3.とてつもなく幸せな日々
初めは犬に生まれ変わった自分に落胆した。その事実に気が付かなかったことも含めて。
だか、犬の身もそれほど悪くない。
何より耳がいい。
人だった時より、不思議な第六感が異様に発達している。
近所の悪ガキどもがひなたを囲んでることなんて、何故かすぐに分かった。
その度に駆けつけ体当たりを喰らわす。
ひなたが愛らしいから、悪ガキどもは構いたくて、それがいじめという形になる。
(だがそれは間違った愛情表現だ!)
シロが説教するような気分で悪ガキどもを睨めば、彼らはシロの姿を見つけると逃げ出すようになった。
シロのひなたさまは、なかなかお転婆なお嬢様だった。
裏山の高い木に登ったまま降りられなくなったひなたさまを助ける為に、急ぎ家人に知らせ山を往復したり。
川に誤って落ちたひなたさまをお救いするため、シロ自身も川に飛び込んだり。
何度もシロがひなたを救う為に奔走すると、そのうち祖母や母、お女中たち女性陣がシロを「シロさん」と呼ぶようになった。
「シロさんは私から餌をもらっているはずですのに、ひなたお嬢様に一番懐いていますものねぇ」
「シロさんから見たひなたは手のかかる妹とか娘なんでしょうね」
おチヨ母娘と接する時間(主に餌やり)は多いが、シロにとって仕えるべき第一はひなたなのだ。
◇
ひなたが赤い大きならんどせると呼ぶ背負子を背に、ショウガッコウと呼ばれる少年少女が集う教育機関へ行ってしまうと不安が募った。今まではハルヤスミという長期休暇だったのだとか。これから毎日、そのショウガッコウとやらに通わなければならないらしい。ひなた本人がシロの正面に座り、延々と説明したので知った。
ひなたおじょうさまはまだ7歳になったばかりなのに、毎日勉強のために家から離れねばならないのか! この世界の教育機関はなかなか過酷なことをする。
「シロ! そんな不安そうな顔すんな。俺がついているからさ」
兄がそう言って、ひなたと共に(彼は黒いらんどせるを背負っていた)ショウガッコウ、とやらへ行ってしまった。
シロは不安になった。
(だって、歩いて行ったぞ? 馬車の送迎もしないなんて!)
門の前に出向き、じっと彼女がいるだろう方向を眺める。
(ひなたおじょうさま。だいじょうぶですか? 転んで泣いてないですか? 困ったことはありませんか?)
鋭敏になった第六感に引っかかるものはない。
だから大丈夫。
そうと判っていても、彼女の顔をみるまで安心できなくて、ただじっと門の前に座りショウガッコウがある方向を見据える。
庭をぱとろーるして守れと、ひなたは彼に命じた。同時に門から外に出るな、とも。
不安だけが募る。
「やれやれ。シロよ、散歩に行こうか」
三時のおやつの時間、とやらが過ぎる頃。じいさまがリード片手にシロに話しかける。
鎖からリードに繋ぎ直され、彼と共に門を出る。
(さんぽ? だが丁度いい。じいさまが歩く方向はひなたおじょうさまのいるショウガッコウだ)
じいさまは、門の前でじっと孫娘を待ち続けるシロを不憫に思ったらしい。
その日から毎日、じいさまとシロはひなたを迎えに「散歩」に出かけることになった。
黒髪の人ばかりのこの世界で、初めて会った違う色の人がじいさまだった。
シロと同じ白髪の老人に、彼はなんとなく親近感を覚えた。(もっとも、老人は白髪が多いのだとおいおい知ることになる)
歩く道々、じいさまはぽつりぽつりとシロに語って聞かせた。昔はショウヤと呼ばれる豪農で、ここらあたり一帯は彼の父親の土地だったとか。今でも一声かければ錚々たるめんばぁが集まるのだとか。
ばあさまの家系はゲンジとかいうブシの流れを組む家門の者で貴族だったとか。彼女は才女で昔は教鞭を執っていたのだとか。裕福ではあったが学のない自分に嫁いでくれて、とても嬉しかったのだとか。
(犬相手に惚気てないで、本人に伝えればよかろうものを)
ちょっと昔に、大きな戦争があったが、この辺りは戦火を逃れたのだとか。
彼の独り言のような語りはなかなか興味深かったが、シロとしては
(やっぱり姫さまは生まれ変わっても姫さまなんだな!)
と結論づけるに留まった。
朝は兄のヒサシと共に小学校へ行くひなたを見送る。
日中は門の前で仁王立ち。
午後はじいさまと共に田んぼや畑を抜け、小学校まで迎えに行く日常。途中、畦から蛙が出たりバッタが飛んだりするが、シロは動じない。彼の任務はひなたお嬢様の身の安全を図ることだから。直接彼女の身に危害を加えないものなら、見て見ぬフリくらいできるのだ。
◇
ひなたおじょうさまがいるこの家は、シロの前世の記憶から考えると、とても不思議な家屋である。
特にこの縁側と呼ばれるテラスは、家族のだれもが使うが、夜その場で寝るような者はいない。
夜は雨戸と呼ばれる木の板で覆われてしまい、家の中が覗けないのが寂しい。が、家の中にはひなたの気配がある。それに安心してシロは眠る。
暑くなるとその雨戸が閉められず、夜でも窓が開け放たれているので嬉しかった。蚊帳と呼ばれる網を部屋の中に吊り下げ、その中で眠る姿は面白いと思った。
夜になると、じいさまがこっそりシロの元にきて
「番を頼むぞ」
と言って鎖から解放してくれた。
そうは言っても、この辺りの人間は誰も彼も悪い気を持つ人間などいない。
最初は、なんと防犯意識の低い人種かと呆れたが、全員こんな調子なのだ。夏とはいえ、窓を開け放って寝るのだから。
この地は。いや、この国は安全なのだ。
シロもこの家の暮らしに段々と慣れていった。
不思議なもので、この家の住人はひとりで縁側に座ると決まってシロに話しかける。
シロにはよくわからなかったが、父はノーキョーというものに不満があるらしい。ゲンタンがどうのサクツケメンセキがどうのと、専門用語満載でシロに愚痴を言う。よくわからなかったが、それを言い終えると父がホッとしたような笑顔になるのでシロはその話を黙って聞いた。
朝の支度を全部済ませた母が、シロにあさごはんを持ってきてくれて、「シロさん、今日もいい天気ね」などと声を掛けてくれる。彼女の穏やかな声は耳に心地よかった。
兄は好きな時間にシロのそばに来てはちょっかいをかけてくる。慣れてきてからは好きに触らせるようにしたら、「シロに認可された!」と不思議な驚き方をしていた。
母や祖母、女中たちはいつも何事か賑やかに話しているが、女中の娘の方が「シロさん、待っているのも喉が渇くよ」と言って門の前にいるシロに、水の張ったボウルを差し入れてくれる。
その際、彼のそばにしゃがみ込んで色々独り言をいう。もうすぐ結婚する相手がいるが、この家の通いの仕事をしようか、婚家に入ってそちらの農業に従事しようか悩んでいるのだとか。
まぁ頑張れと思いながら、隣にある肩をぽんと前足で叩いたら「シロさんが慰めてくれた!」と妙な騒ぎになっていた。
ひなたは毎日必ずシロのブラッシングをしてくれる。
敬愛するおじょうさまのお世話になるなんて申し訳ないが、何にも代えがたいシロの至福の時間だ。彼が無防備に腹を見せるのはひなたおじょうさまただ一人だ。
雨戸に閉じられて寂しくなった夜だが、冬になると土間と呼ばれる玄関の中にシロの小屋が移された。移動した翌日から外は雪が積もった。
ひなたや兄と共に、積もった雪の中を走り回って遊んだ。
「シロは雪の中が迷彩なんだな!」
などと兄に笑われた。
暫くするとショウガツとかネンマツネンシとか呼ばれるお祝い事で親戚連中がこの家に勢揃いした。
集りの席ではじいさまやばあさまが、シロがこの家の一員になった経緯を説明していた。
シロは集まった連中の顔を眺めながら、誰が彼の敬愛するおじょうさまの害になる人間か見定めた。「親戚」だが家族以外にはその白い毛に触れるのを許さなかった。唸ると角が立つので、逃げ回る戦法に変えた。犬だって考えるのだ。
そうやって四季は巡った。
幸せな。
前世を鑑みれば、途轍もなく幸せな月日が流れた。