4.シロの覚悟
「シロ。お前またひなたンとこ、こっそり行ったんだって?」
(兄か。ウム。おぬしも知っているとは。だがそれの何が悪い?)
「ご近所でもひなたを虐めるとどっからともなく白いオオカミが現れるって評判だべさ。ま、お前絶対人を噛まねぇって、みんなわかってっけどな、見つからんよう気ぃつけろ? 保健所行きになんてなったら、悲しむのはひなたなんだべ?」
(大丈夫だ。流石に飼い犬が人を噛めば問題視されるのは理解している。が、ホケンジョってなんだ? ヨボウセッシュ受けるところか?)
「しっかし、お前のブラッシングできる日が来っとは! 撫でるのにも時間かかったもんなぁ。シロはひなた専属のSPみてぇだって、じいちゃんも言ってたし」
(えすぴーとやらが何かよく分からないが、専属護衛という意味でいいのだろうな。兄よ、上手いこと言う。おれはお前が嫌いではないぞ。ついでにじいさまも)
兄のヒサシがシロによく話しかけるようになったのは、彼の受験勉強、とやらが煮詰まったときだ。気分転換にシロのブラッシングをしながらなにかと彼に話しかける。
それに寂しさが癒されるなどと考えるシロは、最近毎日が寂しいのだ。
ひなたおじょうさまが小学校を卒業して中学生になってしまった。せーらー服という制服姿はとても愛らしいと思ったが、今までと違い、シロの出迎えを拒否するようになったのだ。
おじょうさま直々に
「シロ。いいですか。もうおじいさまと一緒に迎えに来てはいけません」
と真面目な顔で説得されてしまったのだ。
「おいおい、ひなた。シロにそんなこと言ったってわかりゃしないよ?」
「そんなことないもん。お兄ちゃんはシロの本気が判らないからそう言うんだもん!――シロ。シロならちゃんと説明すればわかるはず。そうですね? シロ」
妙に丁寧語口調の説得だったのもシロが言いつけを聞かざるを得ない理由となった。
「ひなた。ほら。シロさんったら、シュンとして落ち込んでるわよ」
「――いいの! だってシロは目立つんだもん。周りのお友だちに揶揄われるんだもんっ」
「儂はいい運動になるだで。構わんがのぅ」
「おじいちゃま、しー! シロに聞こえちゃうでしょ!」
おじょうさまご自身が自分が傍に寄るのを厭う。
こんなに辛いことはなかった。
その寂しさを紛らわすため(?)に、こっそり首輪抜けの技を身に付けた。首輪抜けをして勝手に「散歩」する。ひなたおじょうさまが帰る道を遠くから見守る。迎えに行っているのではない。これは彼の散歩なのだ。だから一緒に帰ることは叶わない。
おじょうさまの帰宅をそっと陰から見守るのだ。
――家人から見れば、首輪から抜け出している時点で、シロが何をしていたのかバレバレなのだが、シロがさっきまで自分は庭の片隅にいましたよという顔をしているので、その事実をひなたに伝えてはいない。そっと首輪を嵌め直してやっている。
それにいち早く気がつくのは主にばあさまだ。
「ありゃりゃ、シロさんや。また抜けたんかい。――どれ、ひなたにバレる前に直そうかねぇ。……あたしゃ、手の力が弱いからねぇ」
そう言いながら緩く首輪を嵌め直す。だから簡単に首輪抜けが出来る。悪循環(?)ではあるが、それでこの家の人間はみな納得していた。知らぬはおじょうさまばかりなり、であった。
◇
「シーロー、ブラッシングさせて~。いやぁ、お前のモフモフはいい癒しだよぉ。最高だで~」
ある夏の夕暮れ。そろそろ首輪抜けをしようとしていた時間帯に、間が悪く兄ヒサシに捕まってしまった。最近兄は街に出てはペットサロンとやらでいいトリミングブラシを購入し、モフモフ~と言いつつ、シロに構う。
(兄よ。勉強しろ勉強。おぬし、受験生だろう?)
「もふ~モフモフ、もふ~」
(だめだ、こりゃ)
脱力感満載の気の抜けた兄の顔を見つつ、シロも大人しく彼に付き合っていたとき。
不意に。
不意に、なにか言いようのない、説明のできない不安感がシロを襲った。
全身の毛が一斉に逆立った。
「え? シロ?」
彼の毛に触れていた兄ヒサシは、シロの変化に気がついた。
シロは立ち上がった。
なんだ?
何が急に不安になったのだ?
わからない。
風の流れを読む。
匂いを嗅ぐ。
これは。
以前、何度か感じたおじょうさまの身に何かが起こる前触れ。
ぴりぴりとした嫌な気配があちらの方角から――ひなたおじょうさまがいるはずの方角から流れて来る。
同時に嫌な匂いの――悪意。
駄目だ、早くおじょうさまの元へ行かなければ!
慌てて駆け出すが、繋がれた鎖に阻まれた。
(ちっ! こんな時に!)
抜けてやるっ! こんな首輪抜け出してやるっ! 今の彼を支配する気持ちはひなたおじょうさまの安全を願う想いだけ。自分の身など、どうなっても構わない。めちゃくちゃに暴れ、首輪から逃れようと抗う。
「シロ! ひなたになにかあったんだな⁈」
兄がそう言いながらシロの鎖を解いてくれた。
「行け! ひなたを守れ! 俺も後を追うから!」
兄のことばは半分以上聞こえなかった。シロは既に全力疾走していたから。
(どこだ⁈ どこにいる⁈)
思い出すのは初めてひなたおじょうさまと出会った日。あの日も居ても立っても居られない気持ちに後押しされ、藪を抜けて駆け出した。
自分が四つ足の獣になっていなかったら、あんなに早く走れなかった。
自分が犬になっていなかったら、第六感に従っておじょうさまの元に辿り着くなんて出来なかった。
自分がこの姿で転生したのは、全部、彼女を――彼の大切な『ひめさま』を守るためだ!
本能が指し示す方角へ向け、一目散に地面を駆け抜ける。
早く
早く
一秒でも早く
この言いようのない不安を払拭させるために、はやくっっ!!!
果たして。
犬の優れた聴覚が、敬愛するおじょうさまのくぐもった叫び声を拾い上げた。
中学校からの帰り道。バス停の裏の藪の中。
ひとりの男の背中
知らない匂い
その男に組み敷かれているのは――
(ひなたおじょうさまっっ!!)
走ってきた勢いのまま、その男の腕に噛みついた。
「うわぁぁぁっっ‼ なんだっ? 犬っ?」
ひなたの濡れた瞳
口に押し込まれた汚れたハンカチ
白い膝小僧に血がついている
(おのれ、下郎っ! よくもひなたさまにっ)
怒りで目の前が赤く染まった。身体中のすべての体毛までもが激怒に震えた。
シロは初めて、己の意思で人間にその牙を向ける。
(殺してやるっ)
唸り声をあげ喉笛を目掛け、口を大きく開き
柔らかい肉に、その牙がめり込んだ
温かい鮮血が、シロの白い毛に飛び散る――
(殺してやるっ)
「シロ! そこまでだ!」
彼の後を追いかけてきたらしい兄ヒサシに身体を掴まれた。だがシロは唸り声を上げたまま、口を離さない。
(殺す殺す殺すこいつ殺す許さんこいつ殺す)
到底許すことなどできないのだ。
この男は死んで当然なのだ。
だってシロの大切なひなたおじょうさまを泣かせた。
傷つけた。
許せん。
「シロ! もう、いいからっ!」
思いがけず、聞こえたのはひたなの声。
「シロ、殺しちゃ、だめ」
震えてはいたが、確かにひなたおじょうさまの、声。
シロにとっては絶対の命令。
唸り声が止み。
ゆっくりと口を離した。
「シロ。こっちおいで」
側に近寄れば、ひなたおじょうさまはボロボロの様子だった。涙で顔は汚れ、衣服にも泥がこびりついていた。だが
「シロのお陰で、無事だったから……だから、大丈夫だからね……だから、ありがとうね、シロ……」
そう言ってシロの首に抱き着いた。泣きながらも、笑顔を見せてくれた。
ひなたおじょうさまの血は、膝からしか流れていなかった。
ホッとしながら冷静になったシロは
「殺処分」を覚悟した。