思想方舟(ヴィークル)
●1
その日、アレクシス・ハーバートは、「ミトコンドリア・イブ」なる概念を初めて学習した。
アレクシスの起床は年中規則的で、五分と幅を持たない。それは休日も祝日も、〈学習習慣〉がない日も、全く同じだった。
仕事柄、日常生活に無闇な抑揚はつけたくないという、彼自身の考えゆえだった。
広々としたリビングで朝食を摂りはじめた。機械的な動作で三日月型のパンを口に運び、ミルクに浸した穀物と一緒に喉の奥へ流し込む。
投影機で今朝のニュースを確認したい気持ちもあったが、後回しにすべきだった。間もなく始まる一回目の〈学習習慣〉の成績を上げておくためにも、集中力は温存した方が賢明なのだ。
〈学習習慣〉に地頭の良さはほとんど関係しない。〈課題〉は完全に無作為な知識分野の講義を受けるもので、個人によって学習内容は大きく異なっている。
学習内容が機録として脳細胞に定着するかどうかは、学習中ではなく、学習後の行動にかかっている。睡眠までに学習した機録の呼び出しをすることを欠かせば、定着維持率は著しく低下する。いわば記憶のメンテナンスを手動で行う必要があるというわけだ。
左手首に埋め込まれた通信端末が震えた。アレクシスは時計を見やった。〈学習習慣〉には、まだ開始まで時間があった。それに、番号が表示されていなかった。非通知だったのだ。
端末を操作し、応答する。
『もしもし、アル? 私よ』
「ローズか。こんな朝早くからどうしたんだい。というか、今どこに?」
彼女の姿が脳裏に浮かび、弛緩した声が出た。これから重大な予定が入っていることすら、一瞬忘却しかけた。
『端末の調子が悪いから、公衆電話から掛けてるの。私は今から帰るわ』
「僕はこれから〈学習習慣〉なのだけれど……何かあったの?」
『あらごめんなさい。今日の予定を聞いておきたくて』
凜とした声に悪びれた感じはあまりなかった。自信がフェロモンのように端末口から漂ってきそうだった。
アレクシスは無意識のうちに猫なで声になる。
「いつも通りだよ。捜査データの機録化と――いよいよ対象の感覚現像の結果がわかるらしい。今日はどこにも寄らずにすぐ帰る予定だよ」
『感覚現像……ミームクラウド社の新技術が導入されたおかげね』
「原理をよく知らないのだけど、二進法の機録で表現された感覚質を、映像や音声データに変換するんだっけ?」
『実際には擬似感覚質をね。他人の感覚――「空の青く見える感じ」とか、「生まれつき目の見えない人が想像する視界」とかは、どんな手段を使っても、うわべの言葉でしか共有できない空虚なものでしょう。なぜなら、自分にとって、他人が感じる「世界」は、そもそもが想像力ありきで存在しているから。だから、私は擬似という言葉を申し訳程度に付け足すのも、適切ではないと思っている』
「想像力?」
アレクシスは聞き返す。ローズは、冷徹とも言える口調で続ける。
『そう。電話越しに、通話相手が林檎を見て「赤い」と言う。その瞬間、あなたの頭には「赤い」という単語が思い浮かぶ? それよりも前に、想像――色という感覚質が頭に来るでしょう?』
「言葉の前に、想像が先行するってこと?」
『誰も想像力からは逃れられないわ。たとえば、映像に現像された場合、絶対的な記憶である機録も、全員の共通認識ではなくなるの。あなたにとっての私──他人の目の前に現像された時点で、個々の認識に受け取り方は委ねられ、感じ取り方が分岐する。あなたが描いた赤い林檎の絵は、私には黄色に見えているかもしれない。でも、私がこの世界にある全ての「黄色」を「赤」と認識しているのだとしたら、どうしたってそれを黄色と言うでしょうし、あなたはその認識の違いに一生気づくことができない。だけど、発された言葉のみをなぞるのなら──私とあなたが目の前の林檎を同時に見てその色を口にするのなら、絶対的な実在――イデアの共有は可能でしょう?」
「なるほど……」
アレクシスは少し気圧されながら相槌を打つ。ローズは非常に聡明な女性であり、根っからの技術者なのだ。
『いえ……共有した気になることはできる、と言うべきね。他人の感じるものは想像でしか表せず、その想像は言語という拡張子を利用した瞬間に「モジバケ」を起こすのかも。「林檎」というアルファベットの羅列を見た瞬間、私たちは林檎の姿を思い浮かべるでしょうから。その時点で私たちの間には認識の誤差が生じている――その可能性は否定できない』
ローズは、熱弁をこう締めくくった。
『感覚は個人の持つ想像力という檻に封じ込めておかなければ、見失ってしまうのよ』
神が設計した物体の不変の姿が、人々の認識に引っかかるとき、感覚質は発生する。人々が共有できるのは、不動のイデアではない。認識の一致すら疑わしい、不確かな感覚質の方だ。
「詳しいね。君もその技術の開発に関わっていた? それとも〈学習習慣〉で講義を受けた?」
『会社が指定した必修の基礎機録の一つなのよ。私の専門は、もっぱらナノマシン開発ね』
「後で詳しく聞きたいな。今日は会えるよね?」
『待ってるわ』
通信が終わった直後、再び端末が反応した。投影機がひとりでに起動し、壁へ映像を映し出す。
映し出されたのは、柔和な微笑を湛えた制服の女性の上半身だった。彼女を構成する何もかもが、非常に没個性的だった。およそ印象というものをこそげ落としたような出で立ち。頂点やとんがりは見当たらず、存在そのものが緩衝材であるかのように、何の感情も浮かんでこない。
『おはようございます、アレクシス・ハーバート様。これから朝の〈学習習慣〉を開始します。開始する前に、昨夜の時点での成績を確認しますか?』
抑揚に乏しい、中性的な声だった。
女性ガイドの人格は、市民の注意に極力引っかからないように、人工知能が計算尽くで造りだしたものだ。
「いや、もう始めよう」
アレクシスは思考を切り替え、一時的にローズを頭から追い出す。
そして、眼前の壁からも女性の姿が消えた。
ヘッドセットを着けると、ガイドの声が耳元から聞こえる。誘導に従ってソファに身を預け、ゆっくりと目を閉じる。
眼前に浮かんでくるのは、脳に埋め込まれたインターフェースとヘッドセットが接続されたことによって広がる仮想空間。視覚と聴覚以外の全ての感覚が取り払われたかのように感じられる世界に、アレクシスは一人だった。
目の前の虚空に表示された講義のタイトルは「ミトコンドリア・イブ」だった。
脳への電子的な刺激だけで立ち上がったウィンドウ――虚像たち。それらは全て実在しない。ただの錯覚なのである。
そして、情報の奔流が、アレクシス目掛けて雪崩れ込んでくる。単語と単語が頂点として配置され、各々から伸びた線分が手を取り合うように絡み合い、蜘蛛の巣を構築し、糸の一本一本に電流が流れるような――。
凄まじい没入によって実現された、高速の学習。脳の神経細胞が溶岩のように煮え立ち、水脈となり、ぼこぼこと泡を膨らませ、弾けさせる。その音すら聞こえそうなほどに、脳が活性化していた。
●2
「つまりだ。人間は十六万年前のアフリカにいた、一人の女性から始まった?」
ハリソンは紫煙をひとしきり吐き出してから、まとめ上げるように言った。
アレクシスは、煙が虚空に散っていくのを見ながら答える。
「それこそが、よくある誤解なんだよ。さっきも言ったけど、細胞中のミトコンドリアは母系遺伝をする。核DNAは父親と母親から半分ずつ子孫に伝わるけれど、ミトコンドリアは母親からしか引き継がれない」
言いながら、アレクシスは、今朝の知識が機録として頭に刻み込まれているというささやかな実感を得た。
「それは聞いた。だから、お前のミトコンドリアはお前の母方の、さらに母親と同じってことだろう。それを遡って、母親の母親の母親の……って繰り返せば、全人類の共通祖先——アフリカのミトコンドリア・イブに辿り着くってことじゃないのか?」
そこで、ハリソンは再び紙巻き煙草を口に運ぶ。
アレクシスは、彼のこの前時代的な趣味を嫌だとは思わない。彼の制服や息が煙臭いと感じることもあったが、注意するほどではなかった。
なにより、ハリソンと話すのは心地よかった。同僚の中でも一番だった。理由は単純で、彼が煙草を吸うからだ。吸っている間は、ハリソンは好きなように自分の考えを語らせてくれる。煙を吐き出した後は、意見をしてくれる。透き通った議論、込み入った話、相談事をしたいとき、アレクシスはハリソンの休憩についていく。
「ミトコンドリア・イブは、全人類の共通祖先なんていう大仰なものではないんだよ。DNAの、ほんの一部の共通祖先でしかない。ミトコンドリア自体が、ヒトのDNAの部品だから」
では、ミトコンドリア・イブにはどんな意味があるのだろうか。それが発見された意義とは。
その疑問について、何も知らないことに、アレクシスは気づいた。
視線を彷徨わせながら、ハリソンが息を吐ききる。
「じゃあ、そのY染色体の共通祖先もいるということか?」
「そう、Y染色体アダムもいるということになるね」
「じゃあ、俺たちの子孫がアダムになる可能性もあるのかね?」
アレクシスは、自分の思考がつっかえる感覚を覚えた。
「というと……」
「そう、あれだ。突然変異ってあるだろ。俺は生物学関連の講義があまり選択されてないが……遺伝子の複製ミスや染色体異常が俺たちの子供に起こったとしたら、新しい形質を持った人間が生まれてくるかもしれないだろ?」
可能性を検討してみる。答えは一瞬で出た。
「ないと思うよ。機録中にはそんな話は出てこなかったから」
ハリソンは自前の灰皿に火口を擦りつけた。時計を確認すると、そろそろ昼過ぎの〈学習習慣〉が始まる頃だった。
「機録に書かれていることが全てだとは思えないが。戦争でいろいろと失われたものもあるはずだからな」
ハリソンの後をついていく。歩きながら、アレクシスは呼び起こしていた。全市民の脳に共通して刻み込まれている基礎機録の一つ、ここ百年の歴史の概要を。
世界的な戦争を経て、各地の文明がまるごと消え去った。数々の国家を構成するあらゆるものが戦争に破壊された。文字通りあらゆるものだ。国家の構成員たる国民。彼らが今まで守ってきた美しい自然や建造物、美術。豊かな生活のための科学技術。それを実らせた発想。発想を表現する言語。言語化された歴史。
様々な人間のオリジナルが、永遠に失われた。残ったのは、インターネットの海の中、そして個人の頭の中に存在する虚像だけ。
そのインターネットも、マルウェアの蔓延と、虚偽の情報の跋扈によってずたずたにされた。
個人からは国家という枠組みが外された。それは人々の孤立を深めることとなった。インターネットの崩壊も孤立化を手伝った。人々の頭の中の知識は、誰にも伝えられることなく、腐っていったのだ。
人間には絶滅が二回訪れる。二回の絶滅は、それぞれ肉体と、知識に起こる。肉体は言わずもがな。個体の死は免れないということだ。
しかし、消滅危機言語と同じように、あらゆる分野の知識もまた消滅していくのだ。
結局、その絶滅が今なお食い止めらたままでいるのは、多くの国家の大絶滅の中、かろうじて枠組みを維持し続けた企業によって開発された技術・MINEのおかげだ。
今では連合政府と密接に連携している多国籍企業・ミームクラウド社。その主導で開発された、DNAの塩基配列を利用したストレージ技術の総称が、MINEだ。
MINEが開発された経緯というものは、至極単純である。つまり、人間に起こる二回の絶滅を、一回で済ませてしまおうという考えが根幹にある。
知識の絶滅の前に、人間の肉体の絶滅が先行することはあり得ない。全人類が死に絶えてしまえば、必然的に知識もまた存在しなくなるし、意味を持たなくなる。だが、知識が絶滅しても、人間という種は、ホモ=サピエンスは生き残るかもしれない。知識を失った猿同然の彼らが人類と言い表せるかは別の問題だが。
知識の絶滅が先に起こり、そしてそれが種の絶滅を加速させるのだ。ならば、知識の絶滅を遅らせることが必要になる。
絶滅の終端に肉体の滅びがあるのは必定だ。そして、終端は時期を前後にずらすことが可能だが、決して途中には起こらない。種の絶滅のその後に、同じ種の歴史が繰り返されることがないのも必定である。ならば、人類という種の絶滅に知性の絶滅を限りなく近づけてやればいい。そうすることは、間接的に種の絶滅を遠ざけることになる。
二つの絶滅を統合するために、MINEは生まれた。人間という種を規定するヒトゲノムと、人間らしい文明を生み出した知識を統合すること。人間のDNAが後世に受け継がれるのと同時に、知識もまた引き継がれる。知識が絶滅したときには、人々もまたいなくなっている。
そのMINEを駆使して、神経細胞に刻まれた絶対的な記憶――それを機録と呼ぶのだ。
それらの事実を思い出すことは、もはや呼吸をするのと変わりがないほど簡単だった。
昼食後の〈学習習慣〉が終わった。今回の講義は「ユダヤ教」についてだった。
そして時間が来たので、アレクシスは席を立った。というよりは、ハリソンが立ち上がるのが目に入ったから、時刻に気づいたのだ。
頭の中で、最近の捜査でよく使っている機録を無数に浮かべながら、廊下へ出る。
ハリソンに追いつくために足を速める。それはつまり、目的の部屋へと向かうことでもあった。
●3
腕の端末の認証を終え、薄暗い一室に入ると、すでに大半の席が埋まっていた。U字型の長机に、見知った顔が揃っている。部屋の照明は落とされていた。だが、この会議は初めてではないので、大体の関係者の席順は把握できていた。
アレクシスもハリソンも、迷うことなく用意された自席に腰を下ろした。
「全員揃ったようだな」
U字の曲線部分――三席の真ん中の男が、口を開く。
「まずは、各員はこれまでの機録を参照してほしい。それらを踏まえたうえで、次の映像を再生する」
アレクシスは、これまでにインプットした捜査機録を一通り思い浮かべる。参照するにあたって、資料はなにも必要ない。機録の呼び出しは廊下でも行ったので、もちろん代わり映えしない。しかしながら、あまりに鮮明すぎる画像や証言は言うまでもなく、聞き込みを行った際の天気や風の強さ、匂い、雑踏の音すらも目の前にあるかのようだった。
全員が参照を終えたのを感じたのか、映像が流れ出す。会議室の中央の投影機から、U字の机の開いた方の壁へと、光が放たれる。
白い壁に結ばれたのは、明らかに自由を奪われている「重要参考人」の姿だった。アレクシスにはすぐにわかった。先日、捜査員が拘束したネヴィル・ラムという男だ。
ネヴィル・ラムは、頭にヘルメットのようなものを被せられたいた。これもまた、アレクシスにはすぐにわかった。それが、最近、保安局に認可された新たな捜査方法――重要参考人に対する感覚現像を担う機器であるということが。
ネヴィルがいるのは、清潔な部屋だった。何もかもがない部屋だった。「空間」という言葉が想起させる感覚質が、目の前に広がっているようだった。
そういう白く穢れのない部屋に、ネヴィルはいた。椅子に座っていた。部屋の中央にぽつねんと置かれた椅子に。何かの実験を施される被験者のように見えたし、それは実際に正しかった。感覚現像が正常に行われるかどうかを試すためにも、ネヴィルは尋問を受けなければならなかった。もっとも、ネヴィル・ラムという人物は、本当に頭の中を暴かれてしかるべき危険人物だったのだが。
ネヴィルは明らかに怯えていた。そして同時に、興奮して――半ば憤慨していた。計測された生体データのグラフや数値が、映像の横に表示されていたが、見ずともわかった。目玉をしきりに動かし、瞬いていた。身体をしきりに揺れ動かしているが、どうやらその自覚はないようだった。鼻息は荒かった。この状況に納得がいかないと、全身で主張しているようだった。
別段、危害を加えられたとか、恫喝されたとかというわけではなかったはずだ。アレクシスは事前情報として、そういう手段は使われないと聞いていた。むしろ何もされていないからこその怯えなのだと。
感覚現像の技術が重要参考人に対しても適用されたのは、ひとえに捜査の精度と効率を上げるためだった。だが、同時に、暴力や恫喝によってことばを引き出すという手法が濫用される事態を、着実に減らしていた。
尋問者: ネヴィル・ラム。あなたは今、我々――〈ポリス〉の委任政府、その公開捜査機関の一つ、治安維持を担う保安局によって拘束されています。ですが、安心してほしい。あなたが妙な気を起こさず、そういう行動をしない限りは、我々も何も起こさない。あなたの身の安全は保障されているということです。
なにも嘘は言っていない。感覚現像が正しく使われれば、暴力に訴える必要がないのだから。
ネヴィル: ああ、くそ。俺は、自分の身の安全なんて、どうでもいいんだ。
尋問者: 命が惜しくないということですか? それは、あなたの所属していた反政府組織〈淘汰使い〉の教えではありませんか?
ネヴィル: どこまで知ってやがる……。俺は、別にあの教団に従っていたわけじゃないし、何かを吹き込まれたわけでもない。俺はいつだって、俺自身に従っていたんだ。あの教団に近づいたのは、俺の考えと教団がすごく近かったからだ。誰かに洗脳されたなんてのは絶対にない。
尋問者: では、あなたの考えとは? どんな考えが、教団と近いと感じたのですか?
ネヴィル: それは、まあ……MINEのことだ。
尋問者: 〈淘汰使い〉がミームクラウド社に対して破壊工作を仕掛けていることは、すでに確認されています。正体不明の電子攻撃も、おそらく教団のものでしょう。あなた方はMINEを快く思っていない。その理由をお聞かせください。
ネヴィル: ……俺を殺さないと約束しろ。
尋問者: 先ほども言ったとおり、まずもってあなたの身体を傷つけるような真似はしないと誓いますよ。
ネヴィル: ……一言でいえば、機録は頭の中に保存されずに、どんどん失われていくべき代物だからだ。
尋問者: それが、あなた自身が元々考えていたことで、偶然にも教団と合致したと?
ネヴィル: そうだと言っている。別に不思議なことじゃないだろう。俺みたいなやつがそう思うってことは、他にもそういう考えのやつらはいるってことなんだよ。
尋問者: 機録が人から失われると、どんな良いことが?
ネヴィル: 良いことは何も起こらんよ――というか、ゼロに戻るだけだ。ただ少し世界がきれいになるというだけのこと。受け継ぐべきでない負の歴史は、忘れられるべきなんだ――ちょうど、DNAからRNAが合成される際に除去される塩基配列、イントロンのようにな。今の人類の歴史は、全てが受け継がれるエクソンになってしまっている……。
その言葉は、ネヴィル自身のものではなさそうだった。そらんじているようであったからだ。〈学習習慣〉で得たものか、それとも。
尋問者: 忘れ去られた負の歴史は、未来で繰り返されると思うのですが。
ネヴィル: 人類の滅亡に比べれば大したことはない。アダムとイブが一人ずつでも残っていれば、人類は復活できる。逆に、負の歴史を後世に伝えることは、人類の悪知恵を広めていくことと等しいのではないか? それこそが、禁断の果実を授けるということなのではないか……?
そこで、映像が止まった。再生が止められたのだ。ネヴィルは不敵な笑みのまま、動かなくなる。
「よく喋る参考人ですね、彼は」
ハリソンが椅子の背もたれに身体を沈めながら、率直な感想を漏らす。
「ネヴィル・ラム自身は、教団に入れ込んだつもりはないと話している。だが、彼の考えは、明らかに〈淘汰使い〉のそれとぴたりと一致している。つまり〈淘汰使い〉はネヴィルに機録を植え付けたのだ――自分たちにとって都合の良い思想を」
室内のどこかで事実の反芻が起こる。ただし、最後の一言は予測でしかなかったが。
「ネヴィルは偶然にも共感しただけだと言っていましたが」
薄暗がりで失笑が生まれた。参考人の供述など鵜呑みにできないということなのだろう。それでも、ハリソンは萎縮せずに続ける。
「卵が先か、鶏が先か――。ネヴィルが教団を見つけたのか、教団がネヴィルを見つけたのか。俺は、ネヴィルが先だと思いますけどね。〈淘汰使い〉には、ただの自動車メーカーに勤めるネヴィル一人を勧誘する道理がない」
「……まあ、ここから先の映像は、話題が逸れるので少し飛ばす」
U字テーブルの真ん中に座る男が、映像の表示を切り替えた。
「これが、実際にネヴィル・ラムに感覚現像を施した場面だ」
映し出されたのは、ネヴィルを正面にした代わり映えのない構図と、もう一つの光景だった。
その光景とは、あまりにもでたらめだった。創世の前の黒暗淵のような、何の因果も認められそうにない汚泥。見慣れた図形のようなものも、感じの良い配色すらも抽出できない、ただの不気味な虹色と輪郭だけの世界だった。おそらく、赤ん坊に筆を持たせても、こんな絵画は出来上がらないだろう。
それこそ、ネヴィル・ラムの脳内に広がる膨大な宇宙を、一つの映像に無理矢理押し込めて表現したゲシュタルトだった。
人間の五感が知覚した情報とそれに対するフィードバックを、圧倒的に情報量で劣る平面映像に変換した結果、出力されたのはコンピュータの発狂だった、ということなのだろう。アレクシスはそう解釈しておいた。
では、この奇っ怪な映像に、どのような意味があるのか。
「再生開始」
時間が動きだす。
尋問者: 〈淘汰使い〉について、あなたが知っていることはありますか? 些細なことで構いません。
その問いかけがなされた瞬間、うごめく混沌でしかなかったネヴィルの精神が、様相を一気に変えた。
でたらめに撒き散らされたカラフルな絵の具の奔流が、ぐにゃりと曲がりながら色を変えていく。
現れたのは文字と図形と風景が混ざったものだった。まだ掴み所のない抽象画でしかなかったが、完全に「文字と図形と風景」と断定できた。
ネヴィル: ……言いたくない。
尋問者: ――〈淘汰使い〉について、あなたが知っていることはありますか? 些細なことで構いません。教団の活動場所、活動方針、内容、団員の名前、顔ぶれ、規模感、会話の内容……。
尋問担当が言葉を紡ぐたびに、画像は変化していった。ときにない交ぜになりながらも、画像は着実に秩序を獲得していく。
ネヴィル: ……。
尋問者: 〈淘汰使い〉について、あなたが知っていることはありますか? 些細なことで構いません……。
やがていくつかの風景へと定まっていく。建物の外観。内装。どこにどんな人が座っていて、中央の演台にどんな人物がいるのか……。
尋問者: 〈淘汰使い〉について、あなたが知っていることはありますか? 些細なことで構いません。
ネヴィル: ――まさか、さっきの注射か……!
ネヴィルが呻いた。その頃には全てが遅かった。ネヴィルが尋問者の言葉に誘発されて思い浮かべた様々な隠し事が、画像の中に描き込まれていた。もはや言い逃れできないほどリアルで、これ以上ないほどわかりやすく、視覚的に。
ネヴィルに事前に注射したナノマシンが、海馬を中心とした神経細胞群に取り付くことで、ニューロンの活動を計測する。機録のために利用されている脳細胞にもそれは行われ、DNA塩基配列を構成するアデニン、グアニン、シトシン、チミンを用いた膨大なデータから、二進法の形式を維持したまま、キャンバスに描き出される。
思考を、コンピュータが理解しやすい二進法データのまま取り出すこと。これこそが感覚現像の真髄なのだ。
映像が終わった。
「なかなか凄いですね」
アレクシスが義務的に呟いた。脳裏にはローズの言葉があった。
――私の専門は、もっぱらナノマシン開発ね。
進行の男が満足げに頷く。
「分析班が、取得できた画像データをすぐに解析した。現段階でわかったことは三つ。教団の潜伏先。ジョンという男が〈司祭〉と呼ばれ、組織のリーダーであること。そして、この言葉が教団のスローガンであること」
進行役の合図で壁に文字が表示される。
〝人間は、思想に寄生する虫だ〟
〝我々が、思想を導かねばならない〟
●4
夕食後の〈学習習慣〉を終え、アレクシスは寝室へ向かった。今日すべきことは全て終わっていた。
「ローズ?」
「どうしたの」
仄かな灯かりの下、奥のベッドで彼女が身じろぎした。声に眠気は混じっていなかった。
「いや、もう寝たのかと思って」
アレクシスは手前のベッドに横になる。枕元の棚からリモコンを取り出し、天井へと向ける。空調や照明を調整しようとしたとき、
「ちょっと待って」
ローズが身を起こした。
「もう寝る気なの?」
「ああ……」
明日は潜入捜査の準備があるから。アレクシスはそう言いそうになった。だが、機密事項であることを思いだし、すんでのところで引っ込める。
しかし、そのせいで妙な間が生まれてしまった。
「ええっと……なにかあったっけ。ああそうだ、君の仕事について聞きたいんだった」
ローズの碧い瞳が、薄暗がりの中に灯っていた。自信に満ちた二つの宝石が、アレクシスの胸ぐらを掴むかのようだった。そのせいで、アレクシスが頭の中で急いで組み立てた問いかけが、一瞬で崩された。
「私たちの今後について話し合わない?」
その言葉は、アレクシスにとっては少々憂鬱な含みを帯びていた。
「……子どもかい?」
この機録保護推進都市〈ポリス〉で子どもを持てば、委任世府から多くの援助が受けられるようになる。人類の絶滅を避けるには、やはり子孫の存在は欠かせないからだ。同時に、子孫とは機録を蓄える外部ストレージでもある。
親の学習した機録はあくまで塩基配列であり、子どもには全く遺伝しない。それでも、この世界の誰か一人でも機録を持っていることが重要なのだ。少なくとも連合政府とミームクラウド社はそう考えているようだった。
ゆえに、機録児童と呼ばれる世代は、幼児の頃から機録による知識の蓄えを強制される。全ての子どもは、人類の記憶を未来へと繋いでいくために欠かせない資源なのだ。
だが、ローズが子どもを欲しがるのは、人類の未来を想っているからではない。そして、委任世府からの手厚い生活支援を期待しているからというわけでもなかった。
ただ、唯一満たされていない人生の経験――家庭を持つことを実現したいから。平たく言えばそういうことだった。
アレクシスは時計を見やった。もうすぐ日付が変わる。〈学習習慣〉で学んだ機録の定着のためには、そろそろ寝に入るべきだった。
「――今日ぐらい、私に時間を割いてみない?」
ローズの声は気軽な感じだった。まるで昼間のデートの行き先に、新しくできた近所のカフェを提案するみたいに。だがそれが、アレクシスには自分の機嫌を損ねまいとしていると見え透いてわかってしまった。
アレクシスがどうしたものかと返事を選びはじめたとき、ローズの手首の端末が鳴った。
ローズが表示を見て、顔を曇らせながら立ち上がる。
「ごめん、アル。もしかしたら会社に呼び出されたのかも。先に寝ていて」
「ああ――気をつけて」
ローズがばたばたと寝室を出て行った。話し声が壁越しに聞こえるが、内容まではわからない。
アレクシスは息を吐き、クッションに身を沈めた。
なぜ将来の――子どもの話になると考えることが億劫になるのか。アレクシスには自分がわからなかった。捜査官としての業務が忙しいから今は考えたくない、というわけではなさそうだった。
なんとなく、思考にブレーキがかかる感じがするのだ。これ以上は考えるべきでないと。
アレクシスはやがて訪れる微睡みのために、思考を打ち切ろうとした。今日の機録の定着のために。
それでも、自己嫌悪は長いこと頭から離れなかった。
●5
念入りな周辺調査から、〈淘汰使い〉の教団員はわりとラフな服装で集会に臨んでいることがわかっていた。装束や特別な道具は一切必要なかった。アレクシスもまた、休暇に外出するときのような格好で長い階段を降りていった。
そこは小さな講堂だった。
戦時中に築かれ、放棄されていった地下の街の一角。かつてはどのような催しがここでされていたのか。今では知る由もない。なんにせよ、今では機録が害悪であることを論じる危険思想の温床になっていることに間違いはなかった。
集まっているのは三十人かそこらだった。全員、律儀にも並べられた椅子に腰掛けている。
全員が、壇上に意識を注いでいた。祭壇のように高くなった壇上を。
まるで教会だ、とアレクシスは知識を呼び起こして思った。宗教はアレクシスの機録の専門ではなかったが、ぼんやりと知っている景色がそこにはあった。
アレクシスは自分の立ち位置を決めようと、ざっと室内を見回す。
「新入りかね?」
アレクシスの肩に、図々しくも手が置かれた。皮膚が分厚い象のような手だった。
黒人のにこやかな男だった。アレクシスは小さな声で「ええ」と返すに留めた。あまり多くを語るべきでなかった。
「私はウィンストン・オールディス。新入りなら、壁際で見た方がいいだろう。ここには少々過激な連中もいるからね……」
アレクシスは礼を言って入り口近くの壁に背を預けることにする。
間もなく椅子が向く先のひな壇に現れたのは、まだ顔は老けこんでいないが白髪の目立つ男。暗いスーツ姿。
――こいつがジョンか。
彼の両脇に秘書のような二人の男女が現れ、集会が始まった。
「まずはじめに、集まってくれた同胞たちに言わなければならないのは、ミームクラウド社が例の兵器を導入したということです」
祭壇に立つジョンが言った。やはりこの男が〈淘汰使い〉を率いているのだろう。
「感覚現像。脳内の遺伝物質によって二進法の機録に表現される記憶の擬似感覚質を、映像や音声データに変換する技術。それを駆使すれば、我々の思想も、いかなる作戦も筒抜けになってしまう」
団員からちらほらとどよめきの声が上がる。
「これは恐ろしいことです。我々の思想は、内部から人々に伝播する必要がある。それなのに、MC社と保安局は、外部から我々を看破しようとしているのです。我々の考えに耳を貸さず、ただ自分たちと意見の相違があるというだけの理由で、我々を駆除しようと……」
団員たちがいきり立つ。ふざけるな。MC社に制裁を。保安局に制裁を。
「ですが、我々を切除することはできません――そう信じています。なぜなら、我々は常に多数だからです。『人間は思想に寄生し、思想を正しく導く』。この信念は、常に多くの市民の頭蓋の中に潜み、覚醒の時を待っています。そしてもちろん、やがて覚醒するでしょう。MC社にも保安局にも我々の同胞はいます。今、彼らは潜み、戦っているのです……」
団員たちが賛同の声を上げる。集会が始まってすぐに集会は熱狂の渦に包み込まれていた。アレクシスはうんざりした気分になり、同時に吐き気を覚えはじめていた。アレクシスには経験のないことだった。これほどまでに、一つの思想が共感によってエネルギーを持つ瞬間は。
「今日は、保安局に潜伏している同胞から得た情報を元に、招かれざる客を『変異』させましょう。彼の思想をノックアウトし、我々の意思に合流させるのです。ノックアウト――この言葉は、遺伝子工学の用語で、遺伝子破壊を意味します。彼の中で眠っている我々の思想のために、悪性機録をノックアウトする。彼はすぐに気づくでしょう。自分の考えは、務めは、模造品であったということに。我々の思想こそ、人間の真実だということに」
ジョンが力強く言い切った。
アレクシスは身体のどこかに衝撃を感じた。どこかはわからなかった。認識する前に、地面が近づいてくる。いや、違う。アレクシスの身体が傾いていた。
そして、瞬く間に意識を失った。ウィンストンが見下ろしてきているのだけはわかった。
●6
気づけば、手首と足首をそれぞれひとまとめにテープで留められていた。
満足に身動きできず、アレクシスは呻いた。
「アレクシスくん――我々は、君のことをよく知っています」
ジョンの声。アレクシスは顔をそちらに向ける。芋虫のように転がった彼の周囲を、ジョンがゆっくりと歩いていた。
いつの間にか壇上に上げられていた。祭壇は取り除かれ、まっさらになったステージにアレクシスとジョンがいた。
客席には、団員たちがいる。だが、彼らはほとんど起立していた。アレクシスの顔を一目見ようとしているように。
「保安局のやり口は簡単です。機録を植え付けることで捜査員を操る。操られていることすら自覚させないまま。捜査員たちは気づけない。機録は知らず知らずのうちに常識となって思想に根付くから。いわば高度な洗脳を施すのです」
「洗脳? それはお前のやり方のことだろうが。機録を拒むなどという過激思想を、一体どんな手で団員に強制している? どうしてお前は祭り上げられる?」
アレクシスは鋭く言い放つ。団員たちがさざめく。殺せ。そんな声がどこからか聞こえた。
ジョンは冷徹な双眸でアレクシスを見下ろす。まるで科学者のような冷酷な目つきだ。
「強制などしていません。必然なのですよ。ここに我々のような者が集まってくることは」
「必然だと」
ジョンは鷹揚に頷く。奇妙な穏やかさがあった。
「そうです。そもそも〈淘汰使い〉とは、この集まりではありません。ある特定の機録の組み合わせこそ、我々の根源。日々の〈学習習慣〉によって脳内に構築された塩基配列の一部に、我々は潜んでいます」
ジョンは滔々と続ける。
「私は〈司祭〉と呼ばれています。それは、私がこの組織をつくったからです。しかし、私がつくらずとも〈淘汰使い〉は生まれていたでしょう。つまり、機録の突然変異が起こるからです」
「機録の変異?」
「そうです。人間の脳活動と密接に結びついた二進法のデータは、結局、保存の正確さには欠けるのです。その原因が細胞の分裂と、突然変異。海馬を中心とした通常の脳神経細胞はわずかに分裂する能力を持っていることがわかっています。しかし、機録を呼び出すという行為や思考を通じることで神経細胞間の活動が活発に起こり、そのときに我々は生まれるのです」
「『機録は要らない』という思想が、機録によって都合よく生まれるとでも?」
「まさしく。機録を植え付けられながら、それ自身によって機録を嫌悪するようになった大衆たち。そうして、民衆の間で我々は生まれていったのです。偶然にも生まれた私たちは、今後も増えていきます――機録児童たちが大人になるにつれて。なぜなら、個人の頭の中にある機録は、永久に失われないのだから」
ジョンは続ける。
「悪性機録というものがあります。社会に害をなす機録のことです。犯罪の詳細な記録を主として、過激な思想、悪知恵、陰謀論、フェイクニュース。誰が言ったかもわからないただの噂、迷信、間違った解釈、誹謗中傷。それらもまた、機録として受け継がれる可能性があるのです。人間の意識が機録配列を変異させるのなら、悪性機録はどうやって生じるのか? それこそ、悪性の思想や行動なのです。誰かが気づかずに財布を目の前で落としたとする。あなたも一瞬思うはずです。黙って拾えば、気づかれないのではないか、と。この瞬間に、悪性機録は生まれうる。ご存じですか? この都市の委任政府は、市民の頭に刻み込まれた機録を再利用する計画を始めています」
「なに?」
「政府は市民の記憶を解析し、結びつきの強い無作為な機録の羅列としてそのまま子供たちの脳味噌に移植する気なのですよ」
つまり、誰かの頭で生じた悪性機録を都市中にばら撒く恐れがある――。
「だとしても、悪性機録を特定すればいいだけの話だ。なにもお前らがテロを起こす必要はない」
アレクシスは鋭い口調で反論する。
「無駄なことですよ。悪性機録とは知識そのものだけではない。犯行に至る思想、心理、境遇。一度その配列を植え付けられてしまえば、それらの機録は忘れ去ることができない。思い出そうと思えばいつでも可能で、永久に朽ちることがない。では、不滅の悪性機録と長く接していると何が起こるか——良心の麻痺ですよ。あるいは、共感、慣れといってもいい。非道な行いに何も思わなくなっていく。感じなくなっていく」
「お前たちこそ、すでに良心が麻痺しているとしか思えない」
「やはり対話は無駄ですね。そろそろ始めましょう。――ウィンストンくん、ローズくん」
アレクシスが目を見開いた。今、なんと言った?
壇上に上がってきたのは、巨漢ウィンストンと、紛れもなくローズだった。ローズ・ベール。アレクシスの恋人で、MC社に勤めるナノマシン開発者。
「……なぜだ」
アレクシスは愕然と呟くことしかできない。
「アル。よく聞いて」
ローズの二つの目に宿っているのは、碧く妖しい炎だった。今はそれがなによりも恐ろしく感じられた。
「……騙していたのか?」
アレクシスの声は弱々しい。あまりの衝撃で、非難することすら困難だった。
「アルは騙されているの」
それは断定だった。
「保安局に植え付けられ続けた機録。そのせいで、あなたは捜査のことしか考えられないようになってしまっているの。あなたは悪くない。悪いのは保安局なの……。あなたの脳をスキャンして、私は保安局がどういう場所かを知ったわ。あそこは、カルトの巣窟よ」
「最初から、そのために僕と一緒にいたのか?」
アレクシスは、暗い憎しみと怒りに身を悶えさせた。
ローズはかぶりを振る。
「あなたと共にした愛情は、偽物じゃない。私はそう信じている。だから、今からあなたを救うのよ」
「ふざけるな!」
アレクシスの中で爆発した怒りが、口から迸った。
「君こそ洗脳されている! なぜわからない、こいつらの異常さが! どんな高尚な思いがあるのか知らないが、君たちのしていることは害悪だ、テロ行為だ!」
ローズは悲しそうに顔を歪ませる。それが、アレクシスには憐れんでいるようにしか見えなかった。
「アル、大丈夫よ。すぐに私たちの気持ちがわかるようになるから」
ローズが言い終わると、ウィンストンが前に出てきた。身じろぎするアレクシスの側でしゃがみ込み、アレクシスを押さえ込みにかかった。
「触るな!」
アレクシスが吠える。その様子を観察しながら、ジョンがローズに声をかける。
「では、ローズくん。彼の思想を目覚めさせましょう」
ローズが手にしているものが目に入り、アレクシスはありったけの力で身体を動かす。だが、ウィンストンの剛力が、それを許さない。
ローズの悲痛な眼差しが、アレクシスを捉えている。アレクシスは吠え続ける。喉が張り裂けてもそうするつもりだった。
「アル、今から注射するのは思想ナノマシンよ。ちょっと時間はかかるけれど、我慢してね」
その針先が、アレクシスの腕に突き立つ、その瞬間。
爆発が起こった。
ホールの壁が粉砕された。突っ込んできた走行車両が、そのまま客席を押し潰した。多くの団員が悲鳴一つあげられずに壁と車両のフロントに挟まれ、大量の血肉と化した。
ウィンストンやローズ、ジョンの動きまでもが止まった。車両のぶち開けた大穴から黒い人影が多数現れる。
そして、閃光。無数のマズルフラッシュが閃いた。と思えば、まずウィンストンの体が吹き飛んだ。屈強な体躯から血飛沫が噴き出し、もんどり打って倒れた。それから動かなくなった。
「待て――」
声を上げたのはアレクシスだった。彼自身も、咄嗟にはなぜ声を上げたのかわからなかった。ローズもジョンも突然の襲撃に微動だにできず、突っ立った状態だった。そして、最期を迎えた。
黒い装甲兵たちが掃射した銃弾の嵐が、二人を等しく薙ぎ払った。アレクシスの上に誰のものともわからない血肉が降り注いだ。ローズは踊るように身体を回転させ、重心を失って倒れ伏した。
「大丈夫か、アレクシス」
彼の拘束を解き、起こしたのはハリソンだった。ヘルムを被っていたが、声でわかった。彼もまた黒い兵士たちに混ざっていたのだ。
「ローズは……どうなった」
アレクシスの呻き。ハリソンは答えなかった。アレクシスはローズについて、彼に話したことがあった。休日にショッピングモールで顔を合わせたこともあった。そしてこの場で、ハリソンはローズたちを殺したのだ。
拘束を解かれたアレクシスは、ハリソンの肩を借りながら歩きはじめる。
誰もが悪性機録を頭に宿す時代――。アレクシスは朦朧とする頭で考え続ける。自分たちの捜査は、いわば害のある人物を社会から切り離すスプライシング反応なのだ。危険思想を、悪知恵を、市民が抱く恐怖を取り除くこと。それは、連合政府の人類史の全てを保存しようという試みとは正反対に位置する。
受容を謳いながら、淘汰を続ける。
悪性機録という悪魔の知恵が受け継がれることで、人間の文明は悪徳に汚染されていく。
ミトコンドリアがいつからか真核生物の体内に入り込んだように、悪性機録もまた、人々の頭から切り離せなくなるのだろうか。
もしかしたら、ジョンたちこそが、遠い先の未来を築くべき思想の持ち主だったのかもしれない。だが、もう遅かった。彼らは淘汰されてしまったのだ。
思想という方舟。その乗組員たる人類は、洪水を生き残っていくのだろうか。
何もわからなかった。何を考えるべきか、何を信じるべきかすら。
ただ一つわかっているのは、アレクシスの中からはローズ・ベールとの思い出が淘汰され、永遠に喪われたということだった。