第2話 泣き濡れて一晩(改訂)
「しくじりましたね、キシンガム卿」
「……」
囁くような男性の声に、返ってきたのは沈黙だった。
「事を急ぎ過ぎたのでは?」
沈黙の奥へ向かって重ねられた質問に、ようやく相手が小さく溜息を返した。
「わかっている。だが、この機会を逃すことはできない」
「またひとつ、『冷血公』の名に箔が付きますなぁ」
(冷血……公……?)
近くで交わされる会話を、私は夢現のまま聞いていた。
「その呼び名、一体誰が言い出したんだ。先日、陛下にまで揶揄われたが……」
「それはそれは。まあ、秘書官のどなたかではありませんか?」
「……ひとりひとり尋問するとしよう。すぐに吐かせる」
淡々とした声に、くっくっと忍び笑いが零れた。
「同僚にも容赦がないとは。箔が増すばかりですなぁ」
静かな、それでいて物騒な会話をぼんやりと聞いていた私は、ようやく意識がはっきりし
てくる。
「う……」
「リリーナ嬢」
誰かが椅子から立ち上がって近づく気配がした。
名前を呼ばれるままに、そっと目を開く。
「お加減はいかがですか?」
こちらを覗き込む銀髪の男性に頭が混乱する。
私の知り合いに、こんなに綺麗な銀髪を持つ人はいないはず。
さらりと額に流れる髪の下、青い虹彩を見た瞬間、一気に記憶が雪崩れ込んでくる。
「フランシス、様? 私……急に眩暈がして……。あ、あれから私、どうなったんでしょう!?」
さっと辺りを見回すと、どうやら来客用の寝室に寝かされているらしかった。
「気を失って倒れた貴女を、『冷血公』……ではなく、キシンガム卿が自宅にお連れになったのです」
そう言ったのは白と黒の簡素な服に身を包んだ初老の男性だった。
胸元には教会の紋章が刺繍されているから、精霊教会に籍を置く方なのだろう。
フランシス様が護衛していたという大司教は次期枢機卿と目される方らしく、巡礼にも多くの部下を連れていたはず。
(この方も大司教様の部下のおひとりなのかしら?)
寝たままでは失礼に感じて上体を起こすと、彼は優しく手を貸してくれた。
「目が覚めて良かった。意識のない貴女を抱えた卿の慌てようと言ったら、それはもう……」
(慌てる? フランシス様が……?)
『冷血公』と名高い人が、初対面の私が倒れたくらいで慌てるのかと不思議に思って視線を向けると、小さな咳払いが聞こえた。
「リリーナ嬢、どこか痛むところは?」
「……いえ、特に」
「きっと、お疲れになったのでしょう。今はゆっくり休むことです」
モリスと呼ばれた男性の労わるような声に、改めて夜会で起こったことが現実なのだと思い知らされる。
(そっか……私、ロイドに婚約を破棄されて……)
「そう、ですね。助けていただいて、ありがとうございました。……私、屋敷に戻ります」
「ならば、馬車を出しましょう」
夜も深いというのにフランシス様は引き留めることなく、私の望みを聞き入れてくれた。
馬車に乗り込むとき、「婚約のことは、後日改めて」と告げられる。
「……今日はありがとうございました。失礼いたします」
当たり障りのない挨拶を返して馬車に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出した馬車の振動に身を委ね、目を閉じる。
婚約を破棄されたというだけでも問題なのに、その場で新たに婚約を申し込まれるなんて、さすがに頭を抱えたくなる。
(お父様だって今回のことを黙っているはずがないわ。これからどんな影響が出るか……)
愛していた人を失った胸の痛みとは別に、目の前には頭が痛くなるような問題が山積みだった。
エドフォード家の屋敷に帰ってくると、騒ぎを聞きつけたメイドたちが温かく迎えてくれる。
ちょうど、お父様が議会の仕事で屋敷を空けている時期だったせいで、余計に心配をかけてしまったらしい。
「おかえりなさいませ、リリーナ様。……あの、ロイド様の件は本当なのですか?」
「キシンガム侯爵から伝令が来たときは驚きました! お加減はいかがですか?」
「ありがとう、みんな。私はもう大丈夫だから詳しいことは明日にしましょう。……お兄様は?」
いつも身の回りの世話をしてくれているアイリーンが他のメイドを下がらせて、私と共に自室へ付いてくる。
「マシュー様はウォーレンハイム邸へ向かわれました。お出かけになる前に、リリーナ様宛てのお手紙を預かっております」
そう言って渡された手紙には、私を心配する内容と共に、ロイドの父であるウォーレンハイム伯と平和的に話し合ってくるという内容が記されていた。
「……お兄様ったら、すぐ先方へ行かなくてもいいのに。耳が早いのも考えものね。……誰がお兄様にこのことを?」
「キシンガム家の伝令です。ロイド様の件とリリーナ様が倒れられたことを聞いた途端、マシュー様が飛び出されました」
アイリーンに寝支度を整えてもらいながら状況を把握した私は、ようやくベッドへと腰を下ろした。
「……わかったわ、ありがとう。貴女ももう休んで」
アイリーンが部屋から出ていくのを見送って、ふと机の上に置かれた一冊の本に目が留まった。
それは先日発売されたばかりの推理小説。
貴族の子女が読むには適さない大衆向けの小説ではあるけれど、偶然学校で手に取って以来、このシリーズを気に入ってしまい、新刊が出る度にこっそりアイリーンに買いに行ってもらっていた。
(夜会から帰ったら読もうと思っていたけど、当分そんな気分にはなれないわね……)
ドレスから着替えたことで、ようやく肩の力が抜けていく。
ロイドの好きな肩を出したドレスは、思っていた通り少し肌寒かった。
ロイドと踊りやすいように彼の背丈に合わせて履いたヒールは私の足には馴染まなくて、靴擦れで血が滲んでしまった。
お兄様が話し合いに出向いたところで、あの場で告げられた婚約破棄を撤回することは不可能だろう。
(全て意味のない努力だったなんて……)
これ以上考えたら惨めな気持ちになるとわかっているのに、溢れて来るものを止められない。
眠ろうと目を閉じた拍子に、目尻からぽろりと涙が零れる。
指でそれを拭いながら、不意に夜会で出会ったフランシス様の姿が呼び起こされた。
(そういえばあの方、何も言わずに涙を拭ってくれたわ……。色々と思うことはあるけれど、今晩のことは改めてお礼を伝えないといけないわね)
手袋越しに感じた温かさを思い出しながら、私は静かに眠りに落ちていった。




