西日の差す喫茶店にて-南風に乗って-
朝から雲ひとつない快晴。南風が吹き、気温はぐんぐん上がってきた。
大気は不安定になり、夕方からは急な雷雨に注意が必要だと天気予報で言っていた。
唐突な梅雨明けから、ここ数日、毎日同じような天気が続いていた。
『船でのんびり、島時間を満喫!』
そんなキャッチコピーが書かれたパフレットを広げると、ところ狭しと島の魅力が書き込まれていた。
おいしい島寿司、天然温泉、ホエールウォッチング、美しい砂浜、火山の頂上から見える風景、夜には満天の星空……。
わたしはいつもの喫茶店で、あまりの暑さに頼んだアイスコーヒーをストローで飲みながら、スマートフォンを横に置き、このパンフレットを眺めていた。旅行会社のサイトを調べてみると、島旅は国内旅行で遠出をするより安上がりになることもあるようだった。
わたしはこの夏に、生まれて初めて離島へ行く計画を立てようとしていた。
今日は休日だったが、急に入った用事を昼までに何とか終わらせ、ターミナル駅での乗り換えの時、気分転換にふらりと観光案内スペースに立ち寄った。そこにあったパンフレットをいくつか手にしたのがきっかけだった。
パンフレットをテーブルの上で回しながら見ていると、隣りに座っていた老夫婦と思われる女性が話しかけてきた。
「失礼ですが、この島に旅行に行かれるのですか?」
「え? あ、はい。まだ計画しているところですが、この夏に行ってみようと思っているところです」
「それは、ぜひ。いいところですよ」
彼女はにっこりとほほえみながら言った。
「行かれたことがあるんですか?」
「ええ。でも、行ったというより、わたしはその島の出身なんですよ」
「ほんとうですか? じゃあ、島はお詳しいですよね」
「ええ、よく知ってますよ」
「わたし初めてなので、いろいろ教えてもらえたらうれしいです」
「あなたのお時間が大丈夫なら構いませんよ。でも最近はほとんど帰っていないから、ちょっと古い情報になってしまうかもしれないけれど」
「構いません。ぜひお願いします」
おそらく夫だと思われる男性もこちらに興味を示していたので、わたしはパンフレットをふたりに見えるように置いた。
「島は何がいちばんおすすめですか?」
わたしはパンフレットを興味深そうに見ているふたりに聞いた。
「そうねぇ……。初めてなら海鮮料理は外せないわよね」
「それならやっぱり島寿司だろ」
彼が言った。
「島寿司っていうとこれですか?」
わたしはパンフレットに載っている写真を指さした。
「そうそう、それだ。魚は漬けになっていて、からし醤油で食べるんだ」
「からし醤油? へぇ、そんなの食べたことないです」
「うまいぞー」
「お寿司だったら、こっちのお店の方が安くておいしいわよ。親戚がお正月に行ったって言ってたから、たぶんお店はまだあるはずよ。ねえ、あなた?」
彼女は彼に同意を求めるように話しかけた。
「ああ、やってると思うけど、いつ休むかわからないから、行く前に電話でもするといいかもな」
「そうします」
わたしは手帳を出してメモを取り、ついでパンフレットの地図の店がある場所に丸印を付けた。
「他にはおすすめはありますか?」
「そうね、夏は海がいいかしらね」
「そうだな、昼間は暑いけど、ここの砂浜は綺麗でいいぞ」
「そこだったら、夕日も綺麗に見えるわよね。バスはあまりないかもしれないけれど、歩いて行けないこともないわよ。このあたりに泊まるなら、この道を通って……」
彼女はパンフレットの地図に描かれた道を指でたどっていたが、急にその手を止めた。
「ねえ、あなた。わたしたち、このあたりで出逢ったのよね?」
「ああ、そうだったかな……」
「え?」
わたしはふたりが何の話を始めたのかわからず、思わず小さく口に出した。
「ちょうど今日みたいに夏の暑い日だったわ。用事があって母親とふたりで歩いていたんだけど、母親が急に気持ちが悪くなってしまって、道路脇にうずくまってしまったの。あとで思うとたぶん熱射病だったのよね。今は熱中症っていうのかしら」
「お母さん、大丈夫だったんですか?」
「ええ。ちょっと休んでいれば治るだろうと思っていたの。そしたらね、ちょうど島に遊びに来ていた彼が通りかかったのよ。友達も何人かいたんだけど、彼が様子のおかしいわたしたちに気付いて、どうしたのかって聞くから事情を説明すると、彼は母親をひょいっておぶって『早く帰って休んだほうがいいですよ、家はどこですか?』って言ったのよ」
彼女はわたしの方を見てびっくりした表情をした。
「なんて人なのって思って、あ、悪い意味じゃないわよ。とにかくわたしはあっけにとられてしまって、うまく返事もできないまま、彼に母親を家まで送ってもらったの。それで、とりあえず彼に泊まっている宿を教えてもらって、夕方には母親の調子もよくなったから、ひとりで宿までお礼に行ったのよ。それからよね」
「そんなこともあったな」
彼はそっけない返事をした。
「普段は手紙でやり取りして、長いお休みになると彼はかかさず遊びに来てくれて、他の友達ともまだやり取りしているのよ」
「あいつらとも長い付き合いになるな。島に移住したやつもいるんだよ」
「へえ、よっぽど島が気に入ったんですね?」
「気に入ったというより、島にいた彼女が気に入ったっていうかな。なあ?」
彼は笑いながら彼女の方を見た。
「わたしのお友達なのよ」
「そうなんですか。そのお友達はずっと島にいるんですか」
「ああ、かれこれ何十年か」
「もうわたしよりも長く島にいるのよね」
それから、わたしたちは他にもいくつか話をして、時計の針はあっという間にひと回りしていた。
「わしらはそろそろ帰るとしようかな」
「ごめんなさいね。なんだか嬉しくなっちゃって、ついついおしゃべりが過ぎてしまいました」
「いえいえ、こちらこそ参考になりました。有難うございました」
「だったらよかったわ。ではお先に失礼します」
「あ、わたしもそろそろ帰ります。続きは家に帰ってから、じっくり計画を立ててみます」
「そう? じゃあ一緒にお店を出ますか?」
「はい」
グラスの底には氷の溶けた水が溜まり、グラスを覆っていた小さな水滴もいつの間にか乾いていた。
店を出ると強い日差しは相変わらずだった。
今日は老夫婦とずっと話をしていたので、店の中の様子はあまりよく憶えていなかったが、服に染み付いたコーヒーの香りがやさしく香った。
「大きな入道雲だな……」
彼の声のする方を見ると、真っ白な雲が天に向かって湧き立っていた。
「あの日もそうだったわね」
彼女は日傘を広げながら言った。
「おふたりが出逢った時ですか?」
「いえ、島にいる時にちょっとした事故があってね……でも、もう昔のことです。その日も大きな入道雲が出ていてね、同じような景色を見ると、やっぱり思い出しちゃうのよね」
彼女はそう言ってわたしの方を振り向いた。
「また、会えるかしら?」
「この喫茶店にはよく来ますから、会えると思います」
「そうだといいわね。島に行ったらお話をたくさん聞かせてね」
「はい、もちろん」
「おーい、行くぞー」
先に歩き始めていた彼が呼んでいた
「わたしたち、あっちなの。それじゃね」
彼女は丁寧にお辞儀をして、わたしもあわててお辞儀を返した。
わたしはそのまま店の入口で、ふたりの姿を見送っていた。
生暖かい風が吹き、この夏初めてセミの声を耳にしたような気がした。
彼女の歩調に合わせて、白い日傘が揺れている。
その時、急に強い風が吹き、レースの日傘が風車のようにくるくると回った。