僕の部屋の地獄姫
地獄があるなら見てみたい。
誰だって、一度はそう考えたことがあると思う。
ああ、いや、どうだろう。無いかな。無いかも。
でも、天国だったらどうだろう。それだったら見てみたいとなと思うはず。
そうでしょ?
けれど残念。僕は、どちらかと言えば地獄に興味があった。
あくまで、どちらかと言えばの話だけれども。例えば犬と猫、どっちが好き?とか。その程度の精度の話。
絶対に天国の方が良い? 確かにそうだ。一理ある。
もしかすると。
僕の心の中には、何か疚しい感情があるとか。何かしらの罪悪感があるとか。だから、無意識的に天国より地獄を選んでしまうとか。正直言って、それは自分でも分からない。実のところ。僕に分かることなんて、断言できることなんて、正直あまり多くない。二十うん年も生きてきた癖に、僕は本当にどうもしようのない人間なんだ。本当に。
でも、それでも。そんな僕でも。たった一つだけ断言できることがある。
それは…
地獄は、確かにある。って事。
おいおい、何を言い出すんだコイツは。そう言いたい気持ちはわかる。だが、事実だ。半面、天国があるかどうかは知らない。でも、地獄はある。確実に。絶対に。間違いなく、ね。
それじゃあ、どこにあるか言ってみろ。絶対にあると証明して見せろ。うんうん。その言い分は最もだ。
百聞は一見に如かず。
それじゃ、早速お見せしましょう。こちらが……《地獄》でございます。
◆
「みらい、みらいはまだか!」
―― 未来はまだか。
このセリフだけを聞くと。これから、何だかとてつもなく高尚な物語が始まるような気がするかもしれない。例えば…未来を求め、未来を勝ち取るため奮闘する、そんな若者たちの群像劇。
断言しよう。
それは、ただのまやかしだ。
それは、単なる気のせいだ。
それは、君の大きな勘違いだ。
まず第一に、《彼女》の言うみらい、とは、過去現在未来の未来ではなく、単純に人物名のことである。
そして第二に、かくいうその未来とは、他でもない僕の名前のことである。残念ながら。そこには高尚さも重厚さも存在しないのだ。本当に、残念ながら。
「ごめんごめん、姫。さぁ、お待たせしました、こちらカルピスのコーラ割りでございます」
彼女の前で一礼し、恭しくもグラスを運ぶ健気な僕。そりゃそうでしょ。だって相手は、《姫》なんだから。一応ね。
「うん! くるしゅーないヨ!」
先程までの不機嫌模様から一転。満面の笑みでコップを受け取る彼女。猫ちゃん柄の、小さなコップを。
「おっと、慌ててこぼさないようにね」
全く、子供なんだから。そんなセリフが喉から出かかったものの、慌てて呑み下す。そもそも、僕は彼女の年齢を知らない。それなのに、勝手に子供などと定義するのは、きっと良くないことだと思ったからだ。
「しっけいな、しっけーな! わちのどこが子供なのじゃ!」
まんまその見た目が。
あくまでも一般論、あくまでも一般的な判断、常識という見たまんまの物差しで測るならば。間違いなく、彼女は子供だろう。
その身長は、恐らく140センチもないだろう。特徴的なギザ歯と、短い手足。月並みだが、陶磁器のような白い肌。だが何より特徴的なのは、その髪だろう。赤、もとい、ドぎついワインレッドのツインテール。何と言うか、こう、見ていると何だか不安になる色合い、とでも言えばいいのか。よく見ると、青や黒のちりばめられた、ちょっと不思議でドぎついワインレッド。とても自然の色合いとは思えないし、ましてや人工的な人の手の入った色合いとも言い難い。故に、見ていると不安になる色合い、としか表現ができないのだ。
彼女曰く。地獄の、血の池の色…だそうだが。
「ははは。ごめんね、姫」
「わちは客人ぞ? 姫ぞ? 恩人ぞ? もっと、あれじゃ。ちょーのようにまい、はちのようにさす、的なあれ、あるジャン!」
「あー。蝶のように花のように、丁重に扱ってよ、的な?」
「知っておった。わち、それ知っておったもんne!」
「うん。流石は姫。よっ、鬼の中の鬼。姫の中の姫」
「えへ。じゃろ?」
満面の笑顔を浮かべる姫。怒ったり、笑ったり。彼女の顔を見ていると、全くもって退屈しない。
だからってわけじゃないけど、彼女が、子供だとか、大人だとか。何歳だとか、何者だとか。ましてや、本当に鬼かどうかだなんて。そんなこと、どうだっていいって、そう思わないかい?
はい。
嘘です。
せめて、せめて、人外であらせられるという事だけは真実でないと、ほら、ね、色々とまずいから。色々と。今のご時世。あれだから。あれ。
「ごほん」
などとのたまう内に。彼女から、いつものように合図の咳払い。やれやれ、今夜も頑張りますか。
「さぁ、わちの準備は万端ぞ。今宵も」
――《月曜会》を始めようぞ
◆ ◇ ◆
むかしむかし、あるところに、一匹の悪魔がおりました。
とてもとても勤勉な悪魔がおりました。毎日毎日。人間達を、騙し、謀り、誘惑し。最後にはその命を喰らい尽くす。そんな、悪魔の中の悪魔がおりました。
「やれやれ。今日も良く働いた」
今日の業をなし終えて、ほっと一息つく悪魔。毎日毎日残業続き、本当、働きづくめだなぁ。悪魔が、悪魔的な小言をぼやきます。
そんな悪魔のもとに一羽の鳥、もとい、一翼の天使が近づいてきました。
「やぁやぁ、悪魔君。ごきげんよう」
「ん? 君は、キューピット君。ああ、お疲れ」
悪魔のそんな言葉通り、天使は天使ではなくキューピットでした。
確かに、その手にはキューピットの象徴たる立派に輝く弓と矢が握られておりました。
「おいおい。疲れているのは君の方だろ? 悪魔君。いつにもまして顔色が悪いよ」
「確かにね。どうやら、このところちょっとばかり働きすぎなようなんだ」
「そんな君に朗報だ。とある人物からの依頼でね。今日は、君を、射貫きに来たんだ」
「射貫きに? その弓で、俺をかい?」
「ああ、そうだよ」
「確か、君たちキューピットの弓矢は、恋心を操るというが」
「ご名答。実は、君のことが好きだという奴がいてね。そいつの依頼で、君を射貫きに来たんだよ」
「へぇ。俺の事が好きだなんて。奇特な奴がいたもんだ。そいつは誰だい? 人間かい? それとも天使? まさか悪魔じゃあるまいね?」
「内緒さ。本来なら、相手に気づかれないよう弓を引くんだけどね。ほら、君には手の内がばれてるし」
「なるほどね。面白いじゃないか。実は、俺も、そろそろ仕事以外のことがしたいなと思っていたところなんだ」
「うん。それは丁度良かった」
「確か、金の矢は恋心。黒の矢は憎悪の感情を引き出すんだったか?」
「へぇ、やっぱり良く知ってる。だったら、準備はいらないね?」
それじゃ、いくよ。
キューピットは、手にした弓矢を悪魔に向けて構えます。
ただし。
金でもなく、黒でもない。鈍く輝く鼠色のその矢を、悪魔の心臓に向けて構えます。
「ま、待て、ちょっと待ってくれキューピット君! それは、その色のその矢は?」
「ああ、これかい? 何だ、物知りな君でもこれは分からないのかい?」
そう言い終えるや否や。
天使は、矢を、放ちました。
百発百中の腕を持つキューピットです。その矢はもちろん、悪魔の心臓に見事命中。
矢は心臓を貫通し、ぽっかりと空いた悪魔のその胸からは、ぼたぼたぼたぼたと、まるで滝のように大量の血液が流れ落ちていきます。
「悪魔君。これはね、この矢はね……ただの鉄の矢、だよ」
何が起こったのか分からない。
その場で倒れこみ、息も絶え絶えな悪魔は、何とか力を振り絞り尋ねます。
「鉄の矢? その、効果は?」
「おいおい何を言ってるんだよ悪魔君。そんなの決まってる…」
――普通に、死ぬだけ、DEATH。
満面の笑みを浮かべたキューピットが。天使のような悪魔のような笑顔を浮かべたキューピットが、大きく両手を広げて天を仰ぎながら、まくし立てます。
「だって、だって君が悪いんだよ、悪魔君。君が仕事をしすぎるからいけないんだ。ボクの仕事相手だった人間を、恋人たちを、ことごとく殺してしまうから。ああそうだ昨日だって、あと一歩のところで、もう一歩のところで二人はくっつくところだったんだ。なのに君ときたら、人間たちを騙して、たぶらかして、誘惑して。挙句の果てに殺してしまうんだもの。そりゃ、君にしたらただ単に仕事をしていただけかもしれないよ。勿論、君にだって、悪魔たちにだってノルマがあるのは知ってるよ。人間たちをいかに騙せるか、命をどれだけ奪えるか。今のご時世どこだってそうさ。勿論ボク達キューピットだってそうだ。どれだけのカップルたちの恋を成就させたか。当然ノルマだってある。昔はね、そりゃ昔はさ、適当にばーんと矢を射れば適当にカップルになってたんだよ。あいつら。でもさ、今のあいつらときたらもう本当に面倒なんだよ。君だって知ってるだろ、あいつらときたら、映画や小説、漫画の世界が、あたかも現実にも起こりえると思ってるんだ。ドラマのような恋愛が本当にできると思ってるんだ。本当、ばかばかしいったらありゃしない。ね?君もそう思うだろ?おいおい、さっきからボクの話聞いているのかい?そもそも、君があの子を殺しさえしなければ、今頃ボクだってキューピット業界をクビにならずに」
――ああ、世知辛い。
そんな事を思いながら、悪魔は息を引き取ったのでした。
ちゃんちゃん。
◇ ◆ ◇
「さ、この話はこれでお仕舞。どうだったかな?」
「にがい」
「うん」
「悪魔君かわいそす」
「そうかな?」
「じゃが、気に入った。わち、この味、結構好きかもne!」
そんな姫のお言葉を受け、ほっと一安心。僕は、椅子から立ち上がると、恭しく一礼し、言う。
「姫、今宵も健啖家なご様子で、何よりです」
「えへ。みらいー、これ、お代わりちょーだい!」
猫ちゃん柄の小さなコップを振り回し、何だがご機嫌な様子の姫。そんな無邪気な姿はやはり、とても鬼にも姫にも見えやしない。ましてや、地獄そのものだなんて。
「構いませんが。ところで、姫の好きなこれ、このカルピスのコーラ割。実はちょっとした名前があるんですけど、ご存じですか?」
「すーぱーあまあまちゃん!」
「ぶっぶー。正解は…」
《キューピット》
はい、お後が宜しいようで。