第3話 刺客を放たれて危機一髪(改訂)
『リリーナ! ぼくのお嫁さんになって!』
暮れなずむ空の下で、また幼い私たちは小さな約束をした。
狼の仮面を付けたその子の顔はわからなかったけれど、優しく私の手を握る温かさは今もずっと覚えている。
その子の素性を知らなかった私に、彼がロイド・ウォーレンハイムだと教えてくれたのはマシューお兄様だった。
それ以来、私はずっとロイドとの婚約を夢に見ていたし、それが家の為にもなるなら本望だった。
それなのに――。
「ロイド……!」
幼い頃の夢から、咄嗟に目を覚ます。
ランプが消えた暗闇の中で、早鐘を打つ鼓動が妙にうるさい。
ふと、暗い室内で何かが光った気がして視線を上げると、ベッドの脇に音もなく立つ黒づくめの影と目が合った。
顔の半分を仮面で隠した男は、三日月のような曲線を描く刃物を握り、ここで何をしようとしているのか。考える前に悲鳴が出た。
「きゃっ……!」
「ちっ!」
叫び声をあげる口を乱暴に掌で塞がれ、男は左手に持った白刃を私目がけて容赦なく振り上げる。
(刺されるっ……!!)
閃く曲刀が胸元へ突き立てられる瞬間、視界の端で寝室のドアが開いた――。
「動くなっ!」
鋭い声と共に金属音が響き、私は息を止める。続けざまに、曲刀が何かに弾かれて床に落ちる音が響いた。
「くそっ!」
獲物を失ったことで焦ったのか、侵入者はベッドから勢いよく飛び退いた。
間近に迫っていた脅威が離れたことで、恐るおそる首を巡らせると白刃を携えた銀髪の人影が駆け寄ってくる。
「フランシス、様……?」
黒ずくめ男と対峙するように立っているのは、触れれば凍り付きそうなほど張りつめた空気を放つフランシス・キシンガム――その人だった。
「へぇ、お前がキシンガム侯爵か」
左手から滴る血を抑えながら、侵入者はおどけたように肩をすくめた。
「オレは……そうだな、ベレフとでも名乗っておこう。こんなところで秘書官様に会えるとは思わなかったぜ」
「お前達が考えることなど、こちらは手に取るようにわかる」
私を介抱してくれたときとは明らかに違う冷たい声音に、驚きと不安でぞくりとする。
(でも、『お前達』ってどういう意味? この男に仲間でもいるの……?)
ベレフと名乗った男は顔に付けた仮面の下から、くぐもった笑い声を漏らす。
「威勢だけはいいな。お前のことは色々と聞いてる。ペルトランデの『冷血公』だったか?」
心当たりは全くないけれど、どうやらこのベレフという男の狙いは私らしい。
迂闊に動けない代わりに、少しでも情報を得ようと必死に二人の会話に耳を澄ませる。
「……最も信用できないのは、よく喋る密偵だ。だが、私は嫌いではない」
挑発されたフランシス様は先ほどと変わらず、動揺することなく剣を構えた。
その態度に、相手も僅かに緊張したように見える。
「尋問する甲斐があるからな。そうは思わないか?」
底冷えのする殺気を感じた瞬間、目にも留まらぬ速さで一閃が放たれた。
(これって……!!)
剣そのものから放たれる異様な冷気を認めた瞬間、それが精霊魔法の発現だと気づく。
一撃目の剣を曲刀で受け流したベレフは、凍てつく切っ先の軌跡を追うようにして現れた冷気の刃を正面から受けてしまった。
「ぐあっ!?」
窓を突き破ってバルコニーの柵に身体を打ち付けた黒い影は、不利を悟ったのかすぐに身を翻して階下へと飛び下りる。
それを見て、私も慌ててベッドから下りる。
「し、下には使用人の部屋が……! 急いで知らせないと!」
兄の帰りを待って数人の使用人が起きているはず。
彼らがベレフと鉢合わせしたら、無事では済まない。
「いえ、退却したようです。逃げ足の早い……」
バルコニーから下を眺め、銀髪のその人は静かに振り返る。
「こんなに早く再会することになるとは思いませんでした」
青い瞳に宿っていた緊張がゆっくりと解けていく。
本当に脅威が去ったことを確信して、助けてくれたお礼を述べようと私は彼へ歩み寄ろうとした。そして、心に湧いた疑問に足を止める。
「フランシス様……それは嘘でしょう?」
バルコニーに残されたベレフのものと思われる血痕を観察していた銀髪が風に揺れて、こちらを向く。
「貴方は、今夜私が襲われることをご存じだったのでは……?」
夜風になびく髪をそのままに、私は目の前に立つ彼の一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らす。
『多くの人は、嘘を吐いたり動揺したりすれば必ず微かな反応を示すものだ』――小説の主人公の台詞を反芻しながら『冷血公』の前に立った私は、月下に照らされた冴え冴えとした美貌を見つめた。
「どうして、そう思われるのです?」
「……貴方はあの男に『お前達が考えることは手に取るようにわかる』と仰いました。つまり、ベレフというならず者が私の命を奪いにやって来るということを、予め知っていたのではありませんか」
「……」
返答の代わりに、靴音がゆっくりとこちらへ近づいてくる。
社交界で噂を聞かない日がないくらいに話題の人となっているフランシス・キシンガムという男は、その冷たい美貌と共に冷酷無比に職務を全うすることから『冷血公』と呼ばれているらしい。
国王陛下の命によって大司教の護衛に就いてはいたけれど、彼の本来の役目は敵国の密偵と国内にいる内通者の捕縛。そこには、口にするのも憚られるような拷問と無慈悲な処刑とが含まれているのは言うまでもない。
(そんな方なら、事前に何かの情報を掴んでいてもおかしくないはず)
パキッ、と割れたガラスを踏む音がしたとき、彼は手を伸ばせば届く距離に立っていた。
「……どうやら、口を滑らせていたのは私だったようだ。やはり貴女は聡明な方だ」
そう言った『冷血公』の表情に、初めて仄かな笑みが浮かぶ。
「リリーナ嬢、どうか私と……」
柔らかな青い瞳に見つめられ、永遠のような一瞬に捕らわれそうになったとき――。
「リリーナぁぁぁーーーー!!」
階下から怒号に近い叫び声がしたかと思うと、何かがドアを蹴破る勢いで飛び込んできた。




