第2話 泣き濡れて一晩
「しくじりましたね、閣下」
囁くような老人の声と衣擦れの音。
誰かの指先が私の目尻を優しく拭う。
「……」
「事を急ぎ過ぎたのです」
「わかっている。だが、これ以上は待てない。俺が一体どれだけ待ったと思っているんだ」
「……若さですな。冷血公ともあろうお方が」
「誰だそんな呼び名を付けたのは……。ひとりひとり尋問して出所を炙り出してやろうか。目の前で家族を拷問にかければ、すぐに吐くだろう」
「……冷血ですな。そういうところは」
くっくっと漏れる老人の忍び笑いに、相手は毒気を抜かれたように溜息を吐いた気配がした。
「う……」
「リリーナ……!」
ようやく意識がはっきりしてきた私は、名前を呼ばれるままに目を開く。
「大丈夫か?」
目の前に現れた青氷を思わせる瞳に、一瞬で混乱する。
ロイドは琥珀色の瞳だし、私の家族の中にだってこんな虹彩の人はいない。
さらりと額に落ちた銀髪を見た瞬間、一気に記憶が雪崩れ込んでくる。
「フランシス様! わ、私は……どうなって……?」
「気を失って倒れた貴女を、冷血公……ではなくフランシス閣下が自宅で保護していたのです」
そう言ったのは白と黒の服に身を包んだ初老の男性だった。
胸元に教会の紋章が刺繍されているから、おそらく司祭か何かなのだろう。
フランシス様が警護していたという司教は、精霊教会本国から我が国へと派遣された教会内の有力者。
側近として司祭を数名連れて来るのは当然だし、彼らの警護を任されていたフランシス様の屋敷に出入りしていても不思議ではなかった。
「目が覚めて良かった。意識のない貴女を抱えたフランシス卿の慌てようと言ったら、それはもう……」
「モリス、もういい。リリーナ嬢、どこか痛むところは?」
「……いえ、特に」
「きっと、お疲れになったのでしょう。今はゆっくり休むことです」
モリスと呼ばれた男性の労わるような響きを感じ取り、改めて舞踏会で起こったことが現実なのだろ思い知る。
「そう、ですね。助けていただいて、ありがとうございました。……私、家に帰ります」
「……ならば、馬車を出しましょう」
フランシス様は敢えて引き留めることなく、言葉少なに私の望みを聞き入れてくれた。
馬車に乗り込むとき、「婚約のことは、後日改めて」と告げられる。
そうだった。婚約を破棄されたその場で、私は彼に婚約を申し込まれていたのだ。
周りの人々は私に同情的だったけれど、ロイドへの気持ちに整理がつかない私は到底フランシス様を受け入れることはできない。
婚約破棄された途端に、すぐ別の相手に乗り換える薄情な女だと噂されでもしたら、堪まったものじゃない。
自分の屋敷に戻ってくると、騒ぎを聞きつけた家族と心配するメイドたちをなだめて、早々に自室へ引きこもる。
ロイドの好きな肩を出したドレスは、思っていた通り少し肌寒かった。
ロイドと踊りやすいように彼の背丈に合わせて履いた高めのヒールは小柄な私の足には馴染まなくて、靴擦れで血が滲んでしまった。
これまであらゆるものを彼に合わせようと努力してきたけれど、全て意味のないことだったんだ……。
ぽろりと涙が零れて、私はベッドに潜り込んだ。
今はもう、何も考えずに眠ってしまいたい。
◇◇◇◇
『リリーナ! 将来ぼくのお嫁さんになってね! ぜったいだよ!』
あれは、収穫祭のときに親に連れられてどこかの屋敷に集まったときのこと。
子供は一日仮装をして過ごすという慣習に倣って、私は三角帽子の魔女の格好を。ロイドは狼の仮面をつけていた。
他にも、頭から白い布を被ったお化けの格好をした男の子や様々な装いの子がいたけれど、自然と私たちはふたりで遊んでいた。
彼に会ったのはその時が初めてで、なのに初めて会ったとは思えないくらい一緒にいて楽しくて。
夕刻の別れ際、私たちは暮れなずむ空の下で小さな約束をした。
仮面の下で私を優しく見つめる瞳の輝きは、今もずっと覚えている。
それなのに――。
「ロイド……!」
幼い頃の夢から、咄嗟に目を覚ます。
早鐘を打つ鼓動がうるさい。
ふと、暗い室内で何かが光った気がして視線を上げると、私に馬乗りになった黒づくめの男と目が合った。
その瞳は、あの冷血公の青氷とは違って、全ての光を飲み込む汚泥の奥底のように淀んでいた。
「きゃっ……!」
「ちっ!」
私の口を手のひらで塞ぎ、その男は左手に持った白刃を容赦なく振り被る。