第1話 破棄されて婚約(改訂)
楽団の奏でる音楽が心地よく響き渡る。
シャンデリアのきらめきが、着飾った貴族たちを更に華やかに輝かせていた。
仕立てのいい夜会服に身を包んだ彼らが談笑しているのを目にするだけで、気分が高揚していく。
(今夜の夜会も立派なものね……!)
仕事で欠席している父と兄に代わり、エドフォード伯爵令嬢として知り合いの貴族との挨拶を済ませ、他に知り合いがいないか、さり気なく辺りを見渡す。
伯爵家の娘として、幼い頃から教えられてきたのは社交界での立ち居振る舞い。
家名に恥じない礼儀作法と共に、他の貴族との親交を深めることは、貴族の娘に与えられた仕事ともいえる。
そして、最も大事な仕事は家と家を繋ぐこと――婚姻だった。
(一通り挨拶は済んだわね。今夜は彼も来ているはずだけれど……)
目当ての姿はすぐに見つかって、私は笑顔で駆け寄った。
「ロイド、ここにいたのね」
歓談の輪から外れて会場の様子を眺めている茶色の瞳がこちらを認めると、小さく口元を動かした。
「え?」
ちょうど演奏が終わり、周囲から拍手が沸き起こる。
聞き取れずに首を傾げた私を見て、ロイドは苛立った様子で語気を強めた。
「リリーナ、君が我が家を資金難に仕向けたことはわかっている」
一瞬、何を言われたのか分からずに固まる。
「な、何を言っているの……? ウォーレンハイム家にそんなことするわけないじゃない。現に父は融資を申し出たし、なにより貴方はウォーレンハイム家の次期当主で私の婚約者……」
そんな大切な人を陥れるような真似をするわけがない。
ロイドの視線がさっと辺りへ向けられ、すぐに冷たい表情で私を捉えた。
「だからさ! 僕と婚約することを条件に、融資を申し出たんだろう!」
「それは違うわ……!」
父であるエドフォード伯がウォーレンハイム家を援助することにしたのは、長年の付き合いがあるから。
ロイドの父であるウォーレンハイム伯はその援助に感謝の意を示し、両家の絆をより深くするためにロイドと私の婚約を提案した。
まだ公での発表は控えているものの、書面の上では婚約が成立している状況だった。
「ロイド、一体どうしてそんなこと……!?」
貴族にとって結婚は家同士の結びつきや政局に左右されるもの。
稀に恋愛結婚というものもあるけれど、貴族の家に生まれたからには私もその辺りは弁えて生きてきた。
だからこそ、幼い頃から好きだったロイドとの婚約がどれほど嬉しかったか。
(好きな人の家を苦しめるようなこと、するはずがないのに……!)
動揺する気持ちを抑えて早く誤解を解かなくてはと思うのに、大切な人から疑われた衝撃でうまく頭が回らない。
「い、一度場所を変えて話しましょう! これ以上ここで話すのは……!」
発表がまだとはいえ、噂話はすぐに広がる。
恐らく、今夜の夜会にも私たちの関係を既に知っている者がたくさん参加しているはず。そんな所で込み入った話をするのはまずい。
「悪いが、 僕には心に決めた人ができたんだ」
「は……?」
取り繕うために浮かべていた笑顔が凍る。
それまで厳しい表情で私を捉えていた瞳が、すっと窓辺に佇む小柄な影へと引き寄せられていくのがわかった。
釣られるようにしてそこにいたのは、長い黒髪に幼げな顔立ちの少女。
学校で何度か見かけたことのある下級生のマリア・グレイだった。
男爵家の長女である彼女はあまり目立つタイプではないけれど異性からの人気は高く、学校でもひときわ目立つ存在でもある。
(まさか……ロイドは彼女のことを……?)
マリアはこちらに向けてにこりと微笑むと、ドレスを摘まんで華麗にお辞儀してみせた。
私に向けられる笑顔はただただ愛らしく、それが婚約者を奪い取った余裕の証に思えて、一気に悲しみと怒りが沸き起こる。
「待って、ロイド! 自分が何を言ってるか、よく考え……!」
「リリーナ、君との婚約を破棄したい!」
ロイドの決定的な言葉は場内によく響いた。
いつの間にか周りの貴族たちは歓談を止め、少し離れて私たちを見守っている。
――婚約破棄。
ずっと好きだった人からあらぬ疑惑を持たれたうえに、一方的な宣告。
『リリーナ! ぼくのお嫁さんになって!』
幼い頃の遠い記憶が不意に蘇って、目頭が熱くなっていく。
(こんなの……いくらなんでも、こんなの……あんまりだわっ!)
涙なんて流したくないのに、視界はすっかり歪んでいて瞬きひとつすれば、今にも熱い雫が零れ落ちそうだった。
「リリーナ・エドフォード嬢」
堪え切れずに俯こうとした瞬間、凛とした声が降りかかる。
しん、と静まった場内によく通る声だった。
私たちを遠巻きにしている人々が自然と道を空け、すらりとした人物が近づいて来る。
(誰……?)
銀糸のような髪を後ろで束ねたその人は、美丈夫といっても差支えのないほど整った顔をしていた。
幼い頃から社交界への憧れはあったものの、こうして夜会に顔を出すようになって日が浅いせいか、彼の顔には覚えがない。けれど、ひとつだけ心当たりがあった。
(二年ほど国外に行かれていた国王秘書官が最近戻られたと聞いた覚えが……ええと、確か名前は――)
近づいてくる靴音が目の前で止まる。
「私はフランシス・キシンガムと申します。お見知りおきを」
きらびやかな会場にあって、目の覚めるような銀髪と氷のような青い瞳を持った彼は、静かに私の手を取って口づけた。
フランシス・キシンガム――氷のような美貌と、とある噂から『冷血公』と呼ばれる人物。
彼は評判通りの無表情で私を見つめていた。
「失礼、お話が聞こえてしまったもので。たった今、婚約を解消されたと?」
「っ! そ、それは……!」
唐突な質問に私が言い淀んでいると、フランシス様との間に誰かが割って入ってくる。
「ああ、そうだとも!」
ロイドはフランシス様に動じることなくはっきりと肯定した。
対するフランシス様はその氷のような瞳でロイドを一瞥すると、無言のまま横をすり抜けて私の耳元へ顔を近づけた。
「リリーナ嬢、公衆の面前で貴女の顔に泥を塗った彼が憎くはありませんか?」
「えっ?」
「ここはひとつ、私と手を組みましょう」
(手を組む? この人は何を言って……?)
彼を見つめる瞳から、不意に今まで堪えていた涙が零れてしまった。
あっ、と小さく声を漏らすのとほぼ同時に、フランシス様の指先がそっとそれを拭ってくれた。
「お、おい!」
無視されたと感じたのか、ロイドはさっきよりも苛立った声を上げる。
「いきなりなんなんだ。一体どういう……!?」
感情的になるロイドとは正反対に、冷血公と呼ばれるフランシス様は無表情のまま向き直る。
「リリーナ嬢は私がもらい受けます」
「なにっ!?」
「え……えっ?」
ロイド以上に驚く私の肩に手を添えて、「私たちの婚約の証人は皆さんです。よろしいですね」と、フランシス様はよく通る声で周囲の貴族たちへと言葉を投げかけた。
婚約破棄を告げられた私を見守っていた人々は、予想外の展開に呆気に取られているようだった。けれど、フランシス様の呼びかけに、どこからともなく拍手が沸き起こる。
「それでは、失礼。ロイド・ウォーレンハイム」
微かに底冷えのする響きに、さすがのロイドもたじろぎ、それ以上は口を噤んでしまった。
その間にも場内の拍手は大きくなっていき、それに背中を押されるようにしてフランシス様は私の手を引いて夜会を後にした。
(な、何が起こってるの……? ロイド、どうしていきなりあんなことを……)
幼い頃から好きだったロイドと婚約できたことが嬉しかったのに、突然婚約破棄を言い渡されるなんて、到底信じることができない。
しかも、フランシス様からの婚約の宣言は多くの貴族が耳にしている。今夜中には事の顛末が国内中に知れ渡ることになるはず。
あらゆることが、私の気持ちを無視して進んでいた。
「……ない、で……」
夜会の玄関に停まっていた馬車へ促された私は、そこでようやく声を出した。
「リリーナ嬢?」
国王秘書官ということは私なんかよりも、ずっと地位のある方だ。
だから、いつも以上に礼節を守って接しなくてはならない。
家名の恥になるようなことだけはしてはならない。そう習ってきたはずなのに、私はもう感情を押し殺すことはできなかった。
「私を、モノみたいに扱わないでください……」
はっと息を呑むのが聞こえて、その隙に支えてくれていた彼から身体を離す。
「ロイドも貴方も、勝手な方……。たった一言で婚約者から他人に戻れるはずがないわ……その逆も同じです」
情けないほど震えた弱々しい声に、非難の意思を込めてフランシス様を見上げる。
「…………」
あの場から連れ出してくれたことはありがたいけれど、私の意思を無視して婚約を一方的に決めようとしている点で、この方もロイドと変わりない。
(私のような小娘がこんなことを言うなんて……きっと、お怒りになられるわね……)
正式に父へ抗議が届けば、それなりに叱責されるのは予想できる。
それでも、私は黙っていられなかった。
「……貴女の言う通りだ。申し訳ありません。ですが、どうか今は馬車へ乗ってください」
フランシス様は特に怒る素振りもなく、落ち着き払った声で恭しく手を差し出した。
「え?」
予想とは違う反応に困惑する。
「あまり顔色が優れないようです。屋敷までお送りしましょう」
やはり青い瞳からは感情の起伏が読み取れない。けれど、気遣うような仕草からは口先だけの謝罪を述べているとも思えなかった。
(この人、どうしてそこまで……? でも、これ以上ここに留まっていても仕方がないし……)
彼の手を掴もうと心を決めたとき――。
(あ、あれ……?)
急に気が遠くなるような感覚があって視界が揺らぎ始める。
まずいと思ったときには足から力が抜けていた。
(いっそ、このまま頭を打って死んでしまえば、ロイドも少しは憐れんでくれるかしら……)
意識が途切れる寸前、誰かに「リリーナ!」と名前を呼ばれた気がした。




