03「アフター・ウォー「戦後処理」」
第二次世界大戦直後に元帥に昇格したアイゼンハワーは、極東方面軍総司令官に就任した。
合わせて、日本を中心とした全東アジア地域の占領統治の最高責任者となった。
そして彼の優れた手腕により、わずか3年で東アジアに安定をもたらす事になる。
彼は、軍人、政治家の双方において、決断を下す人物として最良の人物だった事を示した。
第二次世界大戦終了当時、ソ連軍が満州国境を越えるのではないかと考えられたが、そうはならなかった。
意外かもしれないが、現地日本軍(関東軍)が比較的健全な状態を維持していた事が理由の一つとされている。
あまりにも破滅的なニミッツとアイゼンハワーの通商破壊作戦が日本軍の移動を阻止しすぎていたため、満州にいた精鋭部隊の多く(装備優良な10個師団ほど)が太平洋や日本本土への移動もままならず取り残された形になっていたからだ。
しかもアメリカ軍は、欧州での占領統治を踏襲して、占領もしくは抗戦した国に対してのみ武装解除や降伏手続きに応じるように通達していた。
加えて太平洋方面軍は、アメリカ軍の多くが台湾占領後に中華民国軍の実状を直に見た事もあって、中華民国軍を日本占領に参加させては、後々問題が発生すると考えるようになっていた。
中華民国政府は、政治家、軍人、官僚を問わず、あまりにも近代文明人としてのモラルが低すぎたからだ。
だいいち、アイゼンハワーの分析と私見では、蒋介石と国民党は低俗なファッショだった。
中華民国が連合国側でなければ、ナチスや日本共々叩きつぶしたいほどだった。
民主化すべき地域に入れるべきではないのは、当然の判断と言えただろう。
彼のそうした考えが、日本に対する甘い措置になったとすら言われたほどだ。
無論だが、アイゼンハワーが突然日本びいきになったわけではない。
全てはアメリカのために、東アジアでアメリカにとって有益となる国を残すために必要な措置だった。
そして連合軍が終戦までに手を付けられなかった満州、朝鮮に対しては、アメリカ軍進駐までの現状維持が日本側に通達された。
それまで、現地での日本の主権は暫定的に保持されることになった。
台湾については、米軍が軍事占領したのだから、当然米軍による占領統治が実施される事になった。
中華民国の言葉は、現実的でないとして聞き流された。
台湾で血を流したのは、アメリカ人であって中華民国人ではなかった。
この事実は、アメリカの内政面でも重要だった。
このためソ満国境は、米軍が進駐してくるまで変化はなく、ソ連軍が火事場泥棒を行うこともできなかった。
現地日本軍は、半ば臨戦態勢で国境の全てを閉ざし続けた。
また中華方面の日本軍の多くが、終戦までに本土決戦の準備と台湾近辺の沿岸防衛のために沿岸部に向かって戦線を大きく縮小し、その一部が大連からの移動のために満州国に流れていた事も、満州での日本軍増大に大きな影響を与えていた。
こうして日本軍は、アメリカ軍が進駐してくるまで現状を維持し続けた。
しかも大陸の日本軍は、中華民国の国民党や共産党に負けたとは全く考えていなかったため、中華各勢力が独自行動で降伏と武装解除を求めてきても、銃を向けてまでして無視した。
日本側が中華各勢力に行ったのは、実質的には戦闘停止だけだった。
加えてアメリカ軍に対して武装解除するために、どんどん満州や朝鮮へと移動していった。
台湾島近辺の沿岸部に移動した部隊も多かった。
ゴロツキや夜盗と大差ない中華民国軍の武装解除に応じるぐらいなら、アメリカ軍への降伏手続きと武装解除を行う方がマシだからだ。
しかも中華民国側の国民党は、共産党に日本軍の武器、日本資産、財産、人的資源を渡さないで済む方法だと理解すると、日本軍の動きを支援するようにすらなった。
満州はともかく、他の地域から日本軍がいち早くいなくなることも、国民党にとっては魅力的だった。
しかも日本軍は、華南、華中から先にいなくなるので、尚更好都合だった。
加えて日本軍側は、中華民国軍が武装解除した武器を彼らが横領もしくは着服する傾向が強いとアメリカ軍に訴え、これが当時台湾にあった現地米軍司令部に認められてしまう。
米軍としては、共産党に不用意に武器を渡さないことが、中華地域の平和的統合の促進とアメリカの国益に合致すると考えた。
そして終戦後の日本軍は、取りあえず自分たちの地盤が数ヶ月であれ残されている満州へと向かう向きを強めた。
日本本土に帰るにしても、満州の方が早く帰れる可能性が高いからだ。
そして連合軍が極東各地に溢れるようになる1945年春になる頃には、約百万の大軍が武器を携えたまま満州領内に溢れることになった。
これでは、弱体なまま半ば放置され、レンドリースも止まったソ連極東軍では手出しのしようがなかった。
ソ連も大量の軍隊を極東に動かしてみたが、日本軍との戦闘の間にアメリカ軍が漁夫の利を持っていくと考えると、結局動くに動けなかった。
しかも日本軍は、米軍進駐まで満州国と朝鮮半島での現状維持も言い渡されていたので、域内での中華共産党勢力、朝鮮独立勢力の蠢動に対しても断固として対応した。
そしてこれまで通り敵対勢力を踏みつぶしてしまい、さっそく政治問題化したほどだった。
日本人はアメリカに負けたのであって、アジアの他の勢力に負けたとは考えていなかったが故の状況だった。
そうした状態で占領軍総司令官として東京に乗り込んだアイゼンハワーだったが、彼の能力は軍人や戦略家としてよりも調整と統治に真価を発揮した。
彼は、優れた軍人であったが、より優れた政治家でもあったのだ。
日本勢力圏での占領統治は、かつての上司だったマッカーサーのアメリカ大統領に対する「助言」もあって、勝利した国、つまりアメリカによる日本単独占領路線が強く提示されていた。
イギリスは強引に割り込んできたが、結局たいした役割を果たさなかったと判断された中華民国は、自国の情勢が安定するまで満州国と台湾にすら入ることを許されなかった。
当然ながらアメリカが共産党を警戒したが故の決定でもあった。
国民党に対しては、まずは国内での日本軍の撤退の監視と共産党との友好関係維持もしくは押さえつける事を求めた。
共産党の側も、ソ連からの助力が難しい上に米軍が台湾や満州主要部に陣取ると、積極的な行動に出られなかった。
特に共産党にとっては、日本軍降伏後に日本軍の装備、日本の資産をほとんど奪えなかった失点は大きすぎた。
なおアメリカ本国では、日本占領統治での兵力が大幅に不足するという懸念が強かった。
だが、アイゼンハワーの編成したシンクタンクが行わせた研究調査とその後の実状により、少ない兵力で十分だった事がすぐにも分かった。
少なくとも日本本土に対しては、当初60万の見積もりは全く過剰で、慌てて用意された多くが満州など大陸の占領統治に転用された。
天皇を保全するだけで、統治兵力は最大でも予定の半数で済むと考えられ、実際はそれ以上少なく済んだ。
そして共産党の総本山たるソ連だが、終戦時に日本との中立条約が存在したため、日本に対してソ連は連合国に含まれないとして、占領統治を要求する以前の問題だと門前払い状態とされていた。
それでもソ連は、東アジアでの共同占領を持ちだすなど口うるさかったが、直接交渉に出てきたアイゼンハワーの巧みさに、スターリンもモロトフも敵わなかった。
前線の軍人程度では話にもならなかった。
満州や台湾に入れろとわめき立てた蒋介石も、強かな筈の毛沢東も形無しだった。
しかもアイゼンハワーの後ろには、強大な米軍がいるとあっては尚更だった。
日本と旧日本勢力圏の占領統治のために、60万人の米兵と強大な米軍が控えていた。
百万の軍隊をシベリアに移動させたスターリンだったが、ついに進撃命令を出すことはなかった。
アメリカ軍主導のGHQの日本占領統治は、当初から好調な滑り出しを見せた。
各地から日本本土に復員や帰国を余儀なくされた人々にも、アメリカは可能な限りの配慮を示した。
その方が、結果的にアメリカの負担が減るからだ。
徴兵されていた兵士は、従順である限りにおいてだが、除隊させて帰省させるに限るのは当然だった。
大陸で押収された膨大な軍需物資に関しては、評価額を算定した後に一部が中華民国への賠償として残され、最終的に共産党の手には僅かな量の武器しか渡らなかった。
難しい筈の旧満州国での占領統治も、米軍主導の軍政によって治安は維持され、帰国までの日本人の権利は最低限保持された。
第一次世界大戦のパリ講和会議以前に日本が得た利権の一部も中華民国への賠償とされ、武器と満州利権の賠償によって中華民国は以後の対日賠償を放棄させられることになった。
それ以上のものを得たのだから賠償放棄は当然だろうと、国民党のあまりの強欲さに辟易としたアメリカ側が言い放ったほどだった。
また満州同様GHQによる軍政が実施された朝鮮半島だが、こちらでは日本本土と連動した双方の帰国事業が強力に推し進められた。
さらに、その後の問題をなくすため、再渡航は連合軍の手により厳しく禁止された。
これはアイゼンハワー率いるGHQが、占領統治の上で民族問題による混乱を嫌ったからだった。
実際、終戦後の日本本土ではかなりの混乱が見られており、早々に日本軍事力の再建が必要なのではとすら考えさせたほどだった。
また、朝鮮半島住民の手のひらを返したような行動を、中立的な良識家だったアイゼンハワーは個人的に嫌悪してもいた。
彼は、アメリカ政府が押しつけてきた朝鮮仮政府代表のイ・スンマンを、嫌悪していたとも言われている。
また日本本土の占領でも、様々な民主化政策と共に最低限度の経済復興と流通網の維持に力が入れられた。
その方が治安が安定し、占領統治の手間が省けるからだ。
そして財布の中身がない事と食糧不足は仕方なかったが、アメリカ主導の民主化によって日本では革新的な変化による成果が、短期間でもたらされていた。
戦争末期に言われていた餓死者もほとんど出る事はなく、生活の困窮は戦争末期よりもはるかに改善した。
日本各地にアメリカ兵とアメリカ軍がもたらしたアメリカ的な文物が溢れたが、それも昭和の黒船と歓迎される向きすら生まれたほどだった。
いつしか日本人たちは、アイゼンハワーこそが実質的に日本を救う人物だと考え、強く信奉すらするようになっていた。
その名になぞらえて、愛染明王の権限と言う者まで出たほどだった。
事実彼の冷静な分析と行動によって日本本土はアメリカの単独占領統治となり、満州や朝鮮にも占領統治中にロシアやチャイナが不用意に入り込むことはなかった。
アメリカ本国がある程度共産党勢力を警戒し、またそれ以上にアジアでの利権と新たな市場を求めた結果でもあったが、アイゼンハワーの手腕なくして全ては適わなかっただろう。
無論アイゼンハワーの統治は、ベストではなかったかもしれない。
だが、モアベターであったことは間違いなかった。
しかも1945年4月のルーズベルトの死によってアメリカの反共産主義的態度は強まり、アメリカ政府からの深い理解を勝ち得るようになったアイゼンハワーの極東統治はより円滑なものとなっていった。
一方一足早く戦争が終わったヨーロッパだったが、こちらは安定よりも先に団結に向かっていた。
マッカーサーの巧みで派手やかなアジテーションによって、いち早く欧州全土が反共産主義に染まっていたからだ。
その上独善的なマッカーサーの横暴とも言える姿勢は、ルーズベルトの死によって加速した。
大統領職を引き継いだ頃のトルーマン程度では、制御することは事実上不可能だった。
トルーマンはアメリカの大統領かもしれないが、マッカーサーは欧州の事実上の覇者だった。
合衆国軍元帥は合衆国大統領よりも格が上だと、世界各地で皮肉られたほどだった。
しかもマッカーサーは、軍人としてばかりでなく軍を介したとはいえ政治家としても優秀である事を、自らの占領統治の中で示した。
少なくとも優れた強権的統治者、占領統治者、そして優れた「総督」だった。
ヨーロッパの心ある人々は、マッカーサーの事を「ガバナー・オブ・ヨーロピアン(欧州総督)」と影で呼んだ。
だが彼の統治は、ドイツやポーランド、旧枢軸諸国に自由と解放そして民主化をもたらすと共に、いち早く秩序と復興、アメリカに対する好感情をもたらした。
アメリカの誇る豊富な物資が、それを大きく後押しした。
なおこの一部には、10億ドル相当の未消化分の対ソ連用レンドリースも活用されたという。
この結果、ヨーロッパでの共産主義の浸透は防げたが、逆にイギリス、フランスとアメリカとの間にいらぬ不信感と不快感を植え付けることになった。
アメリカの欧州支配が強まると映ったからだ。
またアメリカとソ連の関係も、いち早く悪化した。
あまりにも欧州での占領統治が、アメリカというよりマッカーサーが中心になりすぎたからだった。
しかもマッカーサーは、共産主義者をまったく信用していなかった。
その後マッカーサーは、巨大な勝利と実績を武器に1948年の選挙でアメリカ大統領となることを望んだが、アメリカ本国の中枢は欧州にはマッカーサーが必要だとして、そのまま占領軍総司令官に据え置いた。
事実ポーランドやルーマニア国境では、ソ連軍との静かなにらみ合いが徐々に熱を帯び始めていた。
フィンランドでは、どちらの勢力圏に置くかでももめていた。
しかし一番の問題は、バルト三国問題だった。
終戦までにドイツ軍の後ろから米軍が進駐して、自由政府が独立復帰宣言まで行っていたからだった。
連合国各国はバルト三国の独立復帰は当然だとしたが、ソ連は第二次世界大戦とバルト三国問題は別扱いすべきであり、ソ連に対する政治干渉だと強く反発した。
しかしマッカーサーは、ソ連の言い分を否定した。
バルト三国問題は第二次世界大戦と深く連動しており、連合軍の手によってナチスドイツの影響を排除して、民主的な手続きによって再独立させるべきだとした。
しかも戦争終盤でソ連より早くドイツ軍後方のバルト三国に入り、これらの地域を実質的に自らの勢力圏に飲み込んでいた。
名目、実質共に、アメリカの勝ちだった。
第二次世界大戦終了後のソ連の勢力圏は、ソ連中央部が大戦中盤頃から目指した野心的なものからは著しく小さなものとなった。
何しろ自国以外の共産主義国は、以前同様にモンゴルただ一国しかなかったからだ。
ヨーロッパにもアジアにも政治的プレゼンスは展開できなかった。
影響力も最低限のままだった。
しかも、ヨーロッパでもアジアでも嫌われ者だった。
つまり戦争前と何も変わっていなかった。
経済面では、国土と産業が荒廃した分だけ大損だった。
人的被害も、今後最低でも半世紀は影響し続けると見られていた。
他にも悪いことばかりだった。
地域覇権国家だったドイツと日本がアメリカの軍門に下り、アメリカの優位は圧倒的という以上に変化していた。
アメリカとの勢力圏同士におけるGNPの差に至っては、10倍近い差がついてしまっている。
その上東欧、北欧、極東(旧満州及びオホーツク方面)の全てでアメリカ軍と直に接触してしまい、安全保障上の大きな問題だった。
しかも戦争後半にドイツ軍が破壊したソ連国内の社会資本を、補填するべき欧州及び日本勢力圏での略奪的侵略が行えなかった事は、戦後のソ連経済をひどく悪化させてしまう。
ソ連全土では、アメリカのレンドリースが戦争終了と共に止まった途端に、生活物資の不足が深刻な問題となっていた。
これらの現状は、ソ連が共産主義拡大路線と覇権主義を捨てて自ら西側と友好的に接しない限り、ソ連の復興と発展はあり得ない事を現していた。
そうでない場合は略奪的戦争を行うしかなく、行うべき時間制限はひどく限られていた。
何しろ全ヨーロッパは反ロシア、反共産主義で染まっており、極東地域もほとんど同様だったからだ。
恐らくドイツと日本が主権復帰してある程度国力を取り戻す頃には、欧州とアジアの全ての国がソ連共産主義体制の打倒を叫ぶようになるだろうと、ソ連指導部は予測した。
彼らは世界の異端であることは自覚していたからだ。
しかも問題は外交ばかりではなかった。
戦後ソ連国内では多くの面で物資がひどく不足したため、民心も不安定となりつつあった。
今は戦勝ムードがあるのでごまかせるが、この効果も短期間しか持たない。
強力な指導体制によって抑えつけることは簡単だったが、外征で人民の気を反らせることの方がはるかに簡単だった。
と言うより、当面国内経済がどうにもならないので、一か八かの外征に討って出るより他にないというのが実状の要約でもあった。
しかも欧州では、アメリカによる事実上の一極支配状態にイギリス、フランスが反発を示していた。
これはチャンスにも見えた。
状況としては、皮肉な事に第二次世界大戦直前のドイツや日本に近いと言えるだろう。
かくしてマッカーサーが作り出したヨーロッパでの団結と軋みが、ソ連とアメリカを中心とした第三次世界大戦を発生させることになる。
全ては反共産主義者のマッカーサーがヨーロッパ全土を反共で染め上げた事と、ソ連を追いつめてしまうほど素早くアメリカ軍を前進させてしまったからであった。
また一方で、極東でのアイゼンハワーの完璧な戦争運営と同じく完璧な占領統治、戦後政治が、逃げ道を探していた共産主義者の退路を断ったとも言えた。
当人達は連係プレーをしたつもりは全くなかったのだが、アメリカという国家全体で見た場合は、非常に優秀な世界戦略が形成されていた事になる。
これに気付いたのは皮肉にもマッカーサーその人であり、彼はかつての副官の「そつない動き」を称賛したと言う。
一方のアイゼンハワーは黙して語っていない。
だがこの二人の総司令官は、アメリカの金槌と金床だった。
そしてソビエト連邦は、歴史上空前のハンマーによって叩き潰されようとしていた。
少なくとも、大陸国家的圧迫を感じているソ連はそう考えた。