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紫月  作者: 千氏
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第三章 志貴朗


「志貴朗、よく聞け。我らの身分をなんとしても隠し通せ。そのためなら人を殺めても良い、死守せよ。」

 志貴朗が京に発とうという日の朝、凛は言った。それは紅葉が美しい、去年の秋のことだった。志貴朗が暮らす里山と同じように赤く染まった美しい祖母の唇を今でも鮮明に覚えている。

 「お前の実力は信じておるが、へまだけはするなよ。」 健等を祈る、そう言い残して凛は天高く跳び上がり軽い身のこなしで音もなく消えてしまった。そんな祖母の様子を立ちすくんで見つめていたが、むなしくなってやめてしまった。

 

 志貴朗の祖母、凛は「千年に一度のくのいち」と呼ばれる凄腕のくのいちだった。その容姿は年を感じさせないほど若々しく、美しい。忍びの技、手裏剣の腕前、変装、すべてをとっても凛の右にでるものはいなかった。もちろん、その孫である志貴朗はもの心付く前から忍者の修業をしてきた。その度に目標にしてきたのは凛だった。この十六年間、凛の背中だけを追いかけていた。すこしでも近づき、追いつけ、追い越せと。だが、どんなに努力しようと、触れることはおろか、その背中に近づくことすらできなかった。

 今なら、この道を捨てて白拍子になった母の気持ちがわかる。世間から白い目で見られるほうが、己が抱くこのむなしさの何倍も楽だからだ。 

 志貴朗の母、紀子は十六のときに忍者の里を出て白拍子となった。その際何人もの男と寝た。その男どもの一人が志貴朗の父親ということになるが、どこの誰かとか詳しいことは分からない。だから志貴朗には父親の記憶がない。もし父親がいたとしても必要ないと思うが。母も志貴朗を産んですぐにはやり病で死んでしまったから、母の記憶もない。そのため、志貴朗は祖母に育てられた。


 初めて刀を握ったのは三つのときだった。一尺ほどの短い刀だったが、少しの力で大岩を両断できるほどの切れ味だった。忍者の修行はとてつもなく厳しいものだったが、苦ではなかった。四つ五つ六つ、と年を重ねるごとに新しいことを教わった。そして志貴朗は祖母に勝らずとも劣らない速さでそれらの技を見に付けた。

 だが志貴朗が七つのときだった。忍術の修業をすることに疑問を感じたのは。「いつかは僕が人を殺めることになる」ということに対する危機感や現実味が、全くと言って良いほど感じられなかった。幼いながらも一人で悩みつくした。そしてとうとう自分の力では処理することができなくなってしまい、凛に問いかけた。


「どうして僕が人の殺めかたを習わなければならないのですか?」


 必要ないのではないですか?と。そのときやっていた修行は等身大のわら人形を一瞬のうちに切り刻む、というものだった。

 凛は刀を振るのをやめて志貴朗を見た。

 「今はなくともそう思うときは必ずある。」

 「ですがおばあさま・・。」

 「今は何も言わずに続けよ。我はそなたを一流の忍者にしたいのだ。」

 その場はうなずいてみたものの、心の奥では凛に怒りを感じていた。煮えきれない想いが僕の体に巻きついていくのが分かった。


 そして十一になった年に家出決行した。今ここで逃げてしまえば、何も後悔することなく忍者を辞められる。

忍者衆が寝静まった夜、足音を立てないように注意しながら里を出ると、とにかく北を目指した。北斗星の方向に行けば道に迷うことはない。だが、北に行くには険しい里山を越える必要があった。暗い里山に一瞬たじろいだが拳をぐっと握って足を踏み入れた。

 文月のことで比較的暖かい季節とは言っても、山は凍えるような寒さだった。遠くで狼の声が聞こえてくる。鷹が大きな翼を羽ばたかせながら頭上を通りすぎていく。志貴朗を餌の鼠と勘違いしたのか、赤い目をきらりと光らせた。

 志貴朗は何も考えずにただ歩き続けた。

 よく知っているはずの里山も昼と夜ではまったくその姿は違っていた。木の葉のささやきも違えば、その空間を支配するものも違う。前が見えない恐ろしさ。

耳に響くは志貴朗の足音のみ。散らばった小枝を踏んでいく。

 ぼき、ぼき、ぼき・・・・。

奥の方にきたのか、生き物の臭いがしない。

 響くは志貴朗足音だけ。

 ぼき、ぼき、ぼき・・・。

 ぼき、ぼき、ぼき・・・。

足音の数が増えているようなきがする。こんな時間に自分以外の人間がいるとは思えなかったが、腰にさしていた短刀をそっと抜いて構えた。

 「誰だ?!」

 振り向いた視線の先に、身の丈はあろうかという刀を腰ひっさげた汚らわしい男どもが仁王立ちして志貴朗を見下げていた。俗に言う「山賊」というやつだ。ざっと数えて十人。どうしてこれほどまでの殺気に気がつかなかったのだろう。忍者失格だ。

 そうやって志貴朗の顔を覗いていくうち、山賊の一人が口を開いた。

 「あれえ?こんなところで何しているのかなあ坊や。」

 「親分、この餓鬼女みたいに綺麗な顔してますよ。」

 すぐに志貴朗は囲まれた。だが取り乱すことなく、冷静にその状況を受け入れることができた。凛の言葉を思い出していたのだ。

 ……志貴朗、お主は並ならぬ容姿をしておる。まあ紀子に似たのか我に似たのか…。もしも深い山を登るようなことがあれば心せよ。そこには通行人の金をねらった山賊どもがうじゃうじゃしておる。まずおぬしを刃物で脅し、金をまきあげる。その後おまえの容姿を見て、素晴らしいと感じるに違いない。そしておぬしを抱くだろう。自分は男だから大丈夫とでも思っているのか?それは大きな間違いだ。奴らは常に性に飢えておる。相手が男だろうが女だろうが関係ない。ようは穴さえあれば何でも良いのだ。戸惑っておるだろう志貴朗。だが慌てるな。冷静に考えてみろ。幼い頃から忍者の修業をしてきたお前に、ただの田舎山賊どもが勝てるわけが無い。


そうだ、僕は忍者なのだ。こんな田舎山賊どもに負けるわけにはいかない。

 

 「よしコイツを連れて来い。可愛がってやる。」

 男の手が伸びて細い志貴朗の髪に触れたその瞬間、その汚らわしい手を切り落とした。

志貴朗をただの坊やだと思い全く警戒をしていなかったらしく、哀れな山賊は、右腕から流れる血を見ると、顔を真っ青にしてどすん、と枯れ木の上に倒れた。

 「芳吉!」

 「どうしたのか?」

何人かの男が駆け寄って傷の具合を調べている。大丈夫か、などと声をかけては、頬をぺしぺしと叩いている。馬鹿な男どもだ。敵である志貴朗に背を向けて。奴らの背中を斬るには最高の機会だったが志貴朗はそうしなかった。まだあの迷いが振り切れていなかった。せめて奴らが反撃してきたところを斬ろうと思ったのだ。

 「おのれ、クソ餓鬼!!」

 ようやく状況を理解した残りの山賊どもが、錆びだらけの刀を高々と上げた。隙だらけの構えに、すう、と切れ目を入れてやる。生ぬるい液体が体にかかったが気にならなかった。

 計十四回刀を振った。その間に九人の男を斬った。わざと残したのは山賊の頭領だ。志貴朗よりもずっと年上であるだろうが、志貴朗が少しでも体を動かすとびくんと体を震わせた。近づいてくる死が怖いのだろうか。男は震える声で言った。

 「分かった・・なにか欲しいものはあるか?」

欲しい物はなにもない。ただ、お前の命をのぞいて。

 「悪いが殺させてもらうよ。僕の家出を邪魔した罰だ。」

 すでに何人かの血を吸った刀を、躊躇うことなく振り下ろした。

 暗い森の中に男の叫び声だけが響いた。


 夜が明けたとき、志貴朗は里の家の前にいた。あれだけ修行を

「人を殺めること」を否定し、反発していたはずなのに結局僕は忍者と凛と同じように人を殺してしまった。何の躊躇いもなく。いまさら里を出たところでなんになるのだろうか。

 里はまだ静かだった。皆まだ眠っているのだろう。志貴朗は血だらけの袴を変えようと、そっと部屋に上がった。

 「もう終わりか?」

 びくっとして振り返ると凛が志貴朗に背を向けるようにして座っていた。どうしてこの気配に気がつかなかったのだろうか。山賊のことといえ、このての能力が志貴朗にはあまり備わっていないらしい。

 「家出はもう終ったのか志貴朗。」

 「はい。」

 凛は振り向いてこちらを見た。白い足が着物の割れ目からあらわになっている。

 血だらけの志貴朗を見ても凛は何も言わず、ただその白い足を組み変えただけだった。

 それから志貴朗に任務が与えられるようになった。だが、いくら「天才」の孫とはいっても駆け出しの志貴朗にろくな仕事は回ってこなかった。

最初の任務はなんと猫さがしだった。公家が飼っていた猫が逃げ出してしまったらしい。そんなことを忍者に頼むなといいたかったが、仕方なく焼き鰹を片手に探しに行った。猫は弘徽殿で丸まっていたところを無事保護された。

 その後も何度か任務を与えられ、その度に里者の信用を勝ち取った。そして初めて人を殺したあの夜から五年後の春、最も困難とされる任務のことを聞いたのだ。


 凛が室町幕府第八代将軍足利義政の正室日野富子に呼び出されたのは、年が明けたころのことだった。この里は代々足利家と密接な関わりを持ってきたために、よく将軍から呼び出されていたが、婦人から呼び出されることはごくまれであり、その存在さえ知らぬものが多かった。流石の凛も驚きを隠せずにいた。

 凛は室町殿のついあたりの屋敷に通された。正座をして待っていると、上座のほうの障子が空き、細身の女が現れた。女は凛と向かい合って座り童女に人払いをさせた。噂には聞いていた。富子は気性が激しく、ときどき将軍も手を焼いていると言う。きりっと切れ上がった細い目に、控えめな鼻。細い眉が感情の波によって歪んだり吊りあがったりする。きりっと気の強そうな美しい女だ。その姿はまるで蘭のようだ。

「遠いところをすまなかったな。」

「いえ、我々からすればここは目と鼻の先でござります。」

 「そうか。面をあげよ凛。そなたの噂はよう聞いておる。千年に一度のくのいちと呼ばれ、剣術、速歩、変装、どれもお前にかなう忍者はいないと言う。また、その容姿は永遠に二十歳のまま年を取らぬと言う。早くその顔を見せてたもれ。」

 「はい、富子さま。」

 凛が面を上げると、富子は驚いたように目を見開いたが、すぐに取り直してくくっと笑った。凛は全身から強い色気を放っていた。女の富子ですら激しくひかれてしまうほどだ。使える、と富子は思った。

「ほう。なんとも言いがたい色気じゃ。その顔も予想通り美しい。」

「お世辞はよしてください。あなたさまの御前では我など足元にも及びませぬ。」

「口がうまいよのう凛。まあ、お前を呼び出したのは別に美を讃えさせるためではない。早速だがこれを見てくれ。」

富子は懐から古びた書物を取り出した。

「これは・・?」

「わたくしが将軍の乳母を追い出したのは知っておろう。今参局のことじゃ。あの女、わたくしに子が生まれたことをねたみ、呪詛して呪い殺しおった。まあ琵琶湖沖に流したが、途中で自害したな。そのときに今参局がこれをわたくしに渡せ、と言ったそうだ。呪いの言葉とともに。」

「はあ。」

富子は七年前に生まれたばかりの男子を亡くした。将軍も富子も嘆き悲しんだ。この死は将軍の側室による殺人だと言うものもいたが、ただ死因は風邪をこじらせたものだった。しかし富子はそれも好機ばかりに、そのころ対立していた今参局に呪詛の罪なすりつけて流罪にしたのだ。もちろん凛も知っている。

「『時なれり。何者にも紫月を止めることなどできはしない。富子・・おぬしの栄光ももうすぐ終る。蒼子と紅子、二人の女によってな。』これは奴の言葉だ。何となく気になり、送られてきたその古文書に目を通した。ちと読んでみよ。」

凛は言われたとおり、ところどころ黄色く変色した古文書を開いた。中身は端正な隷書体で書かれており、どうやら明の書物のようだ。おそらく今から千二百年前ほど前にかかれた物らしい。中身はそう大それたものではなく、ただある一族の栄光と衰退が淡々と書かれていた。こんなもののいったい何が怖いと言うだろうか。

「これはただの・・。」

「ただの歴史書だと、そう思うだろう。」

言いかけた凛の言葉を遮るように富子は言った。

「わたくしも最初はそう思っていた。だがわたくしに取って呪いとしか思えぬようなことが次々に起こってしまった。例えば将軍の母君である重子さまが亡くなり、わたくしと将軍との間には女子しか生まれず、そして将軍は弟の義視を跡継ぎとしてしまった。

今参局の言葉を聞いてから、そういうことが立て続けに起こったのだ。わたくし自身、呪いだとかそんなものは信じておらん。だがある噂を耳にしてから少し気になって調べてみたのじゃ。この書物は“月家”と呼ばれる唐土の一族に伝わる古文書でな、月家は六百年ほど前に一族総出でこの国にやってきた。今の消息は定かではないが、ほんの二十年ほど前まで学者の一族としてその名を知られていた。その書の紫月というところを見たか?」

「はい。」

「局が言っていたのは多分この紫月のことだろう。そしてこの古文書によると、「紫月」とは今のこの世界を一旦終わらせて新しい世の中を初めから作り直すと現象書かれている。実際にこの一族は古代の大陸の唐土において「紫月」を起こしたらしい。それが千二百年前のことだ。この時期は後漢の滅亡と丁度重なる。「紫月」を起こしたのは右目のない少女と左目のない少女の二人。わたくしはすぐさま消えた月家の捜索を開始した。藤原京跡の屋敷には年老いた女が一人住んでいた。その女に問い詰めたところ、先代が博打にはまったせいで跡取りの一人娘は遊廓に売ったと言った。わたくしはその跡取りの娘を探し出したが・・面白いことが分かった。」

富子は扇子を開いた。足利家の家紋に金箔が塗られた豪華なつくりだった。凛はまだ富子の言わんとするところがまだよく分からずにいた。

「娘の名は奈月。遊廓では僅か十六にして女郎の最高の位、太夫についた。その後はある幕府の重臣の家に嫁いだと言う。なんとその夫は細川則森だと。知っているだろう?」

「細川勝元さまの・・弟。」

「そう。そして則森と奈月との間には娘がいてな、なんとその娘には右目がないそうだ。」ぱちんと派手に音を立てて富子は扇子を閉じた。凛は富子の考えをすべて理解した。富子は「紫月」の存在を確信している。それがどんな形であれ、その身の繁栄を揺るがすような現象であることも。やられる前に殺る。これが富子の鉄則だ。

「我にその則森の娘の暗殺をせよと言うのですか?」

富子は首を横に振った。

「それだけではない。」

「では・・?」

「分からぬのか?わたくしは問題のすべてを解決しなければ気がすまない性質だ。」

富子は一瞬微笑を浮かべ、すぐに消した。凛は富子に聞こえないように溜まった痰を飲み込んだ。この現象を徹底的に阻止しなければならない。そのためには則森の娘だけではなく、もう一人いるであろう独眼の女も抹殺しなければならない。

「承知いたしました。」

凛は頭を下げた。

足音が聞こえた。人払いをしている今、この足音の持ち主は一人しかいない。

「将軍か・・。」

富子の焦るような態度を見た凛は、ふっと息をついてその身を消した。富子はほっと肩を落とした。いくら将軍さまの正室とはいえ、将軍家の特殊部隊を勝手に呼び出したことが知られるときっとただではすまない。

障子が開いて室町幕府第九代将軍足利義政が入ってきた。

「どうかしたのか?」

恨めしそうに義政を見つめる富子に何も知らない義政は尋ねた。


 里に帰った凛は、すぐにこの極秘任務のことを里者に伝えた。志貴朗もある任務を与えられた。

志貴朗はその任務に反感を覚えた。だがその任務に対して反論することも、放棄することもできなかった。全身を忍者に魅入られた志貴朗に刀を持たずに人を殺さずに生きていくなど到底できそうもなかった。

志貴朗に与えられた任務、それは、八年前に死んだとされる、天皇の娘、赤紅子内親王の暗殺だった。

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