは恐いもので、その時たまたま通り掛かった男に彼は拾い上げられ、文字通り命を拾う事になった。


「こりゃあ、いかん!すっかり凍えている…」


男はすぐに赤子を自分の懐に入れると、擦りながら山道を急いだ。男の献身的な看病にも助けられて、彼は命を永らえ、やがてすくすくと成長して行く。




物心がつく頃になると、男の事を実の父親のように懐き、父の言う事なら何でもやった。一日三度の食事も欠かさず与えられ、その代わり仕込まれた事はきちんとこなす。


彼は素直で疑う事を知らなかったので、その行いが悪い事だと想う気持ちは微塵もなかった。それだけの道徳さえも教えて貰えていなかったのである。


そういった意味では、不孝な身の上だったのだろう。けれども彼は自分が不孝だとは想った事さえなかった。


やがて彼は成長と共に立派な盗賊に育て上げられる。そう…実は彼を拾った男こそ、盗賊の元締めだった。


男は身寄りの無い子を拾って来ては、いちから育て上げて行く悪党だったのである。但し、それでも命を救う程の男だから、殺生に関して言えばうるさかった。


盗賊働きをする時にも、前持って入念に事前調査を重ねて、(おど)(すか)しはするものの、押し込み先の住人には必ず目隠し、猿轡(さるぐつわ)を咬ませ、手を後ろ手に回し足まできちんと拘束するという手際の良さで、こちらの正体を悟らせぬ工夫をさせる。


そして決して命を奪う事無く、盗みを済ませるので、その通り名は"仏の善壱(ぜんいつ)"と呼ばれていた。


『殺生はけしてするな!』


これが善壱一味の掟だったのである。一味の仲間は六太と同様に、善壱がいちから育て上げた捨て子たちだったから、その団結力と求心力は格別なものがあった。


文字通り…家族同様の組織である。皆が一致協力し、善壱の指示を疑う事無く断行するから、狙った獲物は必ず物に出来た。


そして証拠を残す事無く、死人も出さないこの一味の暗躍には、奉行所でさえ手を焼いたのである。生き証人が居るにも拘らず、誰も証言らしい証言が出来ないので、奉行所の捜査も後手に回るばかりだった。


そしてもうひとつの特徴としては、一度押し込んだ先には、二度と押し込まない事を徹底していたので、管轄の異なる奉行所間での情報収集もままならず、仕事は面白い程うまく行ったのである。


盗みはするが殺生はせずというこの手口も、司法の手の本腰が入らない要因のひとつだった。


そんな訳だから、彼らの働き先は江戸市中に囚われない広範囲に広がっており、次にいつどこで盗賊働きが起きるのか、捕り手も判断がつかない程であった。


こうして善壱一味の暗躍は、官検の追求の隙き間を上手く縫い、その尻っぽすら掴ませる事無く、順風満帆だったのである。


六太も押し込みを繰り返すうちにその手口にも慣れ、その手際も向上して行く。今やどこに出しても恥ずかしくない、立派な盗賊が出来上がったと謂えよう。


まぁ世間的に言えば、けして誇れる職業では無いのだが…。そんな常識を教えられず、持たない彼にとっては、これも成長だった。




六太には六人の兄弟が居て、文字通り彼は六番目の拾い子だからそのまま六太である。上の兄は上から、太郎、次郎、三郎、四郎、五郎と続き、彼の名前が六郎とならなかったのは、善壱なりの親心なのだろう。下には弟がひとりいるが、彼の名は余七と謂う。


善壱には他にも姉と弟が居るので、一味の構成員は十名となる。その姉と弟ですら、先代が拾って来た捨て子だから、そもそも構成員の中で誰ひとりとして血の繋がりは無い。


姉はお万、弟は銀次と言った。


こうして見ると、まさに鉄の結束であり、(ほころ)びなど一切、感じられない一家であるが、どんな組織にも腐ったリンゴは居るもので、善壱一味も例外では無かったのである。それはお万であった。


彼女は七人の兄弟を育てて来た功労者であり、一家には無くてはならない存在だが、唯一の欠点が自由奔放な悪癖である。


幾ら血の繋がりの無い存在だとしても、長年姉弟として育って来た中だったのに、お万は善壱に隠れて銀次と関係があった。


そして事ある毎に、銀次に寝屋の(とばり)の中で、善壱のくだらない正義感に水を差す。善壱のやり方は余りにも慎重で回りくどく、もっと手っ取り早い手段を取れば大きく稼げるだろうにと言うのである。


初めは女の浅はかな考えだと意に返さなかった銀次だが、何度も耳許で(ささや)かれているうちに不意に魔が差した。善壱を殺して一味を乗っ取り、もっと自由に、もっと大きく稼げる一家にしようという企みに、だんだんと頭が支配されるようになって行く。


ところが善壱も知ってか知らずか、身の周りには気を配り、子供と日替わりで川になって寝るのを日課としていたので、なかなかその機会は巡って来なかった。おそらくは父として、子と過ごす時間を大事にしたかったのだろう。


だから銀次の企みは遅々として進まず、悶々と過ごす日々が続いた。銀次はだんだんと人相が悪くなり、益々執拗に兄の命を狙うように成る。


そしてそんな余計な事に頭を支配されていると、人間は手許が(おろそ)かになるものだ。




ある時、銀次は些細なミスからもう少しで馬脚を(あらわ)すところを六太に救われたが、それに気づいた善壱に酷く叱責を受ける。彼は益々善壱を恨む様になり、こうなったら確実に亡き者にしようと計画を練り始めた。


まず考えたのは、お万に善壱を寝屋に誘わせ、その隙に亡き者にしようというのであるが、これはお万本人が嫌がった。そもそも善壱がそう簡単に(なび)くのならば、銀次を標的にする様な回りくどい方法は取らない。


それに子供を日替わりで呼び、共に過ごす事は、善壱の日課として定着して久しい。そんな隙があるからこそ、あんたと夜を過ごせるんじゃないかと言われては、正にその通りだと認めるしか無かったので、この案は即日ボツになった。


そればかりか、女の手を汚さなければ何も出来ないのかと却って(ののし)られる始末である。銀次は作戦立案通りに事を進める実行部隊長としては相当に優秀な男だったが、自分で考えて動くには血の巡りが良くなかった。


ところが失敗は成功の母という通り、ひょんな事から妙案を思いつく。子が七人も居れば、ひとりくらいコロッと傾き、言いなりになる者が居るだろうと想ったのだ。


この妙案にはお万も喜々として賛同する。あんたにしてはなかなかの案だとすぐに賛成した。なぜなら例えひとりでも仲間に引き入れる事が出来れば、一晩中、傍に居れる立場だ。


人ひとり亡き者にするくらい訳なく出来る。それに自分たちの手を直接汚さなくても済むから一石二鳥だった。


事が発覚しても、例え計画が失敗したとしても、ある事無い事を吹き込めば、自分たちの身は安泰である。もし仮にその弱味を握る事が出来れば尚更良い。


なぜならその弱味を盾に取り、口を封じる事も可能だからだ。けれども、そんな彼らの目論見とは裏腹に、子供たちの結束は強く、善壱に対する忠誠心も堅かった。文字通りの一枚岩である。


これには二人も参ってしまったが、お万がある時、女ならではの妙案を想いつく。それはちょうど思春期に当たる六太を女で籠絡しようというものだった。


六太は幸か不幸か兄弟の中では兄や弟が(うらや)む程に容姿に優れていた。今でいうところのイケメンである。だから本人にその気さえあれば、女の方から寄って来るに違いない。


銀次はお万と裏で計り、事ある毎に女の素晴しさを強調して、こうやれば喜ぶというような事を少しずつ言って聞かせた。


六太は初めのうちこそ馬鹿らしいとまるで相手にしなかったが、何を言っても思春期の若者である。心では判っていても身体が着いて来なかった。


二人はもうひと息と、今度はわざと自分たちの逢引きの現場を、偶然を装い見せた。これはある意味、危険な賭けだったが、本懐を遂げるためには多少のリスクは付きものと、決行を決めた。


これは面白いように当たる。何しろ知識だけは、銀次が切々と語り聞かせて仕込んである。それを目の当たりにした六太は、鼻息も荒らく、隠れて盗み見ているにも(かかわ)らず、その存在がはっきりと判る程だった。


これで止せば良かったのだが、浅はかなのが人というものだ。銀次は見図るように、今度は巷で流行していた夜這いの実態を教えた。


思春期の彼の目はキラキラと輝き、その夜から夜な夜な村落に出没しては、若い娘をものにして行く。一度知ってしまった喜びは、益々拍車が懸かり、彼の中ではもはや歯止めが効かなくなってしまった。


只、幸いな事には、その美貌と愛くるしい程の所作から、訴え出る者は居なかったので、六太に罪が及ぶ事は無い。ところがここぞとばかりに、銀次は善壱に六太が夜な夜な出掛ける事を(ほの)めかす。


あから様にそのものずばりを指摘せずに、鎌を掛けるところが味噌であった。けれどもそこまで言われたら、思春期を過去に経験した者ならば、嫌でも只ひとつの結論に辿り着くものだ。


そんな事に六太が夜な夜な興じているとは信じたくなかった善壱であったが、まんまと銀次の口車に乗り、後を付ける。そしてその実態を見てしまい、驚きと悲しみが同時に襲って来た。


武士の情けとばかりに、その現場は押さえなかったが、(つやつや)々とした満足そうな顔で引き上げる六太を垣間見た善壱は、次の夜にちょうどやって来た六太に釘を差した。


六太は全てを父に知られた事に驚き、(いきどお)る。二度としないと誓う六太だったが、善壱の表情は険しく、一晩中許しを乞い、ようやく今度だけは目を(つぶ)ると言われて一念発起すると、二度と女にうつつを抜かす事は無かった。


こうして銀次とお万の(たくら)みは、水際で崩壊したように見えたが、これは第一段回の罠だったのである。本当の罠はこれからだった。




身を処す事に手倣れて来た頃、六太は善壱に認められて、生活用品や食料品などの買い出しに出掛ける事を許される。勿論、これは許された者が交替で出掛けるもので、それはなるべく顔を晒す事を避けるための手段であった。


そもそも彼らだって人である以上は、食べなければ生きて行けない。畑で作るものだけでは生活そのものが成り立たないのである。


そして次の仕事に対する鋭気を養わせたい気持ちもあった善壱の、子に対する慈しみの心でもあった。その日、買い出すものを書き留めた六太は初めて街に出る。


傍に仲間が居れば余所見をしている暇など無いが、彼ひとりだったので六太は太陽の(さんさん)々と輝く下で、通りの賑いを愉しんでいた。


その時である。たまたま目の前を年頃の娘さんが通り過ぎた。こんな事を言うのは甚だ失礼な限りだが、彼女は彼がこれまで(ねんご)ろになった娘たちとはレベルが違った。


肌のきめ細やかさは勿論の事、目が大きく可愛らしい。両の眉は切れ上がり、鼻筋が立ち、日本髪を結っているので、うなじの曲線も美しい。何より白粉(おしろい)を塗った顔立ちは彼にとっては新鮮で、髪飾りなどの装飾品も彼女をひと際、美しく魅せる要因となっていた。


六太はすぐに彼女が気に入ってしまった。そして仲良くなりたいと想った。だから彼は無意識にも、いつの間にか歩みを進めてその後をつける。


そして彼女が大店の娘だと判った時には、気持ちが(くじ)けた。なぜなら、どう考えても彼とは住む世界が違ったからであり、気軽に声を掛けられるような相手でも無い。


喩え彼が声を掛けても、彼女はきっと嫌な顔をする事だろう。否…そればかりか、恐れ震えて逃げ出すに違いないのだ。村落で夜な夜な浮き名を流す事には慣れていた彼も、さすがに堅気の娘相手では勝手が違ったのである。


だから一度は諦め掛けた。正にその時である。娘の帰宅に、店の奥から旦那が掛ける声が聞こえて来た。


「お(せつ)、お帰り♪」


「お父つぁん、ただいま♪」


その瞬間、彼は身震いがする程、切なくなり、足早にそこを離れた。


『あの娘はお節というのか…可愛らしい声だったな!』


逃げるように離れながらも、六太はそんな事を想い詰めて、手前勝手に頬を染める。そしてその想いが、けして届かない事を身に沁みて感じ、張り裂けそうになる胸の痛みを無理矢理、封じ込める。


けれどもあの可愛らしい横顔を想い出すに連れ、諦め切れずにもう一度だけ会えればそれで良いと想い始める。


その想いはだんだんと彼の中で膨み、お節に声を掛けられる自分や、手を繋いで笑い合う二人や、口唇を重ね愛を確め合う瞬間まで脳裏に刻んで、身勝手にも心の中ではだんだんと(よこしま)な心が育ちつつあった。




彼は次第に、買い出しに出掛ける事を心待ちにするようになり、その機会を捉えては、お節に会いに行くようになる。但し、会うと言っても只々、遠目に見つめるだけに過ぎず、現実は彼が想い描いていたような妄想とは懸離(かけはな)れていた。


彼女は声を掛けてもくれないし、手を繋ぐ事も、ましてや接吻(キス)してくれる事も無い。


そりゃあ、何も行動を起こしていない訳だから、至極当たり前の事なのだが、想い詰めた彼の心はだんだんと激しく(うな)り、自分のこれほどの愛情を受け入れてくれない彼女に対して次第に憎悪すら感じるようになって行った。


それでも少し時が経てば、またお節に会いたくなり、再び深い愛情が揺り戻って来る。端から見れば手前勝手な愛情だとしても、六太自身は本気なのだ。


だから彼はお節に会えなくなる事だけは避ける必要があったので、根城に居る間は成るべくその心を人に悟られぬように重々気をつけていたのだが、男の深層心理に懸けては手練れなお万の前では、若造の心の内などすっかりお見通しなのであった。


六太がお節と五回目の逢瀬を済ました後の事である。逢瀬とは驚くばかりだが、それは端に六太がそう思い込んでいるだけであり、その実態は(ただただ)々遠くから見つめているだけの事なのだが、それはこの際、置く。


(いず)れにしてもその帰り道に、彼は背後から声を掛けられ驚く。何とそこにはお万の姿があったのだ。余りの驚きに立ち尽す六太をお万は(そそのか)す。


彼女は然も可笑しそうに笑いながら、六太にこう言った。


「何だい!てんでだらしない男だね♪生娘(きむすめ)ひとりに何を躊躇(ためら)っているのさ!」


お万はわざと六太の心を逆撫でする様に、あざけ笑った。


「ふざけるな♪あの人は、あんたの様な阿婆擦(あばず)れとは違う!」


そう怒りをぶつける六太に、お万は然も失礼だと謂わんばかりに金切り声を上げた。


「言う事欠いて、育ての母に失礼千万だね!何ならお前の横恋慕を善壱にぶちまけてもいいんだよ?さすがに二度目は許さないだろうね!お前は確実に処分されるだろうさ♪それでも良いのかい?」


お万の目は笑っていない。その瞬間、六太は発覚を恐れて躊躇(ためら)う。


「否…それは…」


もはや言葉にも成らずに、(おび)えた目で育ての母を眺めるのみだった。それを認めたお万は、身体ばかり大きくなっても所詮は何も知らないガキんちょだと、せせら笑う。


そして(おび)えるだけの小羊に、引導を渡す代わりに甘い汁を吸わせてやろうと、にじり寄る。お万は六太の耳許で(ささや)いた。


「悪かったねぇ~♪冗談だよ…冗談!あたしはお前をこの手で育てたんじゃないか?あたしはいつでもお前の味方さ♪勿論、この事は黙っててあげる。それよりも甲斐性がないのは玉に傷だねぇ♪お前のためにこのお万さんがひと肌脱いでやろうか?まぁお前さえ良ければの話だけどね♪」


お万は前言を撤回すると、悶々としている六太に逆に協力を申し出た。売り言葉に買い言葉でついつい本音が漏れてしまった六太は、正直戦々恐々としていたのに、義理の母親の優しい言葉についつい(ほだ)される。


「お万さん本当かい?」


彼は反射的にそう吐露した。この瞬間、『掛かった…』とお万は喜ぶが、勿論そんな事はおくびにも出さない。そこいらは、経験不足の小羊とは訳が違った。


敵は味方の振りをする。特にそれが血の繋がりが無いとは謂え、かつては赤子の時から何かと面倒を見てくれた相手なら、尚更である。


義母に対して阿婆擦(あばず)れ等と、暴言を吐いてしまったのも手伝って、六太は完全に受け身と成ってしまった。本来は慎重を期さねばならない相手に、却って胸襟(きょうきん)を開いてしまう。


こうなると素直さが取柄の彼は、敵を味方と取り違えてコロッと騙され、その口車に乗ってしまった。


「本当だともさ♪母さんは嘘はつかないよ!お前のためなら何でもしてやるよぅ~♪」


お万はここぞとばかりに、飛びっ切りの愛想の好さを見せる。この女狐は一筋縄ではいかなかった。何しろあの銀次でさえ、その手の平で転がす悪女である。


経験不足の六太など、端から相手になぞ成らなかった。おそらくお万にとっては六太など、軽くひと(ひね)りだった事だろう。


そのベテランのお(あねぇ)さんが、慎重には慎重を重ねて、万難を廃して取り組んでいるのだから、仮面を取っ払ってしまった獲物は丸裸も同然だった。


まるで鴨が葱を背負(しょ)ってやって来たくらいのものである。お万にとっては最早この生け贄をどう料理してやろうか考えるのみであった。


『その前に獲物は肥え太らせなきゃ美味しくないからねぇ~♪こりゃあ、都合の好い餌が居たもんだ!この際、追い込む道具に使わない手は無いよ♪』


お万はしめしめと上口唇をペロッと舐めた。


「今日のところは大人しく帰りな♪母さんが近々会ってみて、あの娘の気持ちを聞いてやるよ!それで良いね?」


優しさ溢れるお万の言葉に六太は食いつくように答える。


「うん♪判ったよ…頼むね?」


然ながら蜘蛛の糸に掛かった事に気づかぬ六太は安堵したようにお万を見つめた。


まさかこの優しい笑みを浮かべる義母が、裏では舌舐めずりしながら、真っ赤な大口を開けて獲物をひと呑みにしようと狙っているとは、この時の六太には既に考えようも無かったのである。


その日からお万の悪辣(あくらつ)な計画は始まった。勿論、情夫の銀次は既に彼女の手の平で踊る駒だから、馬鹿と(ハサミ)は使いようとばかりに、(ただただ)々言いなりだったので、二人の連携作業は順風満帆に滑ベり出す。


主に銀次の役目は自然に見えるように六太の外出機会を奪う事だった。そしてお万の不在を隠すという地味だが、重要な役割が振られた。


銀次も乗っ取り計画の成功のためだと想い込んでいるから、扱いやすく乗りやすい。彼は一から十まで全てお万の言う通りに動いてくれた。お万がお節を落とすのに掛ける時を稼ぐためである。


その仕掛けを当事者の六太に見られた日には目も当てられないから、上手く善壱の性格さえも利用して、その歯止め行為は慎重に行われた。


善壱もまさかそんな非人道的な行為が裏で進行しているとは露ほども想わないから上手く二人の手の平に乗ってくれる。


六太も善壱が絡んでいる手前、まさか二人の陰謀だとは想わないから、愛しのお節に会えない夜長を悶々として過ごした。


これには六太の欲を抑える効果さえも計算され尽くしている。我慢の限界に達した時、人がどのように動くのかという事なのだろう。


お万は銀次のアリバイ作りのお陰で、比較的、楽に拠点を出入り出来たので、お節に接触(アプローチ)するのも然程、困難では無かった。


彼女はまずお店の顧客となり、羽振りの良い大店のお妾さんを装う。支度金なら心配ない。押し込みで稼いだ金は善壱と銀次の共同管理となっているので、多少の出費は幾らでも誤魔化す事が出来た。


そして()に恐ろしきは女豹の化けっ振りである。化粧で小綺麗にし、高価な着物を羽織り、着飾った彼女を見咎める者など誰も居なかった。


その恰好だから、店の者たちもお万がどこぞのお妾さんだと噂し合うばかりで、完全に信じ込む。間接的にじわじわと本丸を目指すお万の落ち着き振りには、目利きにかけては定評のある旦那でさえコロッと騙されてしまった。


それにお万は用心深く、根岸に囲われ先を持っていたので、喩え後をつけられたとしても、何も心配はいらない。


当面のところ、ここは早変わりの拠点にもなるし、身許の保証にもなり、やがては惨劇の現場ともなるのである。そしてお万自身の当面の気分転換の場でもあった。




「お芝居でも見に行きませんか?」


お節と(ねんご)ろに成った頃に、お万はそう提案してみた。芝居は江戸の華で、年頃の若い娘は皆、行きたがる。それはお節も例外では無く、常日頃、年の頃の合う女友達から愉しそうに話を聞いていたから、渡りに舟だった。


悪い虫が付くと困るから、一切許さなかった旦那も、日頃ご贔屓(ひいき)にして下さるお得意様の申し出を、断わり切れずと謂ったところか。


(わたくし)が気をつけますので、心配は入りませんのよ♪」


そう言われた日にはすっかり安心仕切って、快く同行を許してしまった。お節もこの頃になると、すっかりお万に懐いている。


特に旦那も妻に早く死なれて二人切りの親子だったから、お万がどこぞの囲い者でなければ後添いにしたいと想う程だったので、お節が母親替わりにお万に懐いても不思議は無かった。


男やもめを籠落する事など、お万にとってはちょろいものだったし、七人の孤児をその手で育て上げた経験もこの際、大いに役に立ってくれたのである。


お万は芝居見物を通して、歌舞伎役者の鮫島源三郎にお節の気が向く様に、それとなく自然に誘導して行く。


お節は余りにも愉しかったものだから、また父やお万に連れて行って欲しいとねだる。旦那は癖になるといけないと危惧するも、お万の手前、断わり(にく)い。


ついつい(ほだ)されて、許してしまう。こうなったらしめたものである。


お万はニッコリと笑って、「良かったね、お節ちゃん♪」と()も共感してやっているように振る舞いつつ、心の中では「馬鹿な女!」と(さげす)んでいた。


敵は味方の振りをする。お万はここで駄目押しとばかりに裏工作をする。


芝居見物で知り合った鼻の下の長い男を巧みに利用し、男を介して源三郎を抱き込み、お節に目配せするように依頼したのだ。


源三郎は仕事柄、そんな頼まれ事は日常茶飯事だったので、何の疑いも持たずに依頼をこなす。要は絶妙なタイミングでお節にウインクしてみせたのだ。


お節は気に成り始めた折りのこのリアクションに、すっかり気に入られたと誤解してしまった。勿論、気づかぬ振りをして、お節の気持ちを(あお)る事も、この時お万は忘れなかった。


「あら♪源三郎様、お節ちゃんに気があるのかしらね?」


そう呟いた途端にお節は顔を真っ赤にする。


『あらっ…判り易い事♪』


お万はもう少しで吹き出しそうになるのを必死に(こら)える。こんなところで馬脚を露しては、今までの苦労が水の泡になるので何とか(しの)いだ。そして然り気無く、鎌を掛けてみる。


「私の知り合いに、源三郎様と懇意にしている方が居りますの♪良かったら、私の根岸の宿にお呼びしても宜しいのよ!お節ちゃんもお近づきに成りたいでしょう?」


これは悪魔の(ささや)きである。けれどもお節は、これまで散々ぱらお万に(あお)られて来たので、本気にしてしまった。


「本当ですか♪」


そう言って喜ぶ。


お万はこれで締めの段階に入った事を認識するも、より用心深く慎重に事を進めた。


「けどねぇ…こんな事が旦那に知れたら、(いく)(わたくし)でも出入り禁止に成ってしまうわね♪やっぱりこんな事、止しましょうね?」


お万は然も残念そうにそう(こぼ)した。どの口が言う…というくらいのものだが、当然これは本心では無い。


お節に限らず、後もう少しで得られたものに直前で蓋をされたら、誰だって(いきどお)るし、さらにその気持ちに火が付く。


そしてこれは(あお)りのみに(あら)ず、何かの不測の事態の時の保険でもあった。


(まこと)にずる賢い立ち廻りであるが、頭に血が昇ってしまったお節に、そんな懸念など想い浮かぶ訳もないので、すっかりお万の駒と化す。


「お万さんたら…そこまで言って、止めるなんて言わないで!お父つぁんにはけして言いません。黙っていますから、どうか私を源三郎様に合わせて下さい!後生ですからこの通り♪」


お節は懸命に頭を下げる。まさかそれが自分の命を削る事になるなんて、想いもしないから必死だった。


『掛かった…』とお万は喜ぶが、勿論そんな事はおくびにも出さない。


「けどねぇ…嫁入り前の年頃の娘さんでしょう♪私も何かあってはと想うじゃない!どうしても会いたいの?」


お万は当然、後ひと押しだと想っている。想ってはいるのだが、その言葉とは裏腹に困った顔をする。


全く自分から鎌を掛けた癖に、いい気なもんである。この場でわざわざ綱引きまでする必要性は最早(もはや)無いのに、好い人振って意地悪をする。


その割には「どうしても会いたいの?」等と真逆の事を言って、(かす)かな希望を持たせたりもする。表情には出さないものの、これが本来のお万の本性だから、それは仕方無かった。


究極まで引き絞った弦が、その後どうなるのかといえば、もう後は野に放たれるのみである。


「ねっ?ねっ?良いでしょう!?」


お節は手を合わせて再び懇願し、それは正に自らの首を縄に掛けたも同然だった。お万は仕方無いと諦め顔をしてみせた後に、渋々請け負う。


「判ったわよ!お節ちゃんには負けたわ♪その代わり、言う通りにしてね?」


お節はその言葉を聞くと、お万の首に抱きついて喜ぶ。彼女にしてみたら、誘導されたなんて微塵も想わず、自分の熱意がお万を動かしたと想い込んでいるから、その高揚感はお節の肌の温もりを通して、当然の如くにお万にも伝わった。


「お万さん…有り難う♪」


お節は嬉し涙でそう告げた。


『お節ちゃん…こちらこそ有り難う♪』


お万も遂に、行き着くところまで辿り着き、心の中で彼女に礼を述べる。それは事実上の死刑宣告を意味した。


お万はペロリと上口唇を舐める。そして素知らぬ顔で、「いいのよ♪貴女のためですもの…」と言った。




「首尾は上々よ♪」


お万は銀次にそう告げた。銀次もいよいよ長年の夢が叶うと鼻息が荒い。


「そうか!よくやってくれた♪」


そう言って労う。そのどさくさにお万を抱き寄せようとして、彼女に突き離されて我に返る。


そして続け様に強い口調で問い質された。


「あんたの方の首尾は?まさかしくじったんじゃ無いでしょうね!」


銀次はそうだったと想い直してすぐに答える。


「勿論、しくじる訳が無い!細工は流々さ♪お前だって儂の作戦実務能力は判っているだろ?知恵は無いが行動力は抜群だからな!」


銀次はどう考えても自嘲気味に聞こえるだろう事をサラリと宣う。恥を恥とも想わぬところが抜けているのだが、今更そんな事は重々承知のお万にとっては、最早どうでも良かった。


お万は再度、慎重に尋ねる。


「押し込み計画は当然として、箝口令(かんこうれい)と垂れ込みも大丈夫なんでしょうね?」


「勿論だ!押し込みは例の日の晩にやる。六太の事は、ある事、無い事、吹き込んであるから、善壱は今回は奴を使わんそうだ。だから六太には誰も言わんよ♪儂も六太の見張りをするという名目で、実行部隊からは上手く外れた。垂れ込みは当日、娘が出掛けた後に奉行所に届く算段よ♪それでいいんだな?」


銀次はそこまで打ち明けると問い返す。


「へぇ~♪あんたもやるじゃんよ!それで完璧ね♪それで密告先はどこにしたのさ?」


お万は銀次がちゃんとやる事をやっていたのでホッとしたものの、詰めが甘いと足許を(すく)われるので万難を排す。


銀次だけなら自業自得だから知ったこっちゃ無いが、下手を打って、自分まで巻き込まれてはたまらないので慎重には慎重を期した。そういう事に成るだろう。


「あぁ…それならこれ以上、打ってつけの所はないだろう。火付盗賊改方さ!あの神楽坂兵蔵に届くだろう♪」


「あはっ♪あんたもいけずね!わざわざ苦汁を呑み続けた先にするなんてさ♪まぁでもそれなら確実だ!一網打尽にされても、その時にあたしらが居なきゃ怖く無いもの♪この際、しっかりと引導を渡して貰いましょうね!」


「そうだな♪」


二人は笑い合い、やがて銀次が鼻息を荒くすると、今度こそご褒美とばかりに、お万は好きにさせた。


こうして後戻りは出来なくなった。




「お万さん♪本当かい?」


六太は散々待ち惚けを食らっていたので、満面の笑みを浮かべる。


「勿論さ♪母ちゃんがきっと繋いでやると言ったろう!これでもあたしはお前の育ての親だからね♪」


お万は大船に乗ったつもりで任せろと言う。


「その代わり母ちゃんの言う通りにするんだ!いいね?」


お万は念を押した。ガキの欲望を充たしてやろうと謂うのである。


無論、これも計画遂行には欠かせない歯車のひとつではあるが、やるなら徹底的にやらねば効果なんぞ無い。そのためにわざわざ今日まで禁欲させたのだ。


「うん♪勿論だよ!言う通りにする♪」


六太はやっとお節に会える喜びで、目の前がよく見えていない。言う通りに従えば、(さち)は勝手にやって来るのだ。


余計な手筈を整えなくて良いんだから、頭を使う必要は無いのである。只ひたすらに覚悟と行動力の問題だった。


『本当にうちの男共は馬鹿ばかりだね…これじゃあ、善壱兄さんが苦労する訳だ!』


お万は今回の事で、全ての網を張った自信からそう想う。もしかしたら私には、本来的に善壱兄さん以上の知恵があるのじゃ無いかしらと、感違いする始末である。


けれども確かにここまでは、お万の張り巡らせた蜘蛛の糸は着実に標的にされた者たちの首を真綿で絞めるように、じわじわと効いて来ていた。


お万は六太を連れ立って根岸の宿に連れて来ると、まず着流しに着替えさせ、髪をきちんと結ってやり、化粧まで施すと、元々顔の造りは整っているのだから、源三郎を横に並べても遜色の無いくらいの男前になる。


否…むしろ好みによっては源三郎など足許にも及ばないくらいの色気も漂って来た。


「ゴクリ…」


お万は無意識にも生唾を飲み込む。


これなら自分が囲ってやりたいくらいのもんだと一瞬、魔が差したものの、そこが銀次との違いである。お万は直ぐに想い直し、捨て駒に懸ける情は無いと素に戻る。


『それにしてもこの子は行く先を誤ったね…歌舞伎役者に拾われたら、さぞや幸せだったろうに!』


彼女はそう想いながらも、計画を引き続き断行する事にした。


「いいかい、六太!良くお聞き♪お前は奥の薄暗い部屋で待つんだ。お節ちゃんは必ず母ちゃんが連れて来てやる。声は判るね?」


「うん♪勿論さ!忘れるものか♪」


六太は自信満々にそう答えた。


お万はそれを聞いて安堵し、次にアプローチの仕方を教え込む。こうなって来るとまるで色町のやり手婆である。


「いいかい?お節にはお前の名前は源三郎だと教えてある。六太だと場合によっては足が付くだろ?そして長い事かけて好みの殿方の恰好を調べた結果、こういう事に成った。けどお前もそれでお節に好かれるんだから、我慢おしよ♪」


「判ってるよぉ~母ちゃん♪」


「あら…お前、あたしの事を母ちゃんて呼んでくれたね♪嬉しいよ!」


お万はほくそ笑みながらそう言った。


これなら間違いは犯すまい。お万は少し照れている六太を横目で眺めながら、成功を確信した。


「ここからが大事だから、よくお聞き!お節を連れて来たら、あたしは何かと理由をつけて出掛けるから、二人切りにしてあげる。でもいいかい?名前を呼ばれて入って来ても、お前は迎えに出ちゃいけない。こっちにおいでと繰り返し伝えて、この部屋まで導くんだよ!入って来たら抱きしめてやって、口づけのひとつでもしてやんな♪但し、あの娘は堅気の生娘だ!優しくしてやんな♪いいね!」


お万はわざわざそう注文をつける。


ここまでは計画通りだ。最終的に下手を打たないように、慎重さは植えつけるが、最後は見込み通りに動いてくれなきゃ意味が無いから、欲望を押さえ付け過ぎるのも却って良くない。


それに成り行き上、自分の身の安全を謀るためにはその場に居ない必要性はあった。他力本願には成るが、そのため我慢を長期間に渡って強いて来たのだ。


今は六太の男の本能が巧く爆発してくれる事を祈るのみだったのである。


「良く判ったよ!母ちゃん♪」


六太は何も知らずにそう答えた




切々と六太を言い含めると、お万は六太を宿に残して今度はお節を迎えに行く。こればかりは使いを寄こすと擦れ違いなどが起きないとも限らない。


それにお万の信用で外出させる他に手立てが無いので仕方無かった。それに早く迎えに行き、計画通りに進めないと、今度は銀次の計算を狂わせてしまう。


あのおたんこなすが不測の事態に対処出来る訳が無いので、お万は急がざる逐えない。成るべく息を切らさないように歩みを進めると、もうお節は店の前で待ち佗びていた。


この日のためとばかりに、普段よりも良い着物を身につけ、口許に紅すら引いている。お万は遠目越しにもクスリと笑い、この後、待ち受けている運命を頭に浮かべて苦笑う。


けれどもそんな事はおくびにも出さずに、大人の女の包容力を見せた。


「お待たせ!お節ちゃん♪遅くなって悪いわね!じゃあ、早速行きましょうか♪旦那、お節ちゃんお預かりしますね?」


お万は落ち着き払って娘を借り受け、まんまと連れ出す事に成功する。


今夜は一緒にお月見しようとの約束を取りつけてあるので、夜までに帰らせる必要は無かった。ここまで信用させるのに、どれだけの苦労をした事だろう。


何しろ、これが初めての外泊と成るのだから、きっちりと嵌め込む必要がある。失敗は許されないのだ。まさに矢は放たれたのである。




お節は既に何度か根岸の宿には遊びに来た事があるので、初めての道行きでも無い。だから安心してのこのこと付いて来る。


今までは陽の明るいうちに帰らせていたので泊まった経験はまだ無かったが、何度目かの来訪の時に、満月がとても綺麗だと鎌を掛けると、向こうから乗って来たので渡りに船だった。


それでもわざと何度か断わり、辛抱させた上で漕ぎ付けたので、どちらかというとお節の方が乗り乗りだった。しかもその上、源三郎まで付いて来るのだから、愉しいに違いない。


お節はお万と源三郎と一緒に満月を愛でながら、一献やる事まで想像している。少し背伸びして、大人に成った気分すらしていた。


やがて根岸の宿に着くと、お万は六太と示し合わせたように、お節とは一旦、別れる。


こんな瀬戸際になって、事情をぐだぐだと説明したら、万が一にも怪しまれないとも限らないので、お万は店を出るなり、道中の中で源三郎に使いを頼まれた事を強調していた。


その後、色んな話をしながらやって来たので、到着する頃にはすっかり忘れていたお節だったが、「じゃあ、すぐに帰るわね♪」と言われて思い出す。


「お万さん…まっ」


お節は「待って…」と声を掛けそうになって、想い直す。


彼女はそもそもまだ男を知らないウブな生娘(おぼこ)だ。仄かな恋心と大人への憧れから、勢いのままにここまで来てしまったが、本当は男の人と二人っ切りに成るのはまだ少し怖い。


なぜならば、まだその経験が無かったからである。けれども好きな人と二人っ切りに成れる機会など、これを逃がせばまたいつ来るか判らない。


それにお節の気持ちに応えて、源三郎様が忙しい中、わざわざ足を運んでくれたのである。そう想うと切なく、男の人の愛情に身を委ねてみたいと想う気持ちが(わず)かに(まさ)ったのかも知れなかった。


彼女が声を掛けそうになり、想い止まったのは、既にここまで来てしまったのだからという気持ちも強く働いていたのだろう。それにあれだけ決行を想い止まらせようとしてくれたお万さんの(いさ)めを振り切り、連れて来て欲しいと頼み込んだのはお節自身だった。


仮にもし、ここで帰りたいと言えば、お万さんなら許してくれるだろう事は、お節にも判っている。それだけ彼女を信頼しているからだ。


けれどもこの時はむしろその信頼が歯止めになり、正しい判断が出来なくなっていたに違いない。否…そもそもお万を信じた事そのものが間違いなのだが、それを糾弾するのは少々気の毒だと謂える。


相手が一枚も二枚も上手なのだから、世間知らずのお節など、お万からすれば今まさに卵の殻を破り、出て来たばかりのひよこそのものに見えた事だろう。


要は生かすも殺すも胸先三寸という事である。


「否…何でもありません!早く戻って来て下さいね♪いってらっしゃい…」


結果として、お節は先に進む事に決めた。それは怖さに打ち勝ったからではない。心の中の葛藤は未だに続いていたものの、夢見る年頃の彼女にとってみれば、僅かに好奇心が勝ったのだろう。


頬を仄かな朱色で染めるお節を横目に眺めながら、お万は出掛けた。そして角を曲がる時にチラリとお節を観やると、ニッコリと微笑み、着物の袖口からチョコンと手を出し振る。


そして弾む様な足取りで間も無く見えなくなった。お節は途端に胸の鼓動が激しくなるのを感じて落ち着かない。


けれども源三郎を待たせる訳にも行かず宿に入った。




六太はお万がお節を迎えに行った後、手持ち無沙汰になり落ち着かない。いよいよお節に逢えるのだ。もう長い事逢っていない。


まさに一日千秋の想いで今日の日を待ちわびていたのである。何度も胸が押し潰されそうになり、その都度、気持ちを振り絞って堪え忍ぶ日々を過ごして来たのだ。


そしてようやく彼の想いは果たされようとしている。彼は今日こそ自分の想いを遂げようと固く決意していた。


これだけ忍従の日々を過ごして来たのだ。必ず気持ちを果たせる。お節だって自分を待っていたに違いない。彼は拒否される事など全く念頭に無かった。


ガララッという木戸が開く音がして明らかに人の気配がしてくる。そこはかと無い微かな息遣いが彼にも伝わって来た。


やがて畳を伝う足の音が聞こえて来て、こちらに近づいて来るのが判る。そしてその息遣いと共に仄かな甘ったるい好い匂いが漂って来た。


『お節さんだ…』


六太にはすぐにそれが判った。お節の白粉(おしろい)の匂いは研ぎ清まされた六太の神経を強く刺激し、彼の五感を掻き立てる。


六太は逸る気持ちを必死で抑え様とするが、彼の気持ちとは裏腹に心臓の鼓動はドックンドックンと身体の芯を痺れさせ、制御しかねた。


そそる気持ちが先に立ち、(たぎ)る想いが押し出されて、彼は被りを何度も振る事で自らを戒め様と抗う。すると調度その時に、愛しの人の声が聞こえた。


「源三郎様…源三郎様、どこにいらっしゃるのですか?」


その声に六太は想わす我に返る。


『源三郎様?』


そう聞いた瞬間に彼は一瞬萎える。愛しの君が自分では無い男の名前を読んでいると想ったのだ。


けれども次の瞬間に六太は苦笑う。


『そう言えば…お万さんに言われたんだっけ?』


六太は今は源三郎なのだ。それは本名を明かさない用心のためである。彼は六太の異名で盗賊をやっている以上、身許は明かせない。お万はそれを用心のためとそう言ったのである。


そして彼は同時にお万に言われた事を思い出す。けして持ち場から離れて迎えに出てはいけないのだ。薄暗い蝋燭(ロウソク)の火くらいなら、顔ははっきりと判るものではない。


これはお万の用心深い配慮だったのだが、六太もそこまでは聞かされていない。なぜなら、彼は源三郎に変装している訳では無く、そう名乗るだけとしか聞かされていなかったからである。


お万の用心深い立ち回りも、こうしてみるとやや苦しい。なぜなら六太の行動如何では身許などすぐにバレてしまうからだった。


六太はお万に言われた通りに、「こっちだよ♪お節さん、僕はここに居るよ!」と奥の部屋から声を掛けた。


『源三郎様…?』


お節は源三郎と実際に直接話した事は無いとは謂え、その言葉尻に違和感を覚えた。但し、それはまだ輪廓のはっきりとしないお節の勘である。


彼女は舞台を通して耳にしていた声質に関してはまるで気にしていない。これはお万から日頃の会話の声とは違うという様な物知り知識として仕込まれていたからだ。


何という悪魔的な段取りだろう。彼女は六太の身許がバレぬ様にその理由付けを自然とお節に与えておく入れ込み様だった。


それはここまでは上手くいっている。少なくともその筈であった。




お節は襖の前で歩みを止める。もう愛しの源三郎様との間には薄い襖一枚となった。彼女は胸の鼓動を抑えながら、問い掛ける。


「源三郎様…入りますよ?」


「えぇ…どうぞお入り♪」


六太も必死である。成るべく自分を好く見せようと明るく答えた。


「失礼します♪」


そう言って襖を開けた瞬間、お節は驚く。奥座敷は薄暗く、蝋燭(ロウソク)の怪しげな明かりだけなのだから、年頃の若い娘の心の蔵はドキリと高鳴る。


けれども確かに自分が舞台で遠めに眺めた源三郎は、ちゃんと目の前に腰掛けていた。少なくともこの時点ではお節もそう認識していたので、相手に失礼があってはならない。


何か事情があるのだろうと忖度した。彼女の優しい心根がそうさせたのだろう。


「源三郎様…なぜこんなにお座敷を暗くされているのですか?」


彼女は尋ねる。すると六太は咄嗟に自分の気持に素直に答えた。


「御免ね、お節さん!お互いに初対面で恥ずかしさがあると想ったのです。いけませんか?嫌なら戸を開け放ちましょう♪」


この源三郎の言葉に(やま)しさは感じられない。それに襖を開けた事により、奥座敷の中にも程好い光が入って、怖さも少しは軽減された。


そして目の前の源三郎は嬉しそうな笑顔をしている。お節はすっかり安心して敷居を跨いで座敷に入ると、チョコンと源三郎の前に座り込む。


すると源三郎は優しくお節を抱き寄せ、「心配入りませんよ♪ゆっくりでいいんです。僕の鼓動が聞こえるでしょう?僕も貴女と同じでドキドキしてます。でもやっと貴女と一緒にお話出来るから待ち遠しかった…」と耳許で呟いた。


これにはお節も感激してしまった。あの源三郎様が自分をこんなに待ってくれていたばかりか、この機会を喜び、待ち遠しかったというのだから、同じ気持ちだったお節も嬉しくなった。


だから彼女は自分から勢いのままに抱き着く。すると源三郎は急にモジモジしてしまい、声が出ない様だった。


そして余りにも身体をギュッと密着して来るお節を持て余す。抱き寄せた手はいつの間にか離れて、困ってしまった。


すると今度は大胆にもお節の方が積極的になり、「もっとギュッと抱き締めて!」と言って迫って来る。


そして六太が言われるがままにギュッと抱き締めると、お節はその雰囲気のままに目を止じて、可愛らしい口唇を突き出し何かを待っている。


その口許は薄い紅が引かれて何とも艶めかしい。六太は吸い込まれるように口唇を重ねると、居ても立ってもいられずに押し倒す。


お節は「ひゃ~!」と言って、驚きの余り、男の胸に手を当てて抗う。けれども六太の手は既に腰元にあり、鼻息も荒い。


次の瞬間、「源三郎様、止めて下さい…」そんな泣き叫ぶ声が耳に突き刺さった。




六太は我に返った。知らぬ間にお節を押し倒し、その腰に手を掛けている自分に驚き、彼は腰を抜かす。


「お節さん…すみません!そんなつもりじゃ…」


六太は起き上がると「すみません、すみません…」と言って、土下座を始める。こうなると雰囲気も何もあったもんじゃない。


むしろ男の想いのほか強い力に怖くなり、抵抗したお節の方が呆気に取られてしまった。その時にようやくお節は気づく。


この人は源三郎様では無いと…。


「貴方はいったいどなたなの?」


恐る恐るお節は尋ねる。こうなると申し訳無さも手伝って、六太もついつい口を滑らせてしまった。


「すみません!僕は六太と言います♪貴方をひと目見た時から好きになってしまって…こんなつもりじゃ無かったんです。貴方を遠くから見守るだけで良かったのに、しでかしました!本当に御免なさい。もう二度としません…」


(たたみ)(へり)とはいえ、(ひたい)を叩きつける六太に、お節も初めこそ呆っ気に取られていたが、その心根がけして悪い人では無い事に気づき、はっと我に返ると歩み寄る。


「頭を上げて下さい!貴方が悪い人では無いと判りましたから…でも事情を御存知なら教えて下さい。これはいったいどういう…」


お節も源三郎が居ない時点で薄々はお万に(かた)られた事には気づいている。


あんなに良くしてくれた感じの好い女性が、自分を見ず知らずの男と二人切りにして体よく逃げてしまうなんて想いたくも無かったが、この目の前に居る男が源三郎様では無い以上、頼まれ事をしたという外出も嘘に違いない。


即ち、これは端から計画通りだった事になる。お節が察しが良いとか悪いとか言う前に、ここまで来ると女性ならではの勘が働く。


よくよく考えてみると、そう謂えばと思い当たる節が無い訳でもなかった。信じているからこそ多少の違和感は素通りするものだが、そうで無ければ恣意的に感ずるものなのだ。


お節はまんまと恋心を利用されたのだと想い腹を立てたものの、ふと自分が薄氷の上に立っていたのに気づき寒気を覚える。


この人がたまたま理性の働く人で無ければ、今頃自分はどうなっていた事か。自身の軽はずみな行動も良くなかったのだと彼女は反省していた。


六太は咄嗟に欲望の赴くままに行動した自らを恥じていたので素直に応じる。それが自分に出来る精一杯の償いだと想い、ひたすら従順だった。


彼はお万が自分の育ての親であり、そう指示された事を伝える。そして自分も軽はずみに便乗した事を詫びた。


お節は自分の想像した通りだった事に再び驚く。そして何かその行動に引っ掛かるものを感じていた。


『お万さんはここで私を餌食にして、いったい父上にどう詫びるつもりだったのかしら?』


彼女が最初に思い浮かべた事はそこである。


お節は確かに大店の娘として大事に育てられていたが、一人っ娘であった事が逆に幸いした。否…彼女自身に跡継ぎとしての自覚があったのだろう。


淡い恋心を逆手に取られた彼女だったが、社会性が無い訳じゃなかったのだ。だからお節は咄嗟に六太にこう言った。


「六太さん!すぐにここを出ましょう…お万さんはきっと抜け目の無い人でしょう?計画通りに行かなかったと知れたら、貴方も私もおそらく命は有りません!それにお店が…父上が危ないのです。きっとお万さんの目的はお店です。襲うつもりなのです!」


これがお節のつたない社会性から導き出された結論だった。これには六太も面喰らった。成り行き上、かなり信憑性があると想ったからである。


お万という人は育ての親とはいえ、銀次叔父と関係を持ち、悪知恵の働く女だった。自分はいつでも勝ち組で、負ける事を極度に怖れた。


そして義父の善壱からは何も言われていないが、兄弟の行動を如実に観察していれば近々、盗み働きが行われる事は六太にも判る。


何らかの罰で自分は外されたのだと想い、大人しくしていたが、こうなると理由は最早(もはや)明白だった。


そう…彼の役目はここで愛する女性を汚し、処分させられるという駒だったのである。あのお万の考えそうな事だ。


義父の善壱は殺生を御法度にしていて、それこそきつく戒めている。但し、銀次とお万はそうでは無いだろう。


彼はここに至って初めて、自分の想いを体よく利用された事に気づく。六太も馬鹿では無いから、お節の言葉の真意を上手く飲み込む事は出来た。だからすぐに賛同した。


「判りました、お節さん!では裏木戸を抜けてそっと出ましょう♪さぁ、早く!」


六太はまるでお節を守るように導き、裏木戸から巧みに抜け出す。こうして彼ら二人は忽然と根岸の宿から消えた。


それはまるで端からそこに存在していなかったくらい見事だった。




六太は人目を(はばか)りながらも、お節の手を引き慎重に進む。ここでお万とかち合えば、全ては水泡に帰すから彼も必死だった。


一方のお節はそんな六太を頼もしく想っていた。自分の事も勿論あるだろうが、お節を逃がすために懸命になっている。


そこに男らしさを感じてキュンと胸が踊った。まるで好いた男と駆け落ちしているみたいに頬を赤く染める。


けれどもそんな自分に気づいて苦笑う。この人はお万さんが仮にも育てた子であり、殺生はしないまでも盗人なのだ。


自分とはおよそ駆け離れた存在であり、けして関わりになってはいけない人である。理性ではそう判っていても年頃のお節の胸は否応なく高鳴る。


彼女の手を握る六太はというと、その緊張からか蟀谷(こめかみ)からじんわりと汗が(にじ)んでいる。その表情はキリッとしていて美しい。


その時、女の生まれ持っている母性本能が彼女の心を(くすぐ)り、彼の気の毒な身の上を憂い、何とか立ち直らせたいという気持ちにさせた。


彼女はハッとなり、今はそんな事を考えている場合じゃないと我に返る。けれども今この時は六太を信ずるしか助かる道は無く、もう一度信じてみようという想いにさせた。


だから彼女はその身を任せる。二人は手に手を取り合い、ほうほうの体で逃げ切った。


六太は手馴れた様に神社に彼女を連れて来る。そして神主さんを訪ねると頼み込んだ。


「おや?お前さんはこの前、絡まれたお人を助けてくれた六太じゃないか!今日はどうした?息せき切ってどうしたのだ!」


神主さんの言葉は見るからに優しい。どうやら面識があるらしかった。六太は渡りに舟と口をつく。


禰宜(ねぎ)様♪この娘が命を狙われて困っております。なるだけ迷惑は掛けませんから、どうかしばらく(かくま)って頂けませんか?後生ですから宜しくお願いします♪」


六太は低姿勢で頭を深々と下げたので、神主は喜々として答えた。


「そらぁ厄介な事だが、お前さんの頼みなら引き受けよう♪何しろお前は鶴屋さんを助けてくれなすった。お陰様で、氏子(うじこ)を救えた儂の面目も立った。この娘かい?おゃおゃ…こりゃあ、驚いた!そちらは鶴屋の娘さんじゃないか?こんな偶然あるのかね!」


神主さんの言葉は六太のみならずお節も驚かす。


特に六太任せで逃げて来たお節は気づかず、禰宜(ねぎ)様のお顔を見て初めて気づき声を上げた。六太も違う意味で驚き、同時に声を上げる。


「あら!本当♪じゃあ、父上を助けたのは六太さんだったのね?」


「えぇ!?…君は鶴屋さんの娘さんだったの?」


そんな同時多発的な驚きで、二人はこの時、互いに親近感を感じた。


「おゃおゃ…これも神の思し召しじゃのぅ~♪そういう事なら話しは早い!喜んでお役に立たせて貰うとしよう♪それにしても、先程のお顔は尋常では無かったな…良ければ儂に話してみんか?けして悪い様にはせんよ!」


神主様のその言葉は、困り果てた二人にとっては救いとなった。けれども六太はお節のためにも、自らの出自を正直に切り出す把目になる。


それでも彼の心は却って晴れやかで、動じる素振りすら見せなかった。そして神主も伊達に神にお仕えしてはいない。


少々びっくりはしたようだったが、この若者の根が正直で、その善良さも先般の手助けの折りに判っていたので戸惑いは無かった。


しかしながら、六太が自ら鶴屋に知らせに行く事には反対した。


「お前さんの気持ちは判るが、いくら何でも危険過ぎる!そのお万殿や郎党らに出会(でくわ)したらどうする?血の繋がりは無くとも、長く生計を共にしてきた身内だろう。お前さんの事だから、きっと彼らの気持ちに(ほだ)されよう…それにそのためにお前さんが犠牲になれば、この娘の心にも深い傷が出来る。自分を助けたために人が亡くなれば、誰だってその悲しみは深いものじゃ♪そうであろう!」


さすがは伊達に神主をしていない。そこには先を見裾えた的確さがあった。


これには二人も承服するしか無い。結果として氏子の事は任せよと、神主様が跡取りの息子に書を持たせ鶴屋に行かせる事になった。


「任せて下さい♪よもや真っ昼間から押し込みも無いでしょう?安全を期しますから大丈夫!」


神主共々、神の下僕たる息子も涼しげな顔でそう応えた。




こうして二人は神主に(かくま)われて安全となる。神主は口には出さなかったが、お節の顔を見れば、彼女が六太に(ほだ)されているのは明白だ。


彼女の気持ちに立てば、六太を店にやる訳にはいかなかったのである。その代わりとして、神主は少々手厳しい事を口にした。


「六太よ!御主も改心する時ぞ…切っ掛けはどこにでもあるもんじゃない。お節殿を助けた今こそ、変わる時と心得よ!いくら殺生はせぬとは謂え、盗みは正道とは言えぬ。ゆえに親兄弟といえども助ける事は許さぬ!ちゃんとした罰は受けて貰う。但し、神にもお上にも慈悲の心はあるじゃろう♪息子には今夜、鶴屋に留守にするよう伝えさせた。それは奉公人に至るまでそうさせるつもりじゃ♪そしてこの事は、火付盗賊改方の神楽坂様にも伝えさせた。おそらくは今夜、仏の善壱一味も一網打尽となる。後はお上の判断じゃが、神楽坂様は人足寄せ場を設置するほど、無宿者たちの更正に力を入れるお方♪まぁ元々、寺社支配は老中の管轄する所じゃ!その老中采配となると、火付盗賊改方に必然的になるでのぅ~♪儂からは細やかではあるが、慈悲を願うとしようか!まぁ手段を選ばぬ連中にはその限りでは無いがな?そしてお前もけして只では済まぬだろう…肝に命ぜよ♪」


神主がそう言うと六太は即答する。


「えぇ…勿論、心得ています!」


その目は真っすぐに禰宜(ねぎ)を見つめる。覚悟を決めた爽やかな顔をしていた。


むしろこれにはお節が戸惑う。


「えぇ!?…六太さんも捕まるのですか?」


そう言って驚く。


「有り難う心配してくれて…でもお節さん、僕は悪い事をして来たんだから当然です!あの時、貴女の声で我に返らなければ、もしかすると君に手を掛けていたかも知れないんだ。それを想うと自分でもぞっとする。ちゃんとお上の裁きは受けるよ!後は運を天に任せたい。僕がそうしたいんだ!良いね?」


お節は六太にそう言われては、返す言葉が無かった。だから黙ったまま頷く。それが精一杯の計らいであった。


神主も六太の覚悟に優しげに頷く。手心を加えたい気持ちはあったものの、それは神が赦さず、お上も許さずである。


中国の故事には「天知る地知る彼知る我知る」という言葉がある。まず天が見ている。地が見ている。貴方も知っているし、私も知っている。悪業が漏れぬ筈は無く、必ず報いはやって来る。


そういう戒めの言葉だった。六太もお節も禰宜(ねぎ)様の有り難い言葉に、返す言葉を持たずにその運命を受け入れるほか無かった。




さてお万である。彼女は適当に時間を潰すと酒の肴を仕入れて、頃合いを計り根岸の宿に戻って来る。


但し、表から戻るのは禁物だ。お万に負い目が無ければ堂々と戻るところだが、彼女の計画では今頃、中では大惨事が起きている筈だった。


お節は汚され、既に亡くなっているだろう事は想像に難くない。六太は後を追おうが、逃げ出そうが、彼女にしてみたら大した事じゃ無かった。


どちらも想定内であり、その後の行動は心得ていた。むざむざ死に切れずに生き残っていれば、改めて引導を渡せば良い話だ。


但し、怒らせてはいけない。適当に逃がしてやって、後でチクれば済む話しで、窮鼠猫を噛むような事は、彼女としても願い下げだった。


お万の頭は常に自分を守る事には特化していて、要は自己中心的なのである。


そんな彼女も裏口から入る時には「今、帰りましたよ~♪」などと、どこから出したか判らぬ描撫で声で足を踏み入れた。あくまでも用心のためである。


正体はなるべくギリギリまで明かさぬ方が良い。これは彼女自身の身を守るためでもあった。ところがである。


部屋に足を踏み入れた途端にお万は絶句した。驚くのも無理は無い。そこには遺体どころか、人が存在したであろう気配すら無かったのだ。


彼女は急遽、(いき)り立つ。まるで癲癇(てんかん)にでも成ったように、発作を起こした。


『何だ…?あいつら逃げやがったな!』


彼女自身はまさか綺麗な顔立ちの自分がそんな表情をしているとは露程も想わなかったに違いない。けれどもその(つら)は正に夜叉(やしゃ)の如くだった。


「この野郎!いったいどこに行きやがった?」


お万の怒り様は手が付けられない程に凄まじかった。ここまで漕ぎ着けるのに、いったいどんだけ手間暇が掛かった事だろう。


面倒臭い事を承知で取り入り、慣れぬ描撫で声で、小娘と爺にその心血を注いで来た事が全て徒労に終わったのだ。


しかもそのために湯水のように(はた)いた大金も無駄に成る。そのやり切れぬ罵詈雑言を彼女は愚息に向けた。


『あの出来損ないの煩悩野郎!育てた恩を仇で返しやがった!!』


もはやそこには悪知恵の働く冷静な悪女は居らず、冷酷無比な只の恨みの(かたまり)が残った。お万は鬼女と化すとその勢いのままに根岸の宿を飛び出し、辺り構わず走り出す。


けれどもその焦る心は益々捜索にも齟齬(そご)を来たし、逐には徒労に終わった。六太の勘が冴えていたのも在ったろうが、出入りの厳しかった根城にあって、彼がよもや神社の禰宜(ねぎ)と面識があった事は許より、鶴屋と偶然に知り合っていた事など知る由も無い。


上手の手から水が漏れるとはまさにこの事であった。こうなっては仕方無い。ようやく遅ればせながらも落ち着きを取り戻したお万は、苦虫を噛み潰しながらも根城に逃げた。


つい先程までは、六太にこそ逃げ場は無いと想い込んでいたのに、結局のところ、それはお万も大差は無かったのである。否…むしろ偶然とはいえ、六太の善意の心が彼に逃げ場を与えたのだと謂えよう。


そしてお節を救いたい一念が、彼を禰宜(ねぎ)の許へと導く結果となった。それに引き換え、お万には根岸の宿の他には根城しか無かったのだから、その報いであろう。


惨事の現場を兼ねていた筈の根岸の宿は、こうしてみると一番足を踏み入れるには危険な場所となった。選択技は必然的に限られて、お万の命綱はもはや一択あるのみだった。




根城に戻ると、お万は慌てて銀次の許に飛び込む。銀次としてもこんなに早くお万が帰って来るとは想定外だったので、すっかり安心し切って惰眠を(むさぼ)っていた。


それというのも、善壱の盗み働きには必ずそのための拠点が設けられ、主に標的の大店に近い廃屋などを選ぶ。そこに実行者は必ず早目に前入りするので、一味は既に銀次しか根城に居ない。


だから夜までに荷を畳んで、その夜陰に乗じて落ち合い、一緒に逃げ延びる手立てだったのだ。けれどもそれはあくまでも銀次の予定であり、お万の腹積もりでは無かったのである。


彼女ほどの女傑が、銀次の様な能無し男にいつまでも依存していると想ったら、それは大きな間違いである。お万の立場に立ってみれば、それは(すこぶ)る明らかだった。


なぜならば、分け前は多い方が良いに違いなく、端から自分の言いなりに成るさして頼りにならない男と、立て前だとしても平等に果実を分け合う気など更々無い。


巧く転がせるだけ転がし利用したら、隙を見て縁を切る事すら念頭に在ったのだ。そんな訳だから、自分の意に反して準備を(おこた)っている現場を押さえたお万は、烈火の如く激怒した。


「あんた…何やってんだい!準備は終わってるんだろうね?」


銀次にしてみたら、とんだとばっちりである。戻って来る予定を早めたのはあくまでお万の勝手だが、それで怒鳴り散らされた日には敵わない。


只、銀次も存外女にはだらしない男だったので、その味を知った手前弱腰だった。


「どうした…何かあったのかい?偉く早い御帰還じゃないか!まだまだ動くには明るい時分だ…」


銀次はようやくそこまでは言った。けれどもまだ準備が終わっている訳じゃないから、ここはどうしても及び腰と成る。


そこにお万の金切り声が突き刺さった。


「何だって?どいつもこいつもこの私をコケにしやがって!まだやって無かったのかい?あんたの馬鹿さ加減にも愛想が尽きたね!六太の奴がしくじったのさ♪私の言う通りにすれば良いものを、女と逃げやがった!いずれここにも手が回るだろうから早くするんだ。あんただってまだ獄門台に上がりたくは無いだろう?」


そう怒鳴るお万に銀次も辟易としてしまっている。しかしながら言っている事には間違いは無い。


逃げ切った後ならまだしも、早目に事が露見すれば我が身も危ないので、彼も慌てて動き出した。


あわよくば総取りを狙っていたお万の目論見はもはや風前の灯に見える。そんな中でもお万はまだ諦めてはいなかった。




一方、禰宜(ねぎ)の息子は娘さんの無事を伝える傍らで、事の次第を鶴屋に明かし避難を促す。お万の事を信じ切っていた鶴屋は驚くが、信仰心の高い彼はすぐに手を打った。


差し障りのない理由をつけて、店の者にはそれぞれ用事を言いつけたのである。そして明日の昼まで戻って来ぬ様にきつく言い含めた。


そして彼自身も最後に店を後にしたら、(しゅくしゅく)々と去る事になった。


その足で禰宜(ねぎ)の息子は、火付盗賊改方の神楽坂兵蔵を訪ねる。ところがその神楽坂はすでに準備万端整えていた。


兵蔵は快活に笑いながら応じる。


「あぁ…禰宜(ねぎ)殿のご子息か!その件なら心配はいらぬ。元々内偵はしていたのだが、つい先ほど密告(チクリ)があってな♪既に一味は見張らせている。ご安心召されい…」


火付盗賊改方が既に目を付け、内偵中だったのには驚いたものの、彼は父から受けた務めを無事に果たす。こちらはこちらで得た情報を伝えたのだ。


即ち、今回の絵を描いたのがお万である事。お節と六太を保護している事。鶴屋は避難させ、誰もいない事などである。


兵蔵は慌てる事なく、落ち着き払っており、最後まで真摯に耳を傾けると笑みを浮かべた。


「話しは判った。ご助力に感謝すると禰宜(ねぎ)殿に伝えてくれ♪その六太とやらも、その様子なら無茶はするまい!そうだな…明日の午後にでも連れて来なさい。話を聞こう♪」


その言葉に、名代である彼もひと安心と吐息を漏らす。やがて時は夜を迎えた。




火付盗賊改方は老中支配の官職である。元々江戸の町には南と北に町奉行所があったが、宝永の富士山の大噴火以降、溶岩流が流れ込んだ先では田畑が荒れ、家屋も壊され、そんな被災民を中心とした者共が江戸の町に流れ込んだ。


これが無宿者と呼ばれる人々の始まりである。彼らは働こうにも定住先も戸籍登録すらない。なぜなら定住先から身ひとつで逃げ出して来た抜け人だからだ。


さらには農地で働いて来た彼らには、他に手に職が無い。けれども生きて行くためには結局のところ食わねばならないから、無宿者を中心とした人々の犯罪が江戸の町では多発し、町奉行所だけではとても手に負えなくなっていたのだ。


そこで新設されたのが火付盗賊改方である。神楽坂兵蔵は盗り物のためなら手段を選ばぬところがあったので、幕閣の御歴々からはけして受けが良くなかったが、常に先頭に立って殺しや盗みなどの凶悪事案に向き合い成果を上げた。


その一方で庶民には優しく、人気があった。


原因があって、人は悪の道に墜ちる。それが彼の自論であり、姿勢だった。


悪を憎んで人を憎まず…その体現が人足寄せ場という罪人の更正施設だったのである。定住先と職が無ければ、途端に人は不安に陥る。その負の連鎖は、人々に徒党を組ませ犯罪に走らせる。


これは犯罪の抑止を念頭に置いたものであると同時に、体制側から政治的弱者に対する歩み寄りでもあった。それが本来の御政道と謂うものである。


兵蔵は罪人を徹底的に取り締まる一方で同時に、人という者をこよなく愛する人物だった。


そう謂えるだろう。


さて、その兵蔵の今回の標的は善壱一味の壊滅作戦である。江戸の町を荒らしまわる盗賊集団の多くは、総じて乱暴なものが大半で、押し込み先で狼藉の限りを尽すのが当たり前だった。


にも拘らず、この善壱一味はこれまで誰ひとりとして傷つけず殺さない。そしてその標的も江戸に限定されていなかったため、なかなか尻尾が掴めなかった。


殺生を避けているにも拘らず、目撃者も誰ひとりとしていない。金目の物でさえも、まるで値踏みした様に半分程しか抜いて行かない。一度襲った店は二度と狙わない事などからも、庶民の間では仏の善壱などと呼ばれてちょっとした人気者でもあった。


義賊ですら無いにも拘らず、これほどの人気を博す善壱一味に、体制を担う幕閣の間では懸念する声も大きかった。それはそうだろう。罪人が人気者に成るなど、まるで犯罪を肯定する様なもんだからだ。


ところが凶悪な罪人と日夜闘って来た火盗の中にも、その風潮を肯定的に捉える者も居たのである。


押し込みなどの血生臭い案件ばかりを請け負って来た火盗にとっては、善壱一味の様な穏健な姿勢は盗み働きをする者たちの中でも比較的殊勝に見えたのだろう。


故にその務め振りに危険性を感ずる者も少なく、それで無くても日夜発生する血生臭い案件に追われていたのだから、善壱一味を追い詰めるのに本腰が入らぬ者も実は多かったのである。


ところがこの善壱の一味が先般、珍しくも失策を犯す。水も漏らさぬ手際が些細な事で崩壊したのだ。ある商家を襲った折りに、一味のひとりが顔を見られたのである。


その男は在ろう事か目撃者にその(やいば)を向けた。ところが一味の中の若者がその手を止め、首根っ子を掴んで(かつ)ぎ出したので、事なきを得たという事が起きている。


兵蔵はその目撃者に直接会い、その情報から時を掛けて(マムシ)の銀次に辿り着く。若い頃に賭場でのいざこざから人を傷付け死に致らしめ、長きに渡り手配されていたお尋ね者だった。


こうなると皆も本腰を入れざる逐えない。蛇の道は蛇と、そのツテを辿ると逐にその根城まで突き止めてしまった。


ゆえに今回は三方面作戦でガッチリと配置を固めてある。根城と潜服拠点と鶴屋だ。


そして兵蔵は念のためにと六太やお節が連れて行かれた根岸の宿にも改めて人をやって見張らせる事にした。


『さて…儂はどうするかな?』


兵蔵はほくそ笑む。


彼も人外の者では無いから、喩え三方面でも全ての場所に出没は出来ない。四方面の内、残りは全て彼の信頼している与力・同心だけで囲む事になるのだ。


彼はふと考えを改め、自ら腕を揮う場所を直前で変更する。それが吉と出るか凶と出るかは、神のみぞ知るところであった。




夜も深まる頃、善壱一味は動き始めた。皆、黒装束に身を包み、その頭巾ですら目以外は全て覆う徹底振りである。


闇に上手く溶け込み、それは夜目が利く者でも油断すれば見落とす程だった。潜服拠点に張り込む火盗(かとう)は音を立てぬように細心の注意を払いながら追尾して行く。


幸いな事には行く先は鶴屋だと判っているので、必要以上に危険は冒さずに済むが、それでも予想外の事が起こらぬとも限らないので見失わぬように一定の距離を保ったまま追尾は行われた。


そしてそれは潜伏拠点にも若干の人数を残す程に慎重を期してある。兵蔵はこの干載一遇の機会を逃さず、一味を一網打尽にするつもりなのだ。


その意向は全ての地点の火盗に徹底され、与力・同心に至るまで兵蔵の計画に沿って動く。やがて一味は予定通りに鶴屋に到着し、馴れた足取りで裏に廻ると身軽な者が塀を乗り越え、あっという間に裏木戸が内側から開いた。


すると示し合わせた様に、ひとりまたひとりと木戸の中に消えて行く。そして最後の者が入り終えると裏木戸は静かに閉じた。


追尾して来た火盗は、鶴屋番の者と(ひそ)かに合流する。そして与力と想われる者が呟く。


「中の具合は予定通りか?」


それに応える者もまた与力である。


「あぁ…あの方はしくじるまい!我らは網を(とどこお)りなく張り巡らし、這い出る隙を与えぬ事。それだけだ!」


二人はあ・うんの呼吸で頷き合うと、それぞれ配下の同心を引き連れ包囲に懸かった。その動きは洗練されていて素早かった。




一方の善壱は息子たちに命じて直ぐ様、家人の拘束を命じる。皆、手慣れた者たちだ。身振り手振りで分担通りに散って行く。ところがそれはいつもとは勝手が違った。


閉じてある襖や障子を幾ら開けても部屋の中は綺麗に整頓されており、家人が寝た形跡すら無い。慌てた郎党は小走りに善壱の許に集まり、次々に報告を上げた。


「どうやら嵌められたか!この儂も老いたもんだ…」


善壱は最早、遠慮するでも無くそう宣う。


「え~っ!親父、どうするんだ!?」


一番弟子の長兄はそう尋ねた。


何せ後の四人は顔を強張らせたり、青ざめるのみで二の句が継げない。善壱は皆の顔を見回すと口を開く。


「誤解するな!町奉行所は勘づいて居まい…我らは身内に嵌められたのだ!どうせお万当たりの浅知恵に、銀次が乗っ掛ったのだろうな?となると、どうやら相手は火盗らしい。こりゃあ駄目だ!儂は降りる…」


善壱はそう言うとあっさりと負けを認め、ドカリとその場に座り込み、腕を組むと目を閉じた。誠に潔い姿勢だが、子供たちは「そんなぁ…」と情け無い顔をしている。


すると次の瞬間に「ご明察♪」という快活な声が響き渡り、四方の襖がカタンカタンと小気味よい音を立てて一斉に開いた。


郎党は目を見張り驚くが、余りにも咄嗟の事で動くに動けない。すると善壱は精一杯の声を振り絞り叫んだ。


「動くなよ!殺生は許さん。これが儂の最後の願いじゃ♪」


それは善壱なりの親心だった。子を無駄死にさせぬための必死の行動である。


彼は目を見開き、目の前に仁王立ちする恰服の良い男を見上げた。すると男は堂々と名乗りを上げる。


「私は火盗(かとう)の筆頭与力・鳥居左門だ♪善壱だな?神妙に(バク)に付け!」


鳥居は確信したようにそう告げた。


男が殺生を嫌う姿勢を認め、間違いないと踏んだのだろう。胡座(あぐら)を掻いて座り込んでいた男は、それを聞き(とが)め口を開く。


「こりゃあ、恐れ入りました…よもやとは想いましたが、この善壱を捕縛するのは火盗は火盗でもすっかり神楽坂様だと想い込んでおりました♪でも勘念します!どうぞ…」


善壱はそう言うと、両腕を前に差し出す。子供たちも逃げ出そうとする者は一人も無く、最後まで一味の団結力を示した。


左門はそれを眺めていて感心している。悪事に身を染めた者とはいえ、掟を最後まで守り歯向かいもしない。


この統率が善なる行いに向けられなかったのが惜しいと、彼は非常に残念でならなかった。だから彼は優しく語り掛ける。


「否…御主の見立て通りよ♪私は神楽坂様の筆頭与力だからな!実はな…種を明かすと、直前まではこの役目は鬼の兵蔵だったのだ♪だが、鬼兵にも見落としはあるのだ。お前は今回の主犯では在るまい?兵蔵様は悪はけして赦さぬ。ゆえにそちらに向かった。この私にお鉢が廻って来たのはそのためよ♪お前にとっては生憎(あいにく)だったが、仮にも仏の善壱の召し捕りだ!光栄である♪」


鳥居左門は敬意を持って応じたので、善壱は神妙に告げた。


「諸行無常の響きありと申します♪恐れ入りやした。鳥居様!相手にとって不足なし♪儂には十分でしょう。只、残念な事は身内の強欲を抑え切れなかった事です。おごる平家は久しからず…身内の毒を放置した事が唯一の心残りです。大変恐れ入りやした…」


善壱は最後にもう一度そう言って(こうべ)を垂れた。左門は頷くと配下の同心に捕縛を命じる。そして静々と引き立てた。


こうして善壱一味は事実上壊滅し、後は兵蔵次第となった。




時は少々遡る…。その兵蔵は何を想ったのか夕刻に懸かる頃には態度を鮮明にし、急遽、配置換えを行った。


当初は鶴屋に乗り込む筈だった予定を取り止め、筆頭与力の鳥居を裾える事にしたのである。


「本当にそれで宜しいのですな?」


左門は念を押した。


「あぁ…宜しく頼む♪」


兵蔵は涼やかな瞳で左門を見つめた。


「それで殿はどちらに?」


左門だってもはや聞くまでも無い事だったが、直前になって交代しろと言われた身では興味が先に立つ。一方の兵蔵もその言葉を予測していたかのようにクスクスと笑い出した。


「まぁ…そう来るわな♪だが含むところがある訳では無い!(まむし)の銀次の居所を突き止めたのはお前の手柄だ♪願わくば譲りたくは無かろう。けどな…主犯格の者が居る以上はこの兵蔵が出番よ♪悪く想うな!」


兵蔵は左門の肩をポンポンと軽く叩くと、想い出したように付け加える。


「儂はひとまず禰宜(ねぎ)殿のところへ寄ってから現地に向かう。いずれにしても相手あっての対応に成るだろう。互いに精一杯励むとしよう♪」


すると鳥居もほくそ笑みながら頷く。


「そうですな…それにしても殿には何やら目論見がありそうだ!そのための配置換えと見ました♪」


「判るか?」


兵蔵は左門の勘の好さに嬉しそうに尋ね返す。


「そらぁ、そうです♪長年、伊達や酔狂で付き合ってません!自明の理ですな♪こうなったら私も最善を尽すとしましょう!」


「あぁ…頼む♪」


兵蔵は苦笑う。


鳥居も成長していると想い、彼はその喜びから頬に薄っすらと笑みを浮かべた。




「どうだ?この儂に帯同して一緒に来ぬか♪」


兵蔵は禰宜(ねぎ)に引き合わされた六太にそう告げる。余りにも突然の申し入れに、当人は許よりお節や禰宜でさえ戸惑うばかりだ。


『なぜ六太さんがわざわざ…』


お節は六太の身を安じて心配そうに寄り添う。


けれども意外な事には六太は即答は避けたものの、割とあっさり承諾した。


「判りました♪もしこの僕が役立つならば、喜んで協力致します!」


「六太さん!?」


お節は懸念を示すも、当の六太は晴れやかにこう答えた。


「お節さん…心配は無用です!悔い改むるに憚る事無かれです♪僕は罪を償うと決めたんですから、協力しなければ!そうでしょう?」


「それはそうですけど…」


お節は心配を(ぬぐ)えず躊躇(ためら)う。すると快活な声がその不安をしっかりと受け取め、拭い去る。


「お節とやら…心配は要らぬ!儂は火盗の神楽坂兵蔵と申す♪ゆえあって六太を借りて参るが、必ず無事に貴女の許へお返し申そう!約束じゃ♪」


「私の許に返すって…」


計らずも、兵蔵に自分の心の内を(つまび)らかにされた様に感じたお節は、頬を赤らめる。兵蔵は若い二人に優しく微笑みかけた。


「儂も必要あっての事なのだ。他意は無いゆえ、本当に心配はいらぬよ♪六太もそう心得よ!」


「判っております♪僕に出来る事は必ず果たしますから…お節さんも心配ないからね!これは僕なりの償いなのです♪」


六太はお節の両手を取ってその瞳を見つめた。


「はい…でも気をつけて下さい♪」


お節はようやくの事でそれだけ口にした。


『必ず戻って来て下さい…』


本当はそう口にしたいところだが、それは口に出せない。助けてくれたとはいえ、彼は一味のひとりなのだ。どうしてそんな事が認められようか。


そしてそれは六太も承知している。だから戻って来るとは口が裂けても言えなかった。


そんな二人を眺めていた禰宜(ねぎ)は優しげに語り掛ける。


「神もお上も無慈悲ではないのじゃ…少なくともこの儂はそう想っておるがのぅ~♪」


「そうですよ♪心配ありません!」


跡取り息子もそう答える。


兵蔵はそんなやり取りを満足そうに眺めていた。




根城では、銀次とお万がようやく準備を済ませてひと息つく。彼らもそれなりに計算はしていて、最後の荷を馬車に積み込む。


それというのも、既に殆どの荷は運び出してしまった後で、計画上、決行の日に最後の荷と共に完全に根城を捨てるつもりで進めて来たので、盗品の保管庫はもはやもぬけの殻だった。


「あたしは先に行くよ♪あんたは根城に火をかけてから追い掛けておくれ!」


お万はあっさりとそう言った。


ここで初めて銀次の胸に猜疑心(さいぎしん)が芽映える。


『まさかこの女…端からこの儂を切り捨てるつもりだったのではあるまいか?』


お万にしてみたら元々そのつもりなので、今更な事だろう。けれども銀次は絶えずお万の色香に(あざむ)かれて来たのだ。


そんな思いに駆られる暇を与えられずに信じ込まされて来たのだから、ある意味…青天(せいてん)霹靂(へきれき)だったのである。


ところが、そんな銀次の心の内など、百戦練磨のお万からしてみれば手に取るように判る。殊更にここに来て突き放つような誤解を与えた事でさえ、計算の内だった。


銀次が呆っ気に取られている表情を見て取ると、お万はクスリと(さげす)むような笑みを浮かべた。


「お万…お前、まさか?」


想わず銀次はそう呟く。するとお万はまるでそれを待ってましたと言わんばかりに口を開いた。その口振りは辛辣(しんらつ)に過ぎた。


「馬鹿な男だね!ようやくこのお万さんの意図に気づいたのかい?そうだよ♪お察しの通りさ!あたしは端からあんたなんて歯牙(しが)にもかけてない。あんたは善壱兄さんを欺き通すための駒なんだよ!計画のためには男手が必要だったもんでね?」


「何だとぅ…この儂を騙したのか?」


銀次はカッとなって手を出した。その顔は怒りからか、まるで赤鬼のようである。


ところがお万はそれさえも予め予測していたかのようにヒラリと身軽に躱すと、もう遠慮すらせずにケラケラと笑い出した。


「この筋肉馬鹿が!でもその腕力で盗品を運び出せたんだから礼を言うよ♪あんたのお陰であたしは一躍大金持ちさ!こうしてみると、あの六太が一番まだ賢く振る舞った口だろうね?何しろ好きな女と逃げたんだからねぇ♪今更だけど、あの子がこれほど抜け目無いとは思わなかった!このあたしを仮にも欺き逃げるなんざ偉いじゃないか?やはり見込んだ通りだ!惜しい事をしたねぇ…」


お万は完全に悦に入って独壇場である。


人は時に見下した相手には非情なものだ。そして眼中にさえ入らなくなった時に、その自惚(うぬぼ)れからか、油断を引き起こし易い。


この時のお万がまさにそうで、十分気をつけていたにも拘わらず、ついつい調子に乗ってしまった。そして銀次だって、若い頃から(まむし)の銀次と恐れられた男である。


今まではお万の尻馬に乗っていたからこそ大人しかったものの、裏切られた(いきどお)りから自然と手が出た。予測していたからこそ躱し切れた挙骨も、隙をつかれれば面白い程に当たる。


その衝撃はお万の意識を奪うには十分だった。「あっ!」と言う間も無くお万はその場に倒れ伏す。その瞳は想定外の出来事に、信じられないように(ゆが)んで見えた。


「けっ!ざまあみろ♪この儂を(あなど)るからだ!この(クソ)アマが♪」


銀次はまるで路傍の石を蹴り飛ばすように、お万の腹に蹴りを入れる。もはやそこには愛情の欠片(カケラ)も無かった。


彼はおもむろに身体を(かが)めると、火打ち石で火を起こし、松明(たいまつ)を点ける。そしてニヤリと笑みを浮かべると、辺り構わずに火を付け始めた。


お万の最期の願いを聞いてやると共に、ここで彼女を火葬にするつもりなのである。


『あの時と一緒だわい♪』


銀次はニヤケたようにほくそ笑む。彼は過去にも自分を欺いた男と女を消した事があった。




(まむし)の銀次は若い頃に威勢の好さで任侠の世界に飛び込む。それは博奕場を荒らすだけに止まらず、親分衆にも刃を向ける狂犬であった。


善壱は業を煮やしながらもその(ケツ)()いてやり、斬った張ったの体たらくを身体を張って助けてやる。彼のためにどれだけの身銭を切ったか、それはもはや判らないほどだった。


そんな時に銀次は女に横恋慕して、親分衆の息子を殺めてしまう。否…殺す気は無かったのだが、脅した弾みで出した刃がグサリと心の臓をひと突きしたのだ。


彼は当然、上方を離れて江戸に逃げる羽目に成り、その成り行き上、善壱一味も江戸に河岸(かし)を変える羽目になった。


善壱一味は今でこそ江戸を中心に席巻する盗賊稼業だが、実際には許を辿れば上方荒らしだったのである。善壱は銀次を見棄てられずに結局許した。


それが事の始まりである。


そしてその親分衆の息子には可愛らしい奥さんと珠の様な男の子が居た。残りの二人も公式上は蝮の銀次が手に懸かった事に為っているが、実際にはまだ裏が在った。




ある時、ほっそりとした体つきの女の人が赤子を抱えながら必死の形相のまま小走りに逃げ惑っていた。長い黒髪を振り乱し、顔を歪めているので判りづらいが、本来は美しい顔立ちをした女の人なのだろう。


夜の闇に紛れる様に追跡者から逃れようと必死の筈が、暗に反して抱えた赤子が泣き叫ぶので、すぐにその位置がバレてしまい、けしてその逃避行が効果を上げているとは想われなかった。


それを暗闇から眺めていたのが、在ろう事かあの鬼女である。そう…若き日のお万であった。


女はとにかく銀次の魔の手から逃れるのに必死で、それだけでも大変なのに、その上、赤子を抱えていたから、そちらに完全に気を取られている。


泣き叫ぶ赤子を憐れに想ったのか、はたまた追っ手に悟られない様にするためかは、端から観ていても判らない。


けれども女は一旦、足を止めると辺りを軽く見回してから、赤子をあやした。


助清(すけきよ)…良い子だから泣かないで♪」


彼女は愛息に、どこの親でもする様な哀願を込めた言葉を投げ掛ける。


その時だった。不意に「ギィ…」という木の(きし)む様な音がして、彼女は背後を振り返る。


そこには渡し舟が繋ないであり、おそらく波の打ち返しで舟が(きし)んだ音だと想われた。そこで初めて、彼女は自分たちが波止場に迷い込んでいた事に気づく。


「ホッ…」


彼女は驚きから一転、安堵の溜め息を漏らす。すると同時に妙案を想いつく。


この舟を借りて逃げようと考えたのだ。いつ追手が迫って来るか判らないこの瀬戸際に、渡りに舟とは正にこの事である。


余り考えている暇も無いから、彼女は赤子をひとまず舟に置いて、自分は(もや)いを解き始めた。


けれどもかなりギチギチに結わえてあるのでなかなか外れない。彼女は慌てていた事も手伝って、それこそ前傾みになって必死に(もや)いと格闘を始めた。


そのため、周りへの警戒心は必然的に(ゆる)む。その瞬間に、頭の上から岩が落ちて来たのだから、これは避けられまい。


文字通り、ひとたまりも無かった。頭を割られた女は、おそらく誰の仕業かさえ判らぬまま息を引き取る。するとその遺骸を見下ろす女が捨て台詞(ゼリフ)を吐いた。


「馬鹿な女…あたしの男を横取りするから、こんな目に会うのさ!」


それはお万だった。


お万は銀次から逃れる彼女を冷静に捉え、仕留めたのである。本当にその言葉通りなら、まだ話は判りそうなものだが、親分衆の息子が特にお万に気があった訳では無く、それは単なる逆怨みだった。


お万が一方的に気があり、袖にされただけである。殺された女にとっては、正に泣くに泣けない死に様であったろう。全く以て救いが無い。


お万は非情にもその遺骸を波止場から海に捨てて、凶器となった岩も沈めた。


「これで銀次に追われた女が足を踏み外して死んだ事になるねぇ~♪」


お万は満足すると、その場から引き上げようとしたのだが、不意にその時、赤子が泣く。


お万にしてみれば知ったこっちゃ無かったが、ふとその時、悪魔が(ささや)く。


「フフフッ♪こりゃあ、瓢箪から駒だよ!」


お万は舌なめずりして赤子を抱き寄せると、そのままおぶって暗闇に消えた。




お万は夢を見ている。若い頃から擦れていたお万にとって、悪い事をするのは自分を不幸な身の上に置いた世間への仕返しだった。


彼女の不幸は、物心つくまでは大店の娘で在った事。そして両親共に目に入れても痛くないほどに彼女を可愛がり、育てられた事である。


そのまま順風満帆に成長すれば、おそらく彼女にもまた違った人生があったのだろう。けれども世の中は不公平に出来ているらしい。


彼女が五歳の時に店は火に包まれる。そう…それは恨みか(ねた)みかは判らぬが、付け火だった。


大店は深夜の炎上で半鐘が鳴り響くのにも時が懸かった。家人は皆、寝込んでいたため、その大半が気づく間もなく焼け死ぬ。


五歳のお万は両親の身体を交互に揺するも、昨夜遅くまで寄り合いで酒が入っていた父親は起きず、すんでの所で目覚めた母に抱かれて彼女だけは連れ出された。


その母親がまだ生きてさえいれば、彼女の身の上もまた違っていたのだろうが、その情深さゆえに火中に戻ったために、彼女も皆の後を追い焼け死ぬ。


結果お万は路頭に迷う事になり、生きて行くためには食わねばならないから、彼女が初めて手を染めたのが盗みだった。


やがてそれが他人の懐中を狙うようになった時に、彼女はいともあっさりとその腕を掴まれた。それが先代の盗賊の元締めであり、見込まれたお万は盗賊一家に養われる事になる。


善壱とはその時以来の付き合いになるが、彼は先代の教育が行き届いた生粋の盗人だったので、どちらかというとお万は嫌いだった。


否…大店を選んで盗み働きをする彼らそのものが、嫌いだったのだと謂える。けれども生きるためには何かを差し出さなければならない。


彼女は一味を抜ける事を夢見ながら、彼らの世話をせっせとした。その間に拾われて来たのが銀次で、この男からは血の臭いがした。


なぜ殺生を禁とする一家に、こんな男が来たのか訳が判らなかったが、ある時それは判明する。銀次には任侠の血が流れており、潰された一家の生き残りだった。


親分衆から頼まれた先代は、仕方無く彼を引き受けたものの、可愛がりはしなかった。それを庇い、助けていたのが善壱である。




その銀次がある時、恋をした。親分衆の娘のひとりでお(きぬ)と言った。


けれども高嶺の花だから、付き合う事など許されない。付き(まと)う事くらいがせいぜいで、気のないお絹からは当然、袖にされた。


銀次は怒った。元々彼も任侠一家の跡取りだったのだから、それを考えれば腹立たしい。


彼はそれから賭場が立てば荒し回り、親分衆の身内だろうが、構わず()した。そしてお絹への横恋慕も続ける。


業を煮やした親分衆はお絹を隠し、その間に身内同士で婚儀を結ばせたので、しばらくすると珠の様な男の子が生まれた。


これが風の便りで銀次に伝わる。否…わざと伝えた者が居た。それは何を隠そうお万である。


実はお万も初恋の時期を迎え、それが偶然にもお絹の旦那だった。この婚儀は銀次に覚られないため、長らく秘匿されていたので、お万は既婚者と知らずに恋をした事になる。


旦那も別にお万に気があった訳じゃ無いが、お絹との事を隠すために、誤解させるような言動があったのだろう。


すっかり気に入ってお熱になった頃、拒絶されたお万は当然腹を立てた。世の中の理不尽さを想い出し、嫉妬に燃えた。


だから銀次にチクリ、自分を小馬鹿にした男を殺させた上で、お絹自身には自ら引導を渡したのである。まさに鬼女の誕生だった。


その結果、お万は愛した殿方と毛嫌いしていたお絹との間に生まれた助清(すけきよ)を拾う事になる。上方(かみがた)に居づらくなった善壱一家は、追放されるように所払いとなった。


任侠の世界は舐められたら(しま)いである。息子家族が皆殺しと知れれば、親分としてはもう一家を維持出来まい。


沈黙と所払いを受け入れる事で幕引きにしたのは、そういった裏の事情があったのだ。


たまたま屍体は上がらずに済み、目撃者も居なかった事から、この取引は成立したのだと謂ってよい。本来なら娘を殺された親族が引くに引けなさそうだが、実は銀次の親兄弟を皆殺しにしたのがこの一家だったので、自業自得と言われては同意せざる逐えなかった。


お万はそういった背景にも助けられた事は確かだけれども、目的を果した事ですっかり自信をつけてしまう。自分には知恵と才能があるのじゃないかと悦に入ってしまった。


そしてお万にはこの時、運気もあった。


お万が子を抱えて帰って来たその日に、偶然が重なる。何と善壱も六太を拾って来たのである。父無(ててな)し子には善壱も目が無い。


「良くやった♪」と早速、二人の赤子には六太、余七と名が付けられた。


ちょうど河岸(かし)上方(かみがた)から江戸(えど)に変える時分でもある。皆、何かと忙しいから、必然的に二人の面倒を見るのはお万という事に成った。


この時、彼女にはふとした閃きが頭を(よぎ)る。一度、(よぎ)った悪魔的な発想は、彼女を再び悦に入らせた。


それは赤子の入れ替えである。本来、余七と名付けられたのはあの助清なのだ。彼女はそれを入れ替え、助清は六太として成長し、善壱の拾って来た六太は余七として成長する事に成る。


彼女はこの時に、善壱一味の壊滅と引き換えに自分の独立を夢見たのだ。稼ぎは全て自分の物。そして将来の夢は再び大店の主人として君臨する事だった。


そのためには身を犠牲にする事も厭わない。銀次を味方に付け、憎い助清は罠に嵌める。そのためには美しい殿方に育てなければならないが、案の定というべきか助清である六太は男前に育った。


お万としては初恋の人の一粒種だから、やはり(いと)おしい。けれども同時に、憎き女の子供だから、その血が恨めしい。


かつてのお絹の幸せそうな顔を思い浮かべる度に、その想いは殺意へと変わる。そして在ろう事か、お万は余七の使い道にも慎重を期していた。




二人が物心ついた時分に、お万は余七にその出自を教える。彼女は余七こそ任侠の血を引く男で、銀次が親の仇なのだと教え込んだのである。


つまり余七が助清だと告げた事になる。何故(なぜ)そんな事をしたのかについては、これはお万本人にしか判ぬ事だろう。仮に邪推するとしたなら、彼女の中に戸惑いがあったのかも知れない。


美しく成長した六太こと助清が、愛おしく憎らしいゆえの心の葛藤である。何とも悩ましい事だが、彼女にとっては銀次を殺す者は誰でも良かったのだ。


それよりも助清だけは殺すにしても自分の手で果たしたかった。そういう事に成るだろう。


やがて彼女は再び運気を捉えた時に、計画を実行する事にした。お節を絡め取り、まずは助清を嵌める。


そして善壱は一味と共に火盗に一網打尽にさせる。そして安心し切った銀次は、余七に殺させる。


この時、銀次が自分は助清に殺されたのだと信じ込まなければならない。喩えそれが(かた)りの偽者であってもである。


それが初恋の人を殺され、長い間自分の身体を好きにさせた男に対する彼女なりの復讐だった。そして彼女はようやく成功まであと少しという所まで漕ぎ着けたにも拘らず、ついつい口が滑べってしまう。


「私は先に行くよ♪あんたは根城に火をかけてから追い掛けておくれ!」


けして焦った訳では無かったが、魔が差したのか、はたまた運に見放されたのか、それは判らぬが、彼女のこれまでの悪業に天罰が下る時が来たのだろう。


彼女は銀次の怒り様を眺めていて、心の底から可笑しさが込み上げて来て、ついつい調子に乗ったために、まともに拳骨(げんこつ)で殴り倒され、ピクリとも動かなくなった。


それはまさに悪の報いの到来だった。




『お万…お万、起きなさい!さぁ、早く♪逃げるのよ!』


夢見心地に倒れていたお万は、そう語り掛ける声に突き動かされる様に目を覚ます。それは母の声だった。


『おっ(かぁ)?!』


お万は母親に寝惚(ねぼ)(まなこ)で語り掛けるように目を覚ますと、ふと辺りを見回す。パチパチとした音と共に、辺りはすっかり炎に包まれていた。


それを見た瞬間に、お万は子供の頃の記憶を呼び覚ます。もはや銀次の逆襲を受けた事など露程(つゆほど)も想い出せずに身震いがして、一面の炎にすっかり怖じ気づき、一歩も動けなくなってしまった。


そしてその口からは自然と(おび)えた言葉が飛び出す。


「おっ(かぁ)…怖いよぉ~!怖いよぉ~!」


それはまさに童帰(わらべがえ)りだった。彼女は火の記憶と共に、昔、純粋だった子供の心に、一時的にせよ、戻れたのだろう。けれども、そこには過去との決定的な違いがあった。


母親はもう居ないのである。やがて茅葺(かやぶ)きの屋根が柱と共に落ちて来て、それは咄嗟(とっさ)に避けたものの、全身に火を浴びたお万は、炎に包まれたまま踊り出し、「ギャ~!」という叫び声を上げる。


そしてその意識は途絶えた。




夜半から出火した火の手は、たちまち根城に回る。木造建ての上に、茅葺き屋根の隠れ家は、すぐに火の海となった。


「あいつら火を付けやがった!」


見張っていた火盗は驚く。そしてすぐに包囲を狭めると、蟻の這い出る隙もない程の厳戒態勢を敷く。するとその時である。


「ギャ~!」という断末魔の叫び声と共に、人が炎の中から飛び出して来た。憐れにも身体中が火炎に包まれているが、それは見事な黒髪を蓄えた女である。


火盗はすぐにそれをお万だと認め、数人がかりで火を消そうとしたが、時既に遅く適わなかった。ようやく火を消し終わった時には、生前の美しさがまるで嘘の様な黒炭と化していた。


これも生前の行いの報いなのだろう。余りの呆気なさに、後を引き継いだ火盗の与力は息を飲むしか無かった。


彼らにとって唯一の救いは、お万の死を認めた事だけである。炎上した根城に手は出せず、後は見守るほか無かった。




さて、お万に引導を渡し、火を掛けたどさくさで、慌てて馬車に乗り込んだ銀次は、もうひと安心とばかりに笑い出す。


彼にしてみたら、してやったりであろう。危うく女狐に騙され、置き去りにされそうになったところでの大逆転である。


しかもすっかり舐め切っていたのか、捨て台詞(ゼリフ)を吐いたところへの一撃が決まり、彼としても憂さ晴らしが出来て、只ひとりご満悦だった。


「馬鹿な女だ!この儂を(あざむ)こうとしなけりゃ、長年の(よしみ)だ。栄耀栄華を分かち合ったものを♪」


銀次はそう吐き捨てると、またぞろ気分を悪くしたのか、ぺッと(つば)を飛ばす。そして再び笑い出すと、馬に(ムチ)を入れた。


もう後は余七と合流するだけだから、彼にとってみれば楽勝である。銀次は余七が愚鈍(ぐどん)な若者だと舐めていたので、まるで独り言のように呟いた。


「後は余七の奴を油断させて、ひと突きだわい♪」


彼はそう言ってカラカラと笑う。その喜びが頂天に達した時に、背後から鋭い言葉が返って来た。


「誰をひと突きだって?」


その瞬間にドスッという鈍い音と共に、銀次は胸に痛みを感じた。彼は痛みを堪えながらも振り返る。


そこには誰あろうその余七が居て、短刀(ドス)を両手で思い切り握っていた。そして次の瞬間、銀次の口許からはツーっと赤い血が流れ出る。


(マムシ)の銀次!両親の(かたき)…思い知れ♪」


そう言われて、初めて銀次は余七の正体を知る。けれども時既に遅かった。


銀次はポンと突き飛ばされ、馬車から転落すると、やがて見えなくなった。それはあっという間の出来事で、蝮の銀次もまたその油断から、命を落とす事になったのである。


余七にはもはや何の感慨も無かった。


殺されたお万の事でさえ、実際にはどうでも良かった。そして自分の出自でさえ、こうしてみると本当かどうかなんて定かでは無い。


彼がお万の言う通りにしてやったのは、ある意味、その処分の(むご)さゆえである。こんな男は世に放つべぎでは無い。


その一念から決行しただけの事だった。こうして悪辣(あくらつ)な計画に沿って進めて来たお万の(たくら)みは、ようやく最期にひとつだけ花咲く。


ところが、その結果をお万本人が見る事は無かったのだ。余七はそのまま馬車を走らせる。


けれどもその行く手に、もはや希望など微塵(みじん)も無い事は彼にも判っていた。




「兵蔵様♪これで良かったんでしょうか?」


炎上する根城を尻目に二手に別れた時に、六太は神楽坂兵蔵と共に逃走した荷馬車を追っている。


「あぁ…根城は包囲してるゆえ、逃がれようがあるまい!それに荷馬車に何人乗っているのかは、実際に押さえてみぬ事には判らんからな♪一択あるのみだ!」


「銀次は乗ったようですが…お万は見ていません!僕は余七の事が心配なのです…」


六太は歳の近い余七の事が心配だった。


同じ日に貰われて来た弟に、彼なりの愛情を感じている。余七は何をやらせても不器用で、事ある毎に六太が助けてやっていたのだ。


出来ない子ほど可愛い。周りに期待されていなかった余七の事を精一杯、庇ってやっていたのは六太だけだった。


真剣に弟の事を心配しているのは、その表情を見れば兵蔵にも判る。だからといって、安易に保証してやれる程の確信を、今はまだ兵蔵も持ち合わせてはいなかった。


それに今回、彼らの目的は善壱一味の壊滅である。そこに齟齬(そご)は何ひとつ許されないのだ。


厳しい表情を崩さない兵蔵を見つめながら、六太もいよいよ正念場だと前方を疾走して行く荷馬車を見つめた。その時である。


「おぃ!何か変だ…速度を落とせ!」


兵蔵は突如そう叫んだ。御す配下の同心も慌てて手綱を引く。それは観ていた六太にも如実に判った。


前方の荷馬車が突然、蛇行を始めて、明らかにその速度も落ちている。こちらも追跡をしている以上、察知されると面倒なので、そう指示したのかと六太は想った。


けれどもそれは違った。突然、(うめ)き声と共に、前方の荷馬車から人が墜ちたのである。否…どちらかというと、それは事故に依るものというよりは、故意に落とされた様に六太には見えた。


「兵蔵様!」


六太は指を前方に突き出しながら、兵蔵に振り向く。だがそこは熟練の火盗である。


兵蔵は既に馬車の停止を命じていて、停まるやいなや、直ぐに飛び降り、小走りに近づく。そして屈み込み、一瞥(いちべつ)するや直ぐに戻って来た。


「ここはお前に任せる!すぐに確保せよ♪」


兵蔵の(めい)で同心がひとり(おど)り出し走り出す。何も聞かずに何も話さない。まさに、あ・うんの呼吸である。


「出せ!」


兵蔵の言葉と同時に再び馬車は走り出す。こちらも見事な、あ・うんの呼吸だ。六太は感心しながらも尋ねる。


「あれはいったい誰だったのです?」


おそらく六太は余七かと心配しているのだろう。そう想った兵蔵は事実を伝えた。


「あれは蝮の銀次だな…残念ながら、心の蔵をひと突きだ!まぁこれもこれまで犯した罪の報いだろう…となると御しているのは誰だ?お万か或いは…」


兵蔵はそこまで言うと口を閉ざす。


どうやら彼にはもうその辺りの想像はついているのだろう。けれども今は差し障りがあるのか、兵蔵は口を真一文字に結んで無言を通した。


六太は心臓の鼓動がドキドキと鳴って、想わず胸を押さえる。あの銀次が胸を刺されて死ぬなど想ってもみなかった。それだけ六太たち拾い子にとって百戦錬磨の彼らは大人に見えていたのである。


『もしや余七なのでは?』


六太の心配はそこにある。余七は横暴に振る舞う銀次と殊更にぶつかっていた。


殴られる度にあおたんを作り血を滲ませて、六太はよく手当てをしてやった。そしてその二人を抑えていたのが善壱であり、お万だった。


六太の不安を余所に兵蔵は集中している。そこに背後から騎馬した早馬が追い付いて来た。それは根城を任せていた与力の手の者だった。


「どうした?」


兵蔵は声を掛ける。六太も自然とそちらに注意を向けた。すると同心は端的に伝える。


「根城でお万の遺体を収容しました!馬車に乗っているのは余七だと想われます♪」


それを聞いた兵蔵は特に驚きもせずに応えた。


「判った!君は銀次の遺体の収容を手伝ってやってくれ♪」


「承知♪」


そう言うなり、同心はとって返す。兵蔵は同行している与力に覚悟を示した。


「これで決まりだ!もう停めて良いぞ♪」


与力は相槌を打つと、馬車を御す同心にテキパキと指示を送る。


「もう構わん!並走せぇ~停めろとの仰せだ♪」


「承知♪」


火盗を乗せた馬車は一気に加速し、前方の荷馬車に迫る。六太の心音もまた加速し始めた。




一方の余七は一気に気持ちが沈んでいる。初めて人を手に掛けたのだから、本来なら心の整理が着かずに動揺が広がるところなのだろうが、そこには何の感慨も無い。


お万に銀次の人ならぬ悪逆非道さを聞いていたせいか、全く後悔は無かった。そして両親やお万の仇を討ったという誇りすら持てなかった。


おそらく彼も薄々は気づいていたのだ。彼は本来、臆病な男で自分に任侠の血が流れているなんてとても思えなかった。


彼の激昂や怒りはその裏返しで、けしてそれを強さだとは彼自身も感じていなかった。それはどちらかというと、弱い犬ほどよく吠えるという言葉そのものである。


そして任侠者らしい男気すら持ち合わせてはいない。どちらかというと、その懐の広さや優しさは兄の六太にこそ、彼は感じていたのだ。


六太兄は事ある毎に自分を庇ってくれ、困っている時には手を差し伸べてくれた。銀次と揉めた時にもその手首を捻り上げ、守ってくれた。


彼の虚しさはそんな六太に顔向け出来ない事を仕出かした後悔から来ていたのかも知れない。どの(つら)下げて兄に会おうと、彼は忸怩(じくじ)たる想いに(さいな)まれていた。


その時である。彼の耳に兄の声が聞こえて来た。余七は始め空耳かと想い、ビクッとすると、おもむろに後ろを振り向く。


余所見をした彼の手綱はその刹那に狂う。荷馬車は制御する者を失い、解き放たれた様に加速する。


それでも余七は背後から目が離せない。そこには兄の六太が居て、前方を指差しながら何かを懸命に叫んでいた。


『何を訴えているのだろう…』


余七はぼんやりと(うつ)ろな(まなこ)でそれを眺めている。自分の仕出かした事を知って責めているのかも知れないと彼は想った。


ところが違った。次の瞬間、彼には六太の言葉がはっきりと聞こえる。


「危ない!余七、前を見ろ!早く!」


『兄さぁ…おいらを責めないのか…』


余七はまだ夢現(ゆめうつつ)で虚ろな眼のまま兄を視ている。けれどもようやく我に返り、彼は肩をピクリとさせて前を観た。


「うわぁ~!」


いつの間にか前方は急勾配な坂に入っており、制御から離れた荷馬車は加速を続けながら突進している。それはまるで死神の招きに応じる様にその淵に吸い込まれて行く死地への旅路だった。


余七は咄嗟に手綱を想いっ切り引く。するとその瞬間に馬が(つまず)き、もんどりうった荷馬車は逆さまになって宙を跳んだ。


「余七!!」


六太は叫び、眼を(おお)った。


「不味い!()けろ♪」


兵蔵もほぼ同時に叫ぶ。


ちょうど背後に着けていた火盗の馬車は、荷馬車が落ちて来る直線上に居た。彼らの馬車もこのままでは絶体絶命である。


ところがさすがは火盗の馬車を預かる同心だ。彼は無理に手綱を強く(しぼ)らず、最後の瞬間まで冷静に見極め、見事に避ける。


馬車が通過するなり、その背後から荷馬車が降って来た。その瞬間は豪奢なもので、荷車に積んであった宝飾や小判がまるで空中に舞う花火のようにパァ~っと辺りに盛大に飛び散る。


けれども兵蔵も六太もそんなものには惑わされずに、余七だけを目で追っていた。余七は荷馬車が落ちて来る寸前に、背中から彼らの上に墜ちて来る。


それをガッシリと受け止めたのは、兵蔵と六太の連携の成せる技だった。運も彼らに味方したのだろう。馬車が止まるとポカンと呆けている余七に六太が声を掛ける。


「余七♪心配したぞ!無事で良かったな♪」


六太の然も嬉しそうな満面の笑顔に触れた余七は、ツゥ~っと流れ出る涙を拭うと六太に飛びつき泣き出す。


「ワァ~ン!兄貴、御免(ごめん)よぅ!おいら取り返しのつかない事を…」


余七の顔はいつの間にか童心に帰っている。六太にも既に余七が銀次を刺して突き飛ばしたのは判っていた。


判っていたけれども、六太は最後まで態度を変える事は無い。彼にとって余七はどんな事があろうとも、大切な弟なのだ。


それに余七がお万に踊らされたひとりである事は、もはや疑い様があるまい。二人は抱き合い、オンオンと泣き続ける余七の背中を六太は優しく擦ってやった。


そんな二人を兵蔵たち火盗は、無念な気持ちで眺めている。彼らだって盗賊に拾われなければ、また違った人生を送っていたかも知れないのだ。


兵蔵はそこにやる瀬無さを感じていた。さらに言えば、子を捨てねばならぬ御政道の有り方にも(いきどお)りを(ぬぐ)えないでいる。


だからといって彼らがそれを正す事は出来ないのだ。お上の翻意を願うばかりである。そこで彼は自分に出来る事を断行する事にした。


火盗としての神楽坂兵蔵の闘志に火が付いた瞬間である。遥か彼方の根城からは、未だ白煙が立ち昇っていた。




火付盗賊改方には捜査権はあるが、残念な事には裁判権は無い。裁決は火盗が集めた証拠に基づき、彼らを管轄する老中によって下される。


本来であれば、そこに情を挟み込む余地など無い。けれども「しばらく…」と(ねば)り続ける兵蔵の、一歩も引かない姿勢には、さすがの松平某(まつだいらなにがし)も遂に折れた。


余七の口から、隠された埋蔵金の居場所が明かされた事もそれに拍車をかける。やらしい話だが、この金は全て幕府が没収して、その結果として国庫を潤す事に成るのだ。


謂わばこれは政治的駆け引きである。


情をかけたい兵蔵に対し、幕府は威厳を損なう事を極端に怖れた。その綱引きは、刻々と迫る裁下期限ギリギリまで続いたが、粘り切った兵蔵が、最後の最後で寄り切りに成功したのである。


当初は長らく世間を騒がせた頭目・善壱と、殺人を犯した余七は打ち首、獄門。他の者は遠島という厳しい処置だった。


ところがこれに対しては、鶴屋の主人から勘定方を通じて赦免の願いがあり、さらには寺社方からも同じく赦免願いが届く。


鶴屋は幕府には無くてはならない御用商であり、()の神社の禰宜(ねぎ)も割と口利きの通る御仁だった。


これは彼らを味方につけた兵蔵の成せる技である事は明白だろう。それは白地(あからさま)過ぎて、松平某でさえ直ぐに気づいた。


気づいたけれども、勘定奉行所と寺社奉行所からの赦免願いを時の老中とは謂え、松平某も無碍(むげ)には出来ない。何しろ三大奉行のうち、その二つから脇をつつかれたのだから、仮に無視しようものなら政敵から痛いところを突かれるのは目に見えている。


そんな時に、南町奉行の大岡と北町奉行の遠山から直談判が起きる。


『お前たちもか…』


松平某は溜め息を漏らした。大岡も遠山も民の人気が高い。それは許より判官裁きの情け深さが民の心を打っていたからに他ならなかった。


この当時、民の人気が高かった神楽坂兵蔵は与力や同心を動員して、それとなく民の煽動を行ったのである。勿論、白地(あからさま)にやり過ぎると罰を受けるのは明白なので、それとなく岡っ引きや十手者を使っての回りくどいやり方を敢行したのだ。


その結果として、南北の町奉行所に民の恩赦を願う投書が殺到したのである。元々情け深さでは一二を争う大岡も遠山もこれは無視出来なかった。


だから行動を起こした。それに尽きた。


「御政道とは民を無視して出来る物では在りません。情けは人の為ならず、巡り巡って己が為です♪それで無くとも、幕府には既に巡り来たる国庫の潤いがあるのですから、もはや片手落ちでは説明が付きませぬ。このままでは、いずれ幕府にも災いが降り懸かるやも知れませぬ!ここは施しを忘れぬ方が宜しいのではないでしょうか?」


二人を代表して南の大岡が進言した。


「御意!儂もそう思います♪」


すかさず北の遠山も同意を示す。


「己ら…さては計ったな!」


松平某はこの時に、火盗と彼らがつるんでいる事にようやく気づく。けれどもこれで三大奉行は許より、民の知る所と成ってはもはや抗う事は出来なかった。


喩え老中で在っても、世間を敵にまわす事は出来ないし、民の声を封殺する事も敵わない。それが良識で判断した結果だとしてもである。


特に良識があるだけに、強硬な姿勢を貫く事が出来なかった松平某は、白旗を掲げて頷くより他に無かった。


「判った!判った!善処する!それでよかろう…」


老中を向こうに回して約束を取り付けた町奉行たちはにこやかに微笑み言った。


「ご明察です♪」


こうして打ち首獄門も遠島も取り下げられて、改めて処置が下った。


この度の火盗に依る一味の殲滅は見事なり。長年、手配されていた蝮の銀次と恐ろしい絵図を(えが)いたお万は、仲違いの上、その命を以てその罪を償えり。


善壱は殊勝にも抵抗せずお縄についた上は、反省の心在りと受け止め、打ち首獄門を取り下げ、遠島を申しつけるものなり。尚、悪党と謂えども人を殺めた余七も同じく遠島とする。


但し三年経た後に、再度吟味して再犯する懸念が無き時には、これを火盗預かりとする。さらには六太を除く兄弟たちは、人足寄場送りとし、手に職を付け、これも再犯する懸念が無き時には、放免とする。


最後に六太こと、上方任侠の子である助清については、鶴屋の命を救った事。またその娘・お節をも凶刃の手から救い出した事。誠に殊勝なり。依ってその功績と相殺し、無罪放免とするものなり。


老中・松平某は結局、大勢に押し切られる様にこうした裁可を下したので在った。


「有り難く♪」


神楽坂兵蔵は老中に頭を下げた。


『これで良かったのだ…』


彼はそう想い、罪を犯した者たちがこの情け深い処置に見合う罪の償いを今後尽くしてくれる事を願うのみだった。それと同時に、彼は不幸に身を投じねば為らなかった者たちの未来が明るいものに成る事を願って止まなかったのである。


松平某は、神楽坂兵蔵の才知を認めたものの、この先彼を町奉行に取り立てる事は無かった。もしかするとこの時の意趣返しとして、推挙する事を潔しとはしなかったのかも知れない。


けれども兵蔵はそんな事は露程も気にしなかった。彼は罪を憎み、厳しく取り締まる一方で、人には情け深く接する事をその後も変わらず貫く。彼はそういう信念を持った気持ちの熱い人であった。




「有り難う御座いました…この御恩はけして忘れません!」


六太は…否、助清はそう言って兵蔵に感謝を示した。兵蔵はにこやかに笑う。


「いゃいゃ…儂は当たり前の事をしたまでじゃ♪これからの事は(いず)れにしてもお前自身が考えねば成らん事だからな!よく翻意して手を貸してくれた。こちらこそ礼を申す♪義父や義弟が死罪に成らなくて済んだのも、その心根のお陰だろう!ところで御主は今後、どうするのかな?」


兵蔵のこの言葉に助清は苦笑いしながら応える。それは彼の示した覚悟だった。


「はい!当面の間は、禰宜様の許で修行し、私も心根を改めまする。私には世間的な常識が欠けていますので、そうせよとの禰宜様からの御言葉に従います。おそらくそれは余七や善壱殿が戻って来る頃まで続く事でしょう♪お節ちゃん…否、お節殿は私の事を待ってくれると仰ってくれています!旦那様も私が禰宜殿に認められた暁には、お節殿の婿にと仰ってくれたそうです♪私ほど恵まれた者はいないのだと今は感謝しかありません!私は二人が戻って来たら、善壱殿には孝行を、余七とは末永く兄弟として仲良くしたいと想っています。他の兄たちの事も忘れず、助け合える様に力を尽くします。そう…これからは悪さでは無く、人の手本になる様に善なる道で切磋琢磨する所存です♪」


助清は清々しい表情でそう応えた。


兵蔵はその決意に満ちた表情を眺めて、安堵し、その未来に(さち)あれと願って止まなかった。




やがて年季が明け、善壱と余七が遠島を解かれて帰って来る頃には、兄弟たちも揃って手に職をつけて戻って来る。


助清もその頃には禰宜から認められて、晴れて修行を卒業し、旦那様の計らいでお節とめでたく結納を交わす。


皆に見守られる中、鶴屋の跡取りとしてお節と愛を誓い合い、その愛情を育みながら二人は幸せな生涯を過ごす。


兵蔵に立てた誓いを守り、その後助清は、お節と共に皆の模範となるのである。困っている人を見掛けると必ず手を差し伸べ、助けると共に、その身の振り方も考えてやる。


そうしたひとつひとつの善行が、鶴屋を益々発展させる事に成った。めでたし。めでたしである。




そしてこのお話には蛇足が付く。


お万の残した根岸の宿には、恐いもの見たさも手伝って、大勢の野次馬が連日の様に押し掛けた。稀代の悪女ではあるが、その出自の物悲しさが江戸庶民の心に訴え掛けるものがあったのだろう。


そしてその凄絶(せいぜつ)な死に(ざま)もその興味に拍車をかけた。何しろ幼小の頃に全焼した大店から辛くも逃がれた幼子が、結局のところ、炎にその身を焼かれて亡くなったのだから、そこに得も言われぬ運命(さだめ)を感じずには居られなかったのだろう。


「きっと成仏出来ずにそこいらをさ迷っているに違いない!」とか「気をつけよ…触らぬ神に祟りなしじゃ!」とか、皆はまるで競い合う様に互いに(はや)し立てた。


怪談などの怖い話は、娯楽の少なかった江戸庶民にとっては、まさに江戸の華のひとつだったのである。そんな彼らも人の噂も七十五日と、時が経つに連れて忘れて行き、口の端に乗せる事も無くなっていた。


そんな頃合いに事件は起きる。




ある日の朝、見回りをしていた岡っ引きが根岸の宿の近くの路上で、頭の潰れた仏を発見したのである。それはまるで大きな岩が落ちて来たのに偶然、巻き込まれたような惨事だった。


この出来事は江戸庶民を戦慄させる。


「それ見た事か!」と、皆は口々にお万の祟りであると囃し立てた。それというのも岩に潰された割には、その凶器である筈の岩など近くに無く、綺麗に持ち去られたように見えたからである。


ところが町奉行所の懸命な探索の結果、驚くべき事実が判明した。根岸の宿は河辺付近にある。その河の中から、害者を(あや)めたと想われる大きな岩が発見されたのだ。


そして亡くなった仏が、生前は美しい賢女と呼ばれた人妻だった事から、益々お万の祟りだと真しやかに(ささや)かれるようになる。


この頃になると、講談の演目などから、お万が横恋慕した男から袖にされた事を怨み、その妻を大岩で殴り殺した事は、江戸庶民の間では周知の事実だと想われていたから、その信憑性は益々高まり、貞淑な人妻たちは怖れおののく。


次は自分の番ではないかと酷く怖れたのだ。その強迫観念は凄さまじく、江戸の街では陽が落ちる頃合いになると、女性は片っ端から家に引き込もり、誰ひとりとして出歩く者は居なくなった。


特に根岸の宿の界隈ではそれが顕著であり、その付近から人の存在を感じない程であったと謂う。そんな具合だから、これで祟りの連鎖に歯止めが懸かると皆が想っていたが、それはあっさりと覆された。




まだ陽が傾く頃合いに、愛し合う二人の若い男女が別れ際に抱き合い、口唇を重ね合った直後にそれは起きた。


まだ夕刻に成ろうとしていた時分だったから、当然の事ながら、道行く人々もまだ残っており、結果として多くの者たちがその目撃者となったのである。


「抱き合う恋人の頭上に、大きな岩が落ちて来たんです!」


「それは凄まじい音で、ドカッと馬鹿でかい音がしました!」


「私は最後まで見ていましたが、岩はドカッと頭を砕いたにも(かか)わらず、その後、弾むように河に沈んだんです。バシャッと水が跳ねる音が、今でも耳から離れません!」


皆は口々にそう言い合う。そしてどの顔も恐怖に(ゆが)んでそう訴えていたのだから、これには奉行所も参ってしまった。


本当に犯罪が行われて、実体のある者なら彼らだって懸命に追うし、捕まえる。ところが不特定多数の者たちが、実際にその瞬間を目撃したとなると話しは別で、もはや彼らにはどうしようも無かった。


そこで幕府は異例中の異例だけれども、寺社奉行所に働きかけて、寺の大僧正と神社の禰宜(ねぎ)にお万の御霊(みたま)(まつ)るように依頼する。


二人は根岸の宿と根城でその御霊を祀る。するとそれ以降に、異変が起きる事は無かったという事だ。




ある晴れた日の午後に、助清とお節は久し振りに根岸の宿を訪れて、お万の御霊を(とむら)う。


お万の成仏を願いながらも、二人は終始、落ち着く事は無かった。何しろお万には、罠に嵌められた挙げ句の果てに、心中させられる筈だったのだから、気分が良い訳が無い。


けれども喩え殺され掛けた相手であっても、助清にとっては育ての母であり、お節にとっても一時とは謂え、良くしてくれた女性だった。


それが仮に罠に掛けるためだとしても、人の世は七転び八起きであり、そんな苦しい時期を経験したからこそ、今があるのだと二人とも想っていた。


そして考えようによっては、お万こそが彼ら二人の愛のキューピットなのである。


「お万さん…有り難う♪」


二人はそう心に念じて、根岸の宿を後にした。幸せな二人には、既に想うべくも無かったが、ここは彼らにとっての、謂わば分岐点だったのである。


二人が幸せそうに帰って行く背中を、根岸の宿は見ていた。彼らの互いを想う気持ちや勇気が無ければ、ここは彼らにとっての根切りの宿と成っていたのである。


二人は知ってか知らずか、もう後ろを振り返る事は決して無かった 。 (了)

【後書き】


ほぼこの1ヶ月間は、この作品と格闘をしていました。当初のコンセプトは、悪女の出て来る怪談で、夏のホラー2025に参加する予定だったのですが、《水》というお題にそぐわない事。そしてそもそもホラーも悪女も全く扱った事の無いジャンルだった事もあり、参加を取り止め、初めてのジャンルに挑戦するつもりで書き上げました。


時代小説というジャンルも、歴史小説を軸とする私にとっては難しい乗りで、学生時代に時代劇に嵌まっていた頃を思い出して克服。何とか軌道に乗り安心していました。


ところが今度は前半部と後半部の論理破壊が起こり、空中分解…。本来は連載も抱えている都合、3週間勝負で書き始めたものが頓挫。激しい落胆に陥り、一旦諦め掛けました。


翻意しては落ち込み、また翻意しては落ち込みと、途中三度ほどもう止めようと筆を置きましたが、何とかものに出来た次第です。(^。^;)…まさに格闘。いずれにしても初めて尽くしの物語を書き終えれた事は今後の励みに成る事でしょう。


この物語は時代小説を軸に、悪女あり、怪談要素あり、推理要素あり、そしてちょっとエッチな要素あり…とまぁ、いろいろ盛り付けしてしまいましたが、バランスは悪くないと思います。


私の小説の特徴である、ことわざや故事成語、軽妙な言い回しなども、まんべんなく配置されていて、活きていると思いました。また、冒頭からジワジワと展開する流れも割りと巧くいった方かなと思います。


賛否両論はあると思いますが、じっくりと向き合って最後まで完走したこの作品を是非読んでいただけたら嬉しいです。


《筆者より》

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