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紫月  作者: 千氏
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一章 蒼子

蒼子視点です。

第一章




 細川蒼子が生まれたのは雪の降りしきる冷たい夜のことだった。そのときのことを母の奈月はこう言っていた。

 『あなたが生まれた日の朝、月が麗しく蒼く輝いていたのですよ。だから私はあなたをとっさに蒼子と名づけたのです。』

 美しい母がそう微笑んだので蒼子もつられて笑ってしまった。いつの日も母には人を喜ばせるような、あるは心地よくさせるような、そんな力があった。そのときばかりは右目にまとわりつく不可解な陰の存在も、不思議と忘れることができた。

 蒼子には右目がない。

 何故なのか理由は不明だが、もの心が付いた頃にはすでに右側が暗かったように思う。だがそれが別に不幸だなんて思っていない。確かに右目が合ったほうが便利なのだろうし楽だ。しかし、そのことで蒼子が独眼であることを嘆いたりはしない。絶対に。


「人には受け入れなければならない何かがあります。」

いつだったか母はそんなことを言った。その日は珍しく父親が母を訪ねてやって来ていた。母はいとおしくも悲しく父のことを見つめていたが、不意に私の方に目を向けたのだ。その言葉は寧ろ蒼子言うよりも、上座で偉そうに胡座をかいている、父に向けていったようだった。母の美声は狭い家によく響いた。

「私にあるようにあなたにもあるのです。」

「お母様にもあるのですか?」

蒼子が子供心にそう尋ねると母は突然泣き出した。母の涙の雫が頬を伝った。私は慌てて母の小袖の裾を掴んで揺さぶった。

「お母様、どうなったのですか?」

「あなたのその目は私のせいなのです。私が月の動きを見なかったばっかりに、あなたは右目を失ってしまったのです。私を恨みなさい蒼子。」

「お母様・・。」

「あなたの左目は美しい。きっと神が特別に与えたものでしょう。」

父は母に目もくれることなく、破れた障子からはいる隙間風に身を委ねていた。蒼子はあのときの母の美しくも哀しい伏し目を今でも良く覚えている。


「蒼子さま、則森さまがお見えになりました。」

付き人の怜が襖ごしに伝えた。またあの男が来たのだ。

「面倒だな。」

蒼子は眼帯の紐をきつく締めなおして重い腰をあげた。独眼の嫌なところは要らぬ情けをかけられるところだ。とっくに愛情なんて忘れてしまったくせに、独眼を気遣って縁談の話やらなんやらを持ってくる。迷惑な話だ。

「蒼子さまどうなされますか?」

怜が尋ねた。

「仕方ない。お通ししなさい。」

怜は小さなため息をついた。蒼子が父に会うことを快く思っていないのだろう。この家に住む人間は皆この男が嫌いだった。外の方から馬鹿でかい声が聞こえてくる。今日も門番になにやらいらんことを言っているのだろう。ここに何日かの私の行動や、取り巻く人間関係なんかを。


 襖が開けられたときは、そこに背をむけて座っていた。できる限り顔をあわせたくない。彼は回りこんで上座に正座した。

「そんなぶっそうなもの女のお前が持ち歩くなよ。」

父、則森は腰の刀を外しながら言った。蒼子は背丈よりも長い刀を愛用している。これはある人からもらったものだ。

則森はふんっ、と鼻を鳴らして足を組みかえる。そうして独眼の顔を覗き込んだ。いらいらする。今すぐにでも刀を抜いて、この憎たらしい首を切り落としてやりたい。そうすればその頭を表の松ノ木に晒して、鴉の餌にしてやるのに。

「それはそうとこの前の話、考えてくれたか?」

「山名氏との縁談の話なら先日断りの文を届けたはずです。」

「そうではなくて、私たちと同居しようという話だ。奈月が死んでもう八年になるのだぞ。この家も古くなったしいいはなしだと思うが。」

同居?よくそんなことが言えるものだ。妾を理由に母を捨てたのはどこのどなたですか。そして蒼子は、こいつの正妻とその子供たちが大嫌いだった。何度か会ったことがあるが、何となく気高くて、偉そうで、とにかくいい印象がもてなかったことを覚えている。そんな連中と同居するなど、考えただけで吐き気がする。八年前の母の葬式以来会っていない。

「どうだ?お前ももう年頃だから身を固めなくてはならない。私の家族が嫌だというのなら、顔を合わせぬよう部屋を離してもいい。もうお前を一人で住まわせたくないのだ。」

深く息を吸い込んだ。答えは決まりきっている。

「お断りします。私はここの生活が気に入っています。貴方のようなかたと一緒に住むくらいなら腹を切ります。」

と、わざと笑顔で蒼子は言う。則森は唇をわなわなと震わせ、怒りをあらわにしている。

「何が気に入らないのだ。」

「あなたのすべてです。」

「言わせておけば・・・。」

則森の怒りには気づかぬふりをして、蒼子は微笑を浮かべたまま立ち上がりそっと襖を開けた。

「お帰りください。もう話すことはありません。もうここへ来ないことが身のためだと思いますが。さあ怜、客人を出口まで案内して差し上げなさい。」

襖の外で待機していた怜は、父の刀を抱えるとさっさと部屋を出て行った。

「蒼子、話はまだ終っておらんぞ。」

「いいからお帰りくださいませ、則森さま。」

門番の里吉が父を部屋から占め出した。すかさずぴしゃりと襖を閉める。

 放せ、私は蒼子の父親だぞ!こんな手荒なまねをして許されると思っているのか。

庭の方から甲高い声が聞こえた。蒼子うんざりして首の関節を鳴らす。その声が遠くなるのを聞きながら座禅を組んだ。父などいない。金だけを送りつけ、病気の母を見舞おうともせずに見殺しにした男。今頃父親面しても無駄だ。母はどこで間違えたのだろう。あれほど美しい人ならば別にあいつの妾などになる必要はなかったのだ。

しばらくして、怜がひどく息をきらして帰ってきた。

「どうかしたのか怜?息をきらして。」

「いえ、別に何も。」

そらした目線で彼女になにがあったのか分かった。きっとあの男のせいだろう。

「怜。」

「なんでしょう?」

「眼帯を作ってくれ。色は濃い青がいい。」

風が木々を揺らす音が聞こえた。母の胸を思った。あの日、母は一瞬のぬくもりをくれたあと、風のように逝ってしまった。

  蒼子、弱い母を許しておくれ。何もできずに、お前を残して逝ってしまうことを。

涙腺がきゅっと鳴った。左目から涙が零れた。母を思うと涙腺が緩んでしまう。何故だろう。

私は強いはずなのに。

 「蒼子さま。」

 怜は白い手ぬぐいを貸してくれた。それを黙って受け取った。

 「すまないな。いつも迷惑ばかりかけてしまって。母から私のことを頼まれていなければ好いた男に嫁ぐことができただろうに。罪な女だな私は。本当にすまない。」

 「そんな・・。苦痛だなんて思いません。私はそこらの男と結婚するよりも、蒼子さまのお世話をする方が幸せです。」

 その言葉が本心かただの慰めかは分からなかった。それでも蒼子の心は確実に満たされた。言葉はときに人を救うのだ。

 「眼帯は早速作らせますが、少々時間がかかります。」

 怜の言葉に俯き加減にうなずいた。泣き顔を見られたくなかったのだ。怜は一歩後に下がると会釈して行ってしまった。

 しっかりしなくては。

握り締めていた手ぬぐいで、暖かい怜の手ぬぐいで、左目を拭いた。とたん、右目に激痛が走った。まさかと思い震える手で眼帯の紐を解き、右目をあらわにした。青い眼帯が血で紅く染まっていた。

 「これはいったい・・。」

 右目に触れると血が付いていた。右目から血が出るなど今までになかったことだ。何かが起こる前兆なのだろうか。足が震えて立っていられない。その間にも血は頬を次々に流れていく。

 「怜よ!怜!」

 強い痛みと朦朧とする意識のなか、しきりに怜の名を呼んだ。右目が裸であることも忘れて。

 「れい・・。れい・・。」

 数分後、様子を見に来た怜が見たものは、両眼を閉じて安らかに眠る蒼子の姿だった。



 


 蒼子の屋敷を追い出された後の道のりを、則森はため息をつきながらふらふらと歩いていた。無理もない。山名氏との和睦の最後の綱が切り落とされてしまったからだ。別に期待していたわけではなかったが、一度でいいから蒼子が山名宗全の息子と会ってくれたら・・。そっと唇が動く。

  

 畜生!

 

 則森はぐっと奥歯を噛み締めた。思い出すだけで腹が煮え繰り返すような怒りが涌いてくる。それはほんの十日前の午後だった。


 父の法事のために久しぶりに細川家の本家に帰った折、則森は兄と二人っきりで酒をあおった。兄、細川勝元は細川家ので一番の出世頭で、十六歳にして室町幕府八代将軍足利義政さまの補佐役となり、今では三管領の一人となった。幕府には欠かせない重臣の一人だ。

 とはいえ、則森はこの腹違いの兄が苦手だった。勝元にはなんともいえないきつい存在感が取り巻いていて、なにか頼みごとを、たとえそれが少々無理な頼みごとでも、彼の口から発せられたものならば、必ず聞いてしまうような、そんな感じだ。

 最初に口を開いたのは勝元だった。

 「お前には二人娘がいるな・・。」

則森は猪口に少しだけ残っていた酒をぐっと飲み干して、「はい、」と答えた。

 「俺の娘になにかありますか?」

 「いや・・。ただなんとなく思い出しただけだ。名はなんと言うか?」

 「聖子の娘が柑で、奈月の子が蒼子と言いますが。兄上にもたしか娘が一人いらしたな。」

 「ああ。映子なら二年前、一色家にとついださ。蒼子のほう、歳はいくつになった?」

 勝元がきゅっと眉を寄せたのを則森は見逃さなかった。裏に何かあるなと眉間に出来た皺を睨みつけながら思った。

 「今年十五になります・・。」

 「噂によると、独眼の身ありながら絶世の美女ときく。」

 「はあ。」

 「嫁のあては何かあるのか?」

 「蒼子は嫁入りだのなんだのに興味はありませんよ。いつも馬鹿長い刀を肩に背負い、男に混じって剣術道場にかようくらいだ。はっきり言いますが奴に嫁だのなんだの言っても無駄ですよ。」

 「そこを何とか頼む。一度会ってくれればいいのだ。」

 「相手は誰ですか?」

 「山名宗全の息子だ。」

 山名宗全、兄と権力争いを繰り広げている男だ。則森は深く息を漏らした。ついに兄の台頭のために娘を動かすときが来たのだ。

 「柑ではいけませんか?」

 渾身の思いで則森は言った。蒼子よりも物分りのいい柑なら少々文句は言っても最後には首を縦に振ってくれるに違いない。しかも山名の若息子は指折りの美男子と聞く。

 「いや駄目だ。蒼子がいい。」

 「なぜそこまで蒼子にこだわりますか?先ほども言ったように蒼子に結婚の意志はありません。どれだけ言っても聞くような子ではありませんし。」

 ばくばくと高鳴る心臓をなだめるように、すうっと深く息を吸った。これほどまでに兄に対して意見を述べたのは初めてだ。勝元は盃をゆっくりと盆に置いた。皺が消えていた。

 「宗全の野郎、わしが三管領を辞職したのをいいことに権力を我が物にしおった。どうやら義政様の正妻富子殿とたくらんでいるようじゃ。それをいいことに義政様の側近であるわしに、今年十八になる若息子の嫁をよこせだと。まったく、奴は何を考えているかよう分からん。しかもわしの娘が概婚であることを知っていると、お前の娘蒼子をよこせと名指してきた。お前の娘が婚約に興味がないことなど百も承知だ。そこをなんとか頼む。宗全も富子殿も頭が切れる。このままでは幕府の権力は山名に取られてしまう。細川家を守るために頼む。とりあえず蒼子に頼むだけでも頼んでみてくれ。」

 則森は何も言えずに酒を啜った。


 予想していた通り蒼子は婚約を断り、同居しないかという則森の願いも聞き入れられることはなかった。この縁談のほかにも独眼を気遣って様々な縁談を持ちかけてみたものの、そのすべてを蒼子は断った。それに、蒼子はあからさまに則森を嫌っている。それが分かるからますます腹が立った。奈月のことを思えば、奴が自分を嫌うのも無理はない。

 「今はこんなことをしている場合ではない。」

 則森はそう独りごちた。こんなことを考えているうちにも山名は計略を仕掛けている。それにくわえてあの日野富子。美人だが計略好きで、このつい前は将軍のお気に入りの妾を自殺に追い込んだと言う。二年前に子供を亡くしてからというもの、富子は執拗に他の妾や側室を嫌うようになった。きっと自分以外の妻が産んだ子が跡取りになるのが耐えられないのだろう。義政はあの通り、政治にはあまり関心がない男だ。権力など誰のものでも良いと思っているにちがいない。このままでは富子の暴走はいっとき続くだろう。


 則森は立ち止まり、振り返って蒼子の屋敷を見つめた。こじんまりとした質素な造りのあの屋敷は二十年前に奈月がたてたものだ。一旦は室町の北にある則森の屋敷に入ったものの、正室の聖子とうまく行かずにすぐに出て行ってしまった。その後はあの屋敷にいくのが億劫になってしまい、蒼子が生まれてからは奈月に会いに行くことはほとんど無くなっていた。そして奈月は死んだ。

 娘を道具に使いたくはない。だが、そうしなければ細川家は山名家に飲まれてしまうだろう。則森はふっと息を吐いて、ゆっくりと歩き始めた。



読んでいただいて、ありがとうございます。まだまだ先は長いです。

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